フルートたちは跳ね起きました。蛇の鎌首のようにねじれた山を背後に身構えます。目の前にいるのは、巨大な風のオオカミに変身した魔王です。全長が二十メートルあまりもあります。風の犬に変身したポチの倍以上の体です。
フルートはゼンとポチの前に立っていました。左手に握りしめた金の石のペンダントを魔王に向けながら尋ねます。
「おまえの正体がオオカミなら、何故人間を滅ぼそうとするんだ? 世界中の人間を一人残らず殺そうとするほど、どうしてそんなに人間を憎む?」
魔王のオオカミが大きな目を細めました。白い霧が揺れるような風の目です。
「何故? 人間が愚かでろくでもないことは、わかりきっているではないか。そんなものがこの世界に存在する必要はない」
答えるオオカミの声は風の音に似て、どこかひどく虚ろでした。
「どうして!?」
とフルートは尋ね続けました。
闇と悪の権化であるデビルドラゴンが生き物に取り憑くと、その生き物は魔王に変わります。取り憑かれるのには、何かしら原因になるものがあるのです。デビルドラゴンは、その心の闇に乗じて入りこんでくるのですから。
風のオオカミの目がまた揺れました。一瞬、目の前のフルートたちよりも、もっと遠くを見るようなまなざしになります。ほんの少し沈黙した後、オオカミは答えました。
「よかろう。ありきたりのことばだが、冥土の土産だ。聞かせてやろう――」
そうして、風のオオカミの魔王は話し始めました。
「わしは夜霧の森で、『灰白の背中』と呼ばれる群れを治めていた。その中には、わしの妻も子どもたちもいたし、親もきょうだいもいた。森は平和で、わしらオオカミたちは、その中で穏やかに暮らしていた。森には生き物がたくさんいて、わしらが獲物に困ることはなかったから、人間の里まで出ていく必要もなかった。わしらは人間には何一つ害をなしていなかったのだ――」
ふいに、オオカミの声の中に激しい怒りが混じり始めました。風のような音が、ごごうっとうなります。
「ある日、森に人間どもがやってきた。金と暇をもてあました、貴族と呼ばれる連中だ。そいつらは魔法使いを連れていた。森の中に魔法で結界を張って、中の生き物が逃げられないようしてから狩りを始めたのだ。貴族どもは二十人以上もいた。森の生き物は、大きいものも小さいものも、片っ端から殺されていった。巣穴に逃げ込んだものは、魔法使いに残らず引きずり出された。それでも穴の中にしがみついて残ったものは、煙でいぶされて窒息した。殺戮(さつりく)は一週間に及んだ。奴らは森の木や草を切り払い、あらゆる獣たちを根絶やしにしたのだ」
オオカミの声には強い怒りと呪詛が込められていました。白い風の体を激しく揺らめかせながら話し続けます。
「わしの群れの仲間たちもすべて殺された。オオカミは奴らには格好の獲物だ。だが――生まれて間もない仔オオカミまで殺す必要が、どこにある!? やっと巣穴から外に出て、大人たちの後について歩き出したばかりのわしの子らが、何故殺されねばならん!? 人間どもは仔オオカミを長い棒に連ねて串刺しにして、木の枝につるして飾った。わしの妻は首を切られ、腹を割かれて投げ捨てられた。毛皮を戦利品にするためでさえない。奴らには、ただ獣を殺すことだけが楽しみだったのだ」
フルートたちはことばが出ませんでした。それが紛れもない真実であることは、声からひしひしと伝わってきます。激しい恨みと怒りがそこにありました。愛する者たちを殺したものへの、焼けつくような憎しみです。
ゼンは青ざめた顔で拳を震わせていました。ゼンは北の峰の猟師ですが、彼らが獲物として狩るのは、生きていくために必要な分だけです。猟師たちは森とその中の生き物たちを本当に大切にして、子連れの獣は決して殺さないといった取り決めを、自分たちで厳しく守っています。ゼンが怒っているのは、森の獣たちを根絶やしにしたという、異国の貴族たちのことでした。自分たちの楽しみのために、魔法まで使って獣を殺すというのは、それはもう狩りではありません。魔王が言っているとおり、殺戮でしかないのです。
オオカミは話し続けました。ごうごうと風の音が続きます。
「わしは七日七晩、森の中を逃げ回り続けた。いつの間にか、その場所で最後の獣になっていた。わしは貴族や魔法使いどもに追い詰められ、全身に矢を受けた。だが、もう少しで殺されそうになったとき、わしの近くに魔法使いが立ったのだ。わしが死にかかっていたので油断していたのだな。わしはそいつの首をかみ切って、魔法の結界を破って逃げ出した。人間どもは追ってこなかった。わしが間もなく死ぬと思ったのかもしれん。魔法使いを食い殺されて、恐ろしくなったのかもしれん。わしは結界の外の森へ逃げ込んだ――。矢傷から血が流れ、世界はどんどん暗くなっていった。だが、もう少しで意識がとぎれるというとき、黒いドラゴンが現れて、わしに話しかけてきたのだ」
フルートたちは、はっとしました。その黒いドラゴンこそ、紛れもなく、闇の権化のデビルドラゴンです。
