シュン、と音を立てて空から風の犬のルルが舞い下りてきました。ポチがそれに続きます。とたんに、金の泉のほとりに風が巻き起こり、周囲の森がざわめきました。草や花が激しく揺れ、蝶たちが吹き飛ばされていきます。
けれども、風の犬たちが元の姿に戻ったとたん、風はやみました。白い子犬のポチの隣に、茶色の綺麗な犬が立っています。子犬と成犬のちょうど中間くらいの大きさで、長い毛並みのところどころで銀色の毛が光っています。天空のもの言う犬のルルです。ポポロとは小さいときから一緒に育ってきた、姉のような存在の犬です。
フルートたちはルルに駆け寄って、口々に尋ねました。
「ルル、どうしたの?」
「おい、ポポロは一緒じゃないのかよ!」
「なんかあったの!?」
ポチも心配そうにルルを見上げました。ルルは小さなポチより二回りくらい体が大きいのです。
すると、ルルは首をかしげるようにして仲間たちを見回し、すまなそうな声で言いました。
「ごめんなさいね、あの子は地上に来られないのよ。修行の塔にこもって修行の最中なの」
ルルは十四歳で、仲間たちの中では最年長です。自然と姉が妹弟たちに話しかけるような調子になっています。
フルートたちは驚きました。
「また修行しているの? いつから?」
「この前フルートのところへ来た翌日からよ。もうすぐ三ヶ月になるわ。……ほら、北の大地の戦いでは、ポポロの魔法が魔王に奪われて、もう少しで世界中が津波に押し流されるところだったじゃない。北の大地も崩壊しそうになったし。またあんなふうに自分の魔力を使われたら大変だ、ってあの子は考えたの。天空王様にお願いして、自分の魔法を悪用されないための修行にこもったのよ」
子どもたちはまた驚きました。確かにそのとおりです。三ヶ月前の戦いでは、少年たちは北の大地で魔王を倒し、魔王にさらわれていた少女たちを助け出すことができました。けれども、魔王は何度でも新しく現れてきます。次の魔王がまたポポロをさらって、その魔力で世界を征服しようと考える危険性はずっと続くのでした。
ルルは話し続けました。
「あの子が今やっているのは、自分の光の魔力を強めて、闇につけ込まれなくするための修行よ。闇のものが自分の力を奪えないようにしているの。修行は半年間。その間、あの子は一歩も塔の外に出られないし、外の人に会うこともできないのよ。返事もできないわ。その決まりを破ったら、それまでの修行は全部無駄になってしまうから」
「ワン。半年間ってことは、あと三ヶ月は修行が続くってことなんですね」
とポチが言いました。
フルートは小さく頭を振りました。
「知らなかった……ポポロはそんなことは全然言ってなかったから……」
ところが、その一言をゼンが聞きとがめました。
「おいこら、何だそれ? さっきから聞いてると、北の大地の戦いの後にもポポロがおまえに会いに来たみたいじゃないか。どういうことだよ?」
「え……」
フルートはうろたえたように口ごもりました。その顔がみるみる赤くなっていきます。それを見て、ゼンは友人に飛びつきました。
「この野郎、やっぱりぬけがけしてやがったな! こら、白状しろ! いつどこでポポロと会ったんだ!?」
ゼンは怪力のドワーフです。力では絶対に振りほどくことができなくて、フルートは悲鳴を上げました。
「痛い! 痛いったら! ……ぬけがけしたわけじゃないよ! ぼくが熱を出したときに、ポポロが天空の国から薬草を届けに来てくれただけなんだよ!」
「あぁん? それならなんでそんなに赤くなるんだよ? やっぱり怪しいぞ、こいつ!」
「違うったら! 本当にぼくは三日三晩高い熱が出て、具合が悪かったんだったら! そんなで何かできるわけがないだろう!」
「いいや、そんなのわかるもんか! おまえはおとなしそうな顔してるくせに、変なところで急に積極的になるからな! 具合の悪いどさくさに紛れて、なんかしたんじゃ――」
「してないったら!!」
一応喧嘩はしているのですが、何故かじゃれあっているようにしか見えない少年たちです。ポチとルルがあきれたようにそれを見上げていました。彼らはフルートが言っているとおりだと知っているのですが、仲裁に入る気にもならないようでした。
そして、そんな少年たちの様子を、メールが黙って眺めていました。その顔はひどく淋しげです。やがて、彼女は小さく肩をすくめると、くるりと背中を向けて泉へ向かって歩き出しました。
「王女様?」
泉の中から顔を出していたマグロが不思議そうに声をかけましたが、メールは返事をしませんでした。そのまま泉へ入っていこうとします。
