ロムド国の西の荒野地帯にある、小さな田舎町シル。
その一角で鐘の音が鳴り響き、学校の正門から町の通りへ子どもたちがあふれ出してきました。一年生から八年生まで、百人余りの子どもたちです。退屈な授業が終わったのが嬉しくて、友だちとしゃべったりふざけたりしながら、賑やかに家へ帰っていきます。それは国中どこででも見られる、当たり前の下校の風景でした。
フルートも教科書の束を手に、学校の外へ出ました。誰かと連れだって歩くこともなく、たった一人で帰路につきます。そのかたわらを同級生たちが走り抜けながら声をかけていきます。
「さよなら、フルート!」
フルートは「さよなら」と返事をしましたが、その時にはもう、彼らはずっと先へ行ってしまっていました。誰ひとりとしてフルートを待とうとはしません。
けれども、フルートはとりわけそれをどう思う様子もなく、一人きりで家に向かって歩き続けました。そんな少年を空から太陽が照らしています。澄み切った秋の日差しが、少し癖のある少年の金髪をきらめかせます。
すると、行く手の曲がり角から、ひょっこり白い子犬が姿を現しました。少年の姿を認めると、すぐに小さな尻尾をいっぱいに振りながら駆け寄ってきます。
「ワンワン、フルート! おかえりなさい! 遅くなってすみませんでした」
と幼い少年の声で言います。この子犬は天空の国のもの言う犬の血を引いていて、人のことばを話せるのです。フルートはにっこりしました。
「お迎えありがとう、ポチ。今日は短縮授業で、いつもより早く終わったんだよ」
さっきまでのひとりぼっちの雰囲気が急に消えて、暖かいものが広がります。鮮やかな青い瞳が、優しく子犬を見つめます。ポチは嬉しくてたまらない様子で飛びつくと、フルートに抱きとめてもらって、ぺろぺろとその頬をなめました。
この物静かで優しげな少年が、金の石の勇者のフルートでした。ロムドの国だけでなく、隣国エスタも、天空の国も、東西の大海も北の大地も、世界中のあちこちを闇から救ってきた英雄です。
抱かれて甘えているポチも、れっきとした勇者の仲間です。人のことばを話せるだけでなく、首に巻いた首輪の力で、風の犬と呼ばれる巨大な魔法の生き物に変身することができます。
けれども、誰がどんなにひいき目に見ても、彼らはそんな英雄たちには見えませんでした。フルートは小柄でほっそりした体つきをしているうえに、少女のように柔和な顔だちをしているので、剣を持って敵と戦う姿などとても想像がつきません。ポチの方も、ことばを話さなければ、生後半年くらいのただの子犬にしか見えません。本当に小さく幼く見える勇者たちでした。
フルートはポチと並んで家に向かって歩き出しました。
「エスタから返事は来た?」
ともう日課になってしまった質問をします。子犬は首を振りました。
「いいえ。本当に遅いですよね。手紙を出してからもう二ヶ月以上たつのに」
「手紙が届いてないってことはないと思うんだけどな。ピランさん、忙しいのかなぁ」
フルートが困り顔になると、ポチも首をかしげました。
「ワン、変ですよね。あの人なら、自分が作った鎧が調子が悪いって聞いたら、何をさておいても修理したがると思うんだけど」
「うん……」
彼らが今話題にしているピランという人物は、隣国エスタの国王に仕えるノームの鍛冶屋の長で、フルートが戦いの際に身につける金の鎧兜を作った人です。
金の鎧兜は魔法の防具で、あらゆる攻撃や衝撃から守ってくれる上に、暑さ寒さまで防ぐことができます。ところが、今年に入ってから続いた激戦に、さすがの魔法の鎧も傷つき、歪みが生じて、その防御力が落ちてきていました。三ヶ月前の北の大地の戦いでは、フルートはもう少しで左腕を切断する羽目になるところでした。北の大地から帰ってきたフルートは、鎧を作ったピランに修理を依頼する手紙を書き送ったのですが、その返事がいっこうに来ないのでした。
「幸い、あれから闇の敵の動きはないけどさ」
とフルートはポチを相手に話し続けました。
「もし、また魔王が復活してきたら、あの鎧で出撃しなくちゃいけない。できれば、その前に直してもらいたいんだけどな」
ポチは何も言わずにフルートを見上げました。少女のように穏和だった顔が厳しい表情に変わっています。大人の戦士の顔です。不安から泣き言を言っているのではなく、必ずまた闇の敵との激戦が起きることを想定して、冷静に自分の不利を見つめているのでした。
フルートは小さく見えても、れっきとした金の石の勇者です。本当に優しいけれど、同時にびっくりするほど勇敢で、戦闘の時にはいつも矢面に立って、自分の体で仲間たちを守るような戦い方をします。そんなフルートには、強力な守りがどうしても必要でした。魔法の防具、守りの金の石、強く勇敢な仲間たち――守りはいくらあっても多すぎるということはないのです。
だから、鍛冶屋の長には一刻も早く鎧を修理してほしいのに、手紙を書き送っても梨のつぶてで、連絡がありません。フルートだけでなく、ポチも内心、不安を感じていました。本当にどうしてしまったというのでしょう……。
