「ジュリアは今、五ヶ月だ」
とゴーリスがフルートたちに話して聞かせていました。
「夏の終わりからずっと、つわりがひどかったんだが、今月に入ってようやく落ちついてきてな、急におまえらのことを思い出したらしい。ぜひ会いたいと言い出して、それで、俺がこうしておまえたちを招待に来たんだ」
フルートはますます笑顔になりました。
「行くよ! もちろん行くさ! ほんとに楽しみだな。赤ちゃんかぁ!」
「生まれてくるのは来年の二月だぞ?」
フルートがあまり大喜びしているので、ゴーリスが思わず確かめます。
「それでもだよ! ジュリアさんにもまた会えるし!」
「ワン、ぼくたちに会いたがってるってことは、つまり他のみんなとも会いたがってる、ってことですか?」
とポチが尋ねます。
「もちろんだ。ゼンにも女の子たちにも会いたがってる。……そら、あれがそうじゃないのか?」
そう言って、ゴーリスが急に窓の外を指さしました。穏やかで暖かな日差しに窓は開け放してあって、黄色っぽくくすんだ荒野の草が秋風に揺れているのが見えます。その向こうから歓声が聞こえてきたのです。
フルートとポチは仰天して飛び上がり、次の瞬間には、先を争って家の外へ飛び出しました。間違いありません。陽気で元気なその声は「彼」のものです――。
荒野の彼方から、砂埃と共に近づいてくる影がありました。足と首の長い大きな鳥と、その背中にまたがった少年です。鳥は驚くほどの速度でこちらに向かって走ってきます。近づくにつれて、少年の姿がはっきりしてきました。焦茶色の髪を風になびかせ、背中に大きな弓を背負っています。
「ゼン!!」
フルートとポチは歓声を上げました。とたんに、近づいてくる少年もまた歓声を上げます。
「よーぉ、フルート! ポチ!」
右手を手綱から放して高く上げています。
ワン! とポチが一声鳴いて、一瞬で風の犬に変身しました。白い幻のような犬の頭、犬の前足に、異国の竜を思わせる風の体が長々とたなびきます。体の中では絶えず霧のようなものが流れ渦巻き、風の犬の姿を幽霊のように揺らめかせています。全長十メートルあまりもある巨大な姿です。
その格好でポチが突進し、ゼンに飛びついていったので、走っていた鳥が、ピィ、と悲鳴を上げて急停止しました。
「わーったっとっとっ……こら、ポチ! 走り鳥をおどかすな!」
危なく鳥の背中から投げ出されそうになったゼンがわめきますが、ポチはかまわずそれに絡みつき、風の体をすり寄せていきました。
「わぁい、ゼンだゼンだ! 本当にゼンだ! こんなに早くまた会えるなんて!」
そこへフルートも追いついて、両腕を広げながら駆け寄ってきました。
「ゼン!」
「フルート!」
ゼンが走り鳥の背中から飛び下りてきます。そのまま二人の少年たちはがっちり抱き合い、じゃれるように互いに小突き合いました。
「この野郎、やっぱりまだ俺と同じ背丈か。ちゃんと伸びてるんだな」
「ゼンこそ、いいかげん遠慮しろよ。ドワーフだろう。そんなに大きくなる必要ないって」
「なにおぅ?」
口では悪態を言い合いますが、笑顔がはじけています。ゼンは人間の血を引いたドワーフで、勇者の仲間の一人です。軽口でも冗談でも何でも言い合える、フルートの無二の親友なのです……。
「ワンワン、それにしても驚いたなぁ。どうしてこんなにタイミング良く来られたんですか?」
とポチがゼンに尋ねました。犬の姿に戻って、今度はゼンの足下に絡みついています。そんな子犬の頭をゼンがぽんぽんとなでました。