すると、マグロの隣から泉の長老が尋ねました。
「どうするつもりじゃ、メール?」
その声は静かですが、泉のほとりに、はっきりと響きました。喧嘩していた少年たちも、それを見ていた犬たちも、はっとメールを振り向きました。フルートが声を上げます。
「どこへ行くの、メール!?」
メールは、ぎゅっと唇を歪めました。本当は呼び止めた長老をにらみつけたいところでしたが、さすがにその勇気はなくて、泉の表をじっとにらみます。
「何やってんだ、おまえ? また海にでも戻るつもりかよ?」
とゼンもあきれたように尋ねてきます。メールはいっそう大きく口を歪めると、一呼吸おいてから、少年たちを振り返りました。その時にはもう、いつもの気の強い表情に戻っていました。
「そうさ。ポポロがいないんじゃ、ルルも来ないんだろう? 女はあたい一人じゃないか。そんなの、つまんないもんね」
それを聞いてゼンは顔をしかめました。友人を放して腕組みします。
「抜かせ。おまえが、誰かとつるまなきゃ何もできないような、普通の女のわけないだろうが。らしくもないこと言ってんじゃねえよ」
たちまちメールは、むっとしました。気の強そうな顔が意固地な表情に変わっていきます。
「どうせあたいは普通の女じゃないよ! 渦王の鬼姫だもんね! ポポロもルルもいなくて、あんたらとだけじゃ面白くもないって言ってんだよ!」
「なんだと――!?」
ゼンも怒った声を出します。フルートとじゃれていた時と違って、今度は本当に不機嫌になっています。一気に雰囲気が険悪になっていきます。
あわててフルートが口をはさみました。
「よせよ、ゼン。何をむきになってるのさ。メールも、帰るなんて言い出さないでよ。せっかくこうしてまた会えたんだからさ」
「顔を合わせるたびに悪口ばかり言われてたんじゃたまらないよ! ホントにやなヤツなんだから、ゼンは!」
「なにぃ? 本気と冗談の区別もつかないのか、おまえは! そんな馬鹿だったのかよ!?」
「えーえ、どうせ馬鹿ですよ。やっぱりあたいは西の大海に帰る。ゼンの顔なんて見たくもない!」
ゼンは思わず絶句して、次の瞬間、すさまじい目でメールをにらみつけました。そんならとっとと海へ帰れ! と売りことばに買いことばでどなりそうになるのを、やっとのことでこらえます。……本当は違うのです。本当にゼンが言いたかったのは、そんなことではありません。ゼンはただ、すねて帰ると言い出したメールを引き止めたかっただけなのです。顔も見たくない、と言うメールの声が胸に突き刺さってきます……。
フルートは溜息をつきました。ぷんぷん怒り続けているメールの前に立つと、じっとその目を見ます。
「ねえ、メール。それじゃぼくたちはどう? ぼくの顔を見るのも嫌なのかい?」
フルートもメールも瞳の色は同じ青です。でも、メールの目が深い海の色ならば、フルートの目はどこまでも続く広い空の色です。自分より身長が低いフルートに見上げられているはずなのに、なんだか高い場所から見下ろされ、心の中までのぞき込まれているような気がして、メールは思わずたじろぎました。気がつかないうちに、その顔が赤くなっていきます。
「そ、そういうわけじゃないけど……。フルートは別さ……」 その瞬間、ゼンが何とも言えない表情になったのに、メールもフルートも気がつきませんでした。
フルートは静かに言い続けます。
「それじゃさ、やっぱり一緒に行こうよ。ジュリアさんだって、ポポロやルルだけじゃなく、メールまで来ないとわかったら、きっとすごくがっかりするよ」
メールはことばに詰まりました。ゴーリスの奥方のジュリアは、優しくてとても魅力的な女性です。メールたちはそんな彼女が大好きで、ぜひまた会いたいと、ずっと思い続けていたのでした。
「……わかったよ。フルートがそこまで言うなら、あたいも行くよ」
とメールはやっと返事をしました。ゼンの方は、ちらとも見ようとしません。そして、ゼンはゼンで、そんな二人に背を向けて、腹を立てたようにそっぽを向いていました。
人の感情を匂いで読むことができる子犬が、やれやれ、と言うように、こっそり小さく首を振りました――。
「長老、ここの花を少し借りてっていいかな?」
とメールが泉の長老に話しかけました。メールは気分屋です。機嫌が悪くなるのもあっという間なら、機嫌を直すのもたちまちで、もう明るく屈託のない表情に戻っていました。
「ポチにあたいまで乗るのは重くて大変だからさ、あたいは花鳥を作ってそれに乗ってくよ」
「ワン、ぼくはディーラまではフルートたちを運びませんよ。そんなことしたら、つぶれちゃう」