ところが、フルートは急に笑顔になると、明るい口調で言いました。
「まあ、焦ったってしょうがないよね。きっと、もうすぐ返事も来るさ。あの鎧だって、防御力がまったくなくなってるわけじゃないんだし」
子犬が不安になっているのを見取って、わざと安心させるようなことを言っているのです。そのまま先に立って歩くフルートを、ポチは見つめてしまいました。本当は誰よりも焦りと不安を抱いているはずなのに、まったくそれを感じさせない後ろ姿です。それがフルートでした。金の石の勇者と呼ばれる少年なのでした……。
フルートの家はシルの町外れに建っていました。すぐ目の前はもう荒野で、遠い彼方には、ドワーフの親友が住む北の峰がかすんで見えています。今は十月の半ばでしたが、北の峰はもう、山の中腹あたりまで雪で真っ白になっていました。
家の入口のわきに見たことのない馬がつながれていたので、フルートとポチは目を丸くしました。毛づやの良い、立派な馬です。置かれた鞍も、派手ではありませんが、造りの良いすばらしいものです。こんな金のかかった馬を持っている人は、シルの町にはいません。誰がお客に来たのだろう、とフルートたちは不思議に思いながら家に入り、とたんに立ちつくしてしまいました。
居間でお父さんが客と話をしていました。二人の前のテーブルには黒茶のカップが置かれています。半白の髪に黒ずくめの服を着た、たくましい体つきの男が客人です。フルートとポチは思わず声を上げました。
「ゴーリス!!」
すると、客人がフルートたちを見て、にこりとしました。笑うと、無愛想で険しい顔が急に優しくなります。
「帰ってきたな、勇者ども。邪魔をしていたぞ」
ゴーリスは本当の名前がアルバート・ゴーラントス。ロムド国王に仕える貴族で、フルートの剣の師匠です。フルートが誰より頼りにしている人物でした。
「ゴーリス! ゴーリス――!!」
フルートは歓声を上げて男に飛びついていきました。
「どうしたのさ、ゴーリス。いつシルに戻ってきてたの?」
フルートは男をのぞき込むように見上げながら訪ねました。ゴーリスは二年前まで、身分を隠してこのシルの町に住んでいたのです。貴族の中でも特に身分の高い大貴族なのですが、とてもそうは思えない庶民的な人物で、正体が明らかになってからも町の人たちへの態度がまるで変わらなかったので、フルートたちも以前と同じように彼をゴーリスと呼び続けていました。今はもう王都ディーラで国王の片腕として働いているので、めったに会うこともできませんが、こうして会うと、やっぱり以前と少しも違わないゴーリスでした。無愛想で偏屈で、そのくせ、奥に暖かいものを感じさせる人物です……。
「シルに着いたのは今日の昼前だ。そのままここに直行して、久しぶりに、おまえの母上の手料理をご馳走になったぞ。相変わらずうまかった」
「あらあら。ゴーリスがお世辞を言ってくれるなんて、秋の空から赤い雪が降ってくるんじゃないかしら?」
奥の台所からフルートのお母さんが笑いながら出てきました。焼きたてのパイを運んできています。
「お世辞を言っているつもりはないが」
とゴーリスが大真面目でそれに答え、フルートの両親が同時に声を上げて笑います。ゴーリスは確かに大貴族で国王の重臣でしたが、それ以前に、フルートの一家にとっては大切な友人なのです。貴族らしくない大貴族も、そんな扱われ方に満足そうでした。
「ワンワン、奥様はお元気ですか?」
とポチが尋ねました。フルートたちは五ヶ月前の闇の声の戦いの際に、リーリス湖畔のハルマスの町で、ゴーリスやその奥方のジュリアと会っているのです。
「おお、それだ」
とゴーリスが椅子の中から身を乗り出してきました。
「ジュリアがおまえたちにとても会いたがっていてな。自分が動けないものだから、ぜひディーラに来てほしいと言っているんだ」
「え?」
フルートとポチはちょっと驚きました。ジュリアも夫に劣らず貴族らしくない女性で、ハルマスでは小さな勇者たちをとてもかわいがってくれました。フルートたちも彼女が大好きだったので、会いたいと言われれば今すぐにでも飛んでいきたいところでしたが、「自分が動けない」とゴーリスが言ったのが気になりました。
「ジュリアさん、病気なの?」
とフルートが心配そうに尋ねると、ゴーリスは妙な顔つきで口元を歪めて見せました。
「いいや、病気ではない。心配はいらん」
すると、お母さんが笑いながら口をはさんできました。
「フルート、ゴーリスの奥様にね、赤ちゃんができたんですってよ」
フルートとポチは本当に目をまん丸にしました。驚いた拍子にフルートが思わず言ってしまいます。
「ほんと? それって、ゴーリスとジュリアさんの子どもなの!?」
「馬鹿もん。それは問題発言だぞ」
とゴーリスがしかめっ面でフルートを小突きます。フルートはたちまち真っ赤になって、ごめんなさい、と素直に謝ると、次の瞬間には満面の笑顔になってまたゴーリスに飛びつきました。
「うわぁ、すごい! ゴーリスの子どもが生まれてくるんだ! すごい、すごいや……!!」
まるで小さな子どものように、目を輝かせて大喜びするフルートでした。