「ゴーリスから北の峰に手紙が来たんだよ。ジュリアさんが俺たちに会いたがってるからシルに来い、迎えに来てやるから、ってな」
「ワン。でも、それにしてもすごいじゃないですか。ゴーリスがうちに来たのって、今日の昼ですよ」
そこへ、そのゴーリスが少年たちの元へやってきました。笑いながら話しかけてきます。
「ゼンに手紙を書いた後、ユギル殿にゼンがここに到着する時期を占ってもらって、それに合わせてディーラを出発してきたんだ。面倒がなくてすむようにな。さすがにユギル殿の占いはよく当たる」
ユギルというのは長い銀髪をした青年で、ロムド城一優秀な占者です。なぁるほど、と少年たちは納得しました。
ゼンはゴーリスを見上げました。
「ジュリアさんに赤ちゃんができたんだって? 親父とじいちゃんから山ほどお祝いを持たされてきたぜ。いつも世話になってるゴーリスの子どもだから、って。ほら、あれ」
と走り鳥の後ろにくくりつけた荷物の山を示して見せます。ゴーリスはまた笑顔になりました。
「これはすごいな。赤ん坊が生まれてくるのは来年の二月なんだが」
とさっきフルートに言ったのと同じことを繰り返します。
「妊婦が冷えるのは良くないからって、ウサギジカの冬毛の毛皮も入れてあるぜ。あいつは最高にあったかいんだ」
ドワーフは実直で飾らない民です。素朴な贈り物の中に、最大限の思いやりが込められています。ゴーリスはうなずきました。無愛想なはずの剣士が、子どもたち相手には、本当に嬉しそうな表情を見せています。
「ありがたくいただこう。よろしく言ってくれ。――さて、あとは女の子たちを呼ぶだけだな」
とたんに、二人と一匹の少年たちは、ぱっと顔を輝かせました。たちまち賑やかに話し出します。
「ワン、ポポロに呼びかけてメールも誘ってもらいましょう! ポポロなら、どこにいたってぼくたちの声が聞こえるんだから」
「いや、それより魔の森に行って、泉の長老にメールを呼んでもらおう。どっちにしろ、メールはあそこから来るんだからさ、ポポロも泉のほとりに呼んで集合しようよ」
「よし、じゃ魔の森へ行こうぜ! 待ってろ、おまえの親父さんたちに挨拶してくるから」
言うが早いか、ゼンはまた走り鳥に飛び乗って、フルートの家へ向かいました。玄関の外に立っていたフルートの両親の前に駆けつけて、挨拶のために鳥を下ります。その拍子に、はおっていた毛織りのマントがひるがえって、下に身につけていた青い防具がのぞきました。水の守りの力を持つ、魔法のサファイヤの胸当てです。腰のベルトには、荷物と一緒に青い小さな盾とショートソードも下がっていました。
ゴーリスやポチとそれを追いかけていたフルートが、ちょっと驚いた顔になりました。けげんそうにゼンに近寄っていきます。
「装備をしてきたの? 戦いに行くわけじゃないのに」
フルートの両親に手土産を渡していたゼンが振り向きました。
「ああ、これか? なんかゴーリスがいつものこの格好で来いって書いてよこしたからよ」
すると、ゴーリスが穏やかに笑いながら言いました。
「王都に行くんだ、国王陛下に挨拶なしというわけにはいかんだろう。おまえらの正装はその格好だからな。フルートも金の鎧兜を身につけていくんだぞ。……それとも、貴族が着る、ひだやリボンたっぷりのひらひら衣装のほうがいいか? それなら、向こうに着いてから準備してやれるが」
フルートとゼンは卵を殻ごと丸呑みさせられたような顔になると、思いっきり頭を振りました。とんでもない、そんなのは死んでもごめんです!