「わかってる。シルの町のフルートの家まで花鳥で行くって言ってんじゃないのさ」
メールの父は海の王ですが、母は森の姫と呼ばれた森の民です。メールは水中でも呼吸をして自在に泳ぎ回ることができますが、同時に、花で思いのままのものを作って操れる、花使いの力も持っているのでした。
と、花使いの姫が、急に気がついたように笑いました。
「そういや、あたい、フルートの家に行くのは初めてなんだね。フルートのご両親にも、まだ会ったことなかったっけ」
「そう言えばそうか。お父さんもお母さんも、メールたちのことはもう、すごくよく知ってるんだけどね。きっと、想像していたとおりだ、って言うと思うよ」
とフルートが笑顔を返します。
すると、長老が言いました。
「この泉の花はあまり外に出せんのじゃ。ここに咲いているのは星の花と言って、光の花の一種じゃ。むやみに外に持ち出すと、そこの生態系を狂わしてしまうからの」
と泉のほとりで揺れる青と白の小さな花を示して見せます。それは本当に、地上で光る星々のように見えていました。
あれ、とメールが声を上げました。
「あたい、ここの花、花鳥にして北の峰まで持ってっちゃったよ。こないだゼンに呼ばれたときにさ」
「あれはまだ咲いてるぜ。秋になったのに、あの崖の花畑だけは、いつまでたっても全然枯れねえんだ」
とゼンが口をはさみました。うなるような声です。それが責めているような調子に聞こえて、メールはまたちょっと機嫌の悪い顔になりました。
泉の長老が静かに話し続けました。
「そこで根付いたのであれば、無理につれてかえってくることはない。だが、光の花は地上では、許された場所にだけ咲くべきものなのじゃよ。――フルート、メールを森の中の花畑に案内してやるがいい。今年最後の花がまだ咲いておるからの。場所はわかるじゃろう?」
フルートはうなずきました。人を拒む魔の森も、フルートやポチなら、いつでも受け入れてどこへでも行かせてくれます。フルートたちはもう何度となくこの森を訪ねていて、森のどこに何があるのか、今ではすっかり知っているのでした。
そこで、彼らはマグロとルルに別れの挨拶をしました。マグロは海へ、ルルはポポロが修行をしている天空の国へ、それぞれ戻っていくのです。
「勇者様たちの上に、いつも海の広い守りがありますように」
とマグロが海の生き物らしく祈れば、ルルも言いました。
「気をつけて行きなさい。私たちがいないからって、羽目を外すんじゃないわよ。あなたたちったら、ホントにすぐ喧嘩するんだから。あんまりゴーリスたちに迷惑かけないようにね」
ルルはいつでも、やっぱりみんなの「お姉さん」です。口うるさい忠告に、年下の少年少女たちは思わず首をすくめました。
マグロが水の中へ、ルルが空の彼方へ見えなくなっていくと、フルートはメールに呼びかけました。
「それじゃ、行こうか。花畑に案内するよ」
花畑、と聞いて、メールが喜んでついていきます。この姫は花を友だちにして育ってきたのです。楽しそうに森の中へ入っていく二人を、ゼンが憮然とした顔つきで見送っていました。
すると、そんなゼンをポチが見上げました。
「ホントに、素直じゃないんだからなぁ」
「なんのことだよ!」
たちまち不機嫌な声にどなられます。ポチがそれに言い返そうとすると、泉の上に立っていた長老が、急にまた話しかけてきました。
「ゼン、ポチ、よく聞くのじゃ」
長老の声は年を取っていて静かですが、一言一言がとてもはっきり聞こえてきます。ゼンたちは思わず、はっと居ずまいを正しました。長老の声には、なんとなく身の改まるような響きがあったのです。
長老は水の上を滑るように歩いてくると、泉のほとりでゼンとポチに向き合いました。静かな声のままで続けます。
「いよいよ定めの歯車が回り出す。彼は世界とそこに住む人々を守る金の石の勇者じゃ。だが、その彼を守れるのは、そなたたちしかいない。彼を守ってやるのじゃ――」
ゼンとポチは目を見張りました。何故だか、突然ぞっと背筋を冷たいものが走り抜けていきます。長老のことばは謎めいていて、ひどく不吉な匂いがします。
「長老、それっていったい……」
ゼンは聞き返そうとしましたが、その目の前で長老は水の柱に戻り、しぶきを立てて泉の水に戻っていきました。もう、どこにもその姿は見あたりません。
ゼンとポチは顔を見合わせ、フルートが歩いていった森の方を、二人同時に振り向きました。森には午後の日差しが降りそそぎ、暖かな空気の中、木の葉がそよ風に揺れています。遠く近く鳥のさえずりが響き渡る森には、危険な気配も迫る敵の影も、何ひとつ感じ取ることはできませんでした――。