ゴーリスは声を上げて笑うと、少年たちに言いました。
「さあ、メールとポポロとルルを呼んでこい。全員そろったら、ディーラに出発するぞ」
ひゃっほう! とゼンとフルートが歓声を上げ、ポチもワンワンと嬉しそうに吠えました。その場でポチがまた風の犬に変身し、二人の少年を乗せて、たちまち西にある魔の森へ飛んでいきます――。
「まあまあ。みんな本当に嬉しそうだこと」
フルートのお母さんが言いました。息子たちの喜びぶりに笑い顔になっています。
「北の大地から帰ってきてからもう三ヶ月がたつからね。お互いにまた会いたくなっていたんだよ。フルートもポチも、このところしょっちゅう北の峰や空を眺めていたんだ。本当に、いいところに誘いに来てくれたよ」
とフルートのお父さんがゴーリスを見ました。ゴーリスは、口の端をちょっと持ち上げて微笑するような表情を返すと、遠ざかっていく子どもたちの姿にまた目を向けました。
「いきなり誘いに来たのに歓迎されたのは、ありがたかったな。それに、フルートが赤ん坊の話をあんなに喜ぶとも思わなかったぞ」
「他でもない、ゴーリスの子どもだ。まるで自分の兄弟が生まれるように思えたんだろう」
とお父さんが答えます。そこに、ことば以上のものが含まれているのを感じてゴーリスが思わず見返すと、今度はお母さんが言いました。
「私はね、フルートに兄弟を生んでやれなかったのよ。私は体が弱かったから……。あの子はずっと弟か妹をほしがっていたのだけれどね」
笑顔の中に、かすかに淋しさが揺れました。お父さんが、そっとその肩に手を回します。
ゴーリスは小さくうなずくと、穏やかな口調で言いました。
「だが、そのおかげであいつは、こんな立派な両親の愛情を独占できたんだ。実に幸せなやつだと思うぞ」
「立派ねぇ。決してそんなこともないと思うんだが」
とフルートのお父さんは苦笑いをすると、子どもたちが飛び去った空をしみじみと眺めました。
「あの子は、我々には過ぎた息子だよ。いつのまにか、あんなに優しくてたくましい子に育っていた。あの子はもう一人前の勇者だ。我々親の出番もそろそろ終わりなんじゃないかと考えているところだよ」
ゴーリスは少しの間、何も言いませんでした。ことばを選ぶように考えてから、また口を開きます。
「だが、あいつらは親の元から旅立って、また必ず親の元へ帰ってくる――。俺はまだ親になったことがないからわからんが、子どもにとって親がそういうものならば、それは一番いいことじゃないかという気がするぞ」
「ありがとう」
とお父さんは礼を言い、お母さんも笑顔を返しました。
そんな妻へお父さんが言いました。
「さあ、これから女の子たちも来るんだ。パイが一つじゃ間に合わないんじゃないかい?」
「そうね。みんな、とっても食欲がありそうだわね」
お母さんがくすくす笑いながら家の中へ入っていきます。パイをもっと作るために台所へ向かったのです。
お母さんが家の中に入って玄関の扉が閉まっても、お父さんとゴーリスは荒野を眺め続けていました。フルートたちを乗せたポチは魔の森に到着したようで、遠くにかすむ森の上空に、その姿はもう見えなくなっていました。
すると、フルートのお父さんがつぶやくように口を開きました。
「装備をする必要があるのか」
静かな、けれども、何かを見据えているような真剣な口調でした。ゴーリスが思わずそちらを向くと、フルートによく似た青い瞳がまっすぐにのぞき込んできました。
「またあの子たちの戦いが始まるんじゃないのかい? ディーラで待っているのは、奥方や国王陛下だけじゃないんだろう」
落ちついた聡明なまなざしは、嘘や気休めを少しも許していません。ゴーリスは思わず絶句しました。つい目をそらすと、ためらってから答えます。
「……すまんな」
お父さんはうなずきました。
「あの子たちは金の石の勇者の一行だ。どんな危険が待ち受けていても、必要とされれば行かなくちゃいけないからね」
ゴーリスはさらに少しためらうと、重い口調で言いました。
「今度あいつらが戦う相手は闇の敵じゃない。もっとやっかいで、始末に負えない怪物だ。――宮廷という名前の化け物だからな」
お父さんは驚いたようにゴーリスを見ました。すまん、と貴族らしくない大貴族がまた謝ります。
お父さんは溜息をつくと、子どもたちが飛び去った荒野へ目を向け直しました。乾いた荒れ地の中にほそほそと生えた木立が、葉の色を赤や黄色に変えようとしています。
「我々親はあの子たちの戦いについていくことはできない。もう守ってやることもできない。ただあの子たちが無事にまた戻ってくることを祈りながら、待つことしかできないんだよ」
とお父さんは言いました。静かすぎるくらいの口調は、その息子の話し方にとてもよく似ています。
「戻ってくる。あいつとポチの家はここなんだからな。北の峰ではゼンの家族だって待っているんだ」
とゴーリスが答えました。大丈夫だ、絶対にあいつらを守ってやる、などとは言いません。そんな口約束をフルートの父親が期待していないことは承知しているのです。
二人の大人たちは荒野とその上に広がる空を眺め続けました。鮮やかすぎるほどに晴れ渡った、青く高い空でした――。