「ドラゴンは、人間どもに復讐がしたければ、わしの体を自分に差し出せ、と言ってきた。もとより間もなく死んでいく体だ。何も惜しいことはなかった。わしはためらうことなくドラゴンを受け入れ、魔王になった。わしは人のような姿になったが、なに、そんなことは、どうということもない。新たに手に入れた闇の力で、わしは仲間を殺した貴族どもを探し出し、家族親族総ぐるみで皆殺しにしてやった。奴らが住んでいた町は、今は廃墟だ。誰も生き残ってはおらん。だが、わしの怒りはそれでもおさまらん。他の生き物、他の存在を、自分より劣っていると思って情け容赦なく殺してくるのが人間だ。己の本当の弱さも知らず、数と、こざかしい悪知恵だけで、この世界を支配しているつもりでいる。一対一で獣と向き合えば、これほど弱い生き物もないというのに。だから、わしは思い知らせることにしたのだ。人間は、この世界にあってはならない生き物だ。その汚れた存在を、わしは大きな海の波ですべて洗い流し、この地上を清めてやるのだ――!」
風のオオカミが、また笑うように吠えました。グアォォーーン、と咆哮が響き渡ります。
ゼンとポチは、まったく何も言えなくなっていました。なんだか魔王であるオオカミの言い分の方が正しいような気がして、反論することができなくなっていたのです。自分たちの家族が同じように誰かから虐殺されたら、自分たちだってオオカミと同じことを考えて、デビルドラゴンを受け入れるかもしれない……そんな直感がありました。オオカミの怒りがじかに流れ込んできて、頭と心がしびれたような感じになります。
けれども、フルートだけは表情を変えずにオオカミを見つめていました。自分の何十倍もある巨大な風の獣に向かって、静かに話しかけます。
「君の言い分はわからないじゃない。確かに人間は残酷で救いがたいかもしれないさ。でも、それが人間のすべてじゃない。森に暮らす君たちと同じように、平和で穏やかな暮らしを愛する人間だって、世界には大勢いるんだ。君はそういう人たちまで一緒に滅ぼそうとしているんだよ」
「それがどうした?」
風のオオカミが聞き返してきました。
「同じ人間ではないか。生かしておけば、また残酷な人間を次々に生み出してくる。人間は武器と悪知恵で他の生き物の命を奪う。生きるためにではなく、自分たちの楽しみのためにだ。人間は存在しているだけで悪なのだ。わしを悪の魔王と呼ぶか、人間ども? 笑わせる。おまえたち人間の方が、よほど魔王らしいではないか」
風の笑い声がまた響きます。
「馬鹿野郎! 俺たちは違うぞ!」
とゼンがどなり返しました。ゼンには、自然と共存しながら生きる猟師としてのプライドがあります。けれども、魔王はさらに冷笑しました。
「わしは知っているぞ、ドワーフ。きさまの仲間たちは、地下の仕事場で、獣を殺し、森や野山を思うままに作り変えられる魔法の道具を作り続けている。きさまらにとっても、自然は自分たちの好きにできる対象なのだ。ドワーフだって人間どもと同じ穴のムジナよ」
ゼンはぎりぎりと歯ぎしりしました。言い返したいのですが、なんと言って良いのかわかりません。
すると、フルートがまた言いました。
「他の生き物たちは? おまえが津波で押し流そうとしている世界には、人間だけじゃなく、他の生き物たちもたくさん暮らしているんだ。おまえが溶かしているこの北の大地にだって、雪オオカミや他の動物たちがたくさん生きているじゃないか。おまえのしようとしていることは、そんな関係のない生き物たちまで巻き込むんだぞ」
「それがどうした」
風のオオカミが再び言いました。北の大地の大気より、さらに冷たく響く声でした。
「わしの崇高な目的のためには、犠牲もやむを得んだろう。わしは大いなる力を持った魔王だ。この世界からすべての人間を一人残らず消し去ったら、わしは獣だけの世界を地上に再建する。わしはそこの王なのだ――」
「嘘だ!」
とふいにフルートは叫びました。
「おまえに取り憑いているデビルドラゴンは、すべてを破壊することが目的の魔物だ! そいつが理想の世界を創り出そうとするわけがない! おまえはただ、自分の家族を殺された腹いせに、世界中の他の命を殺そうとしているだけなんだ! おまえと同じように家族を失って怒りに嘆き狂う者を、もっと大勢生み出すことに、どうして気がつかないんだ!?」
フルートは青い瞳を燃えるように輝かせながらオオカミをにらみつけていました。普段穏やかで優しい彼からは想像もつかない激しさです。
オオカミが風の瞳を細めました。冷たい笑いが広がります。
「それがどうかしたか? わしの守るべき者たちは、もうこの世にはいないのだ。愛する者を目の前で一人残らず虐殺されてみろ、勇者。そのときにも、おまえはそれと同じことが言えるか?」
問い返す魔王のことばは氷の槍よりももっと鋭く少年たちの胸に突き刺さりました。ゼンが歯を食いしばり、ポチが全身の毛を逆立てます。
フルートは左手の金の石を握りました。ペンダントの縁飾りが手のひらに食い込んで痛みを感じるほど、強く強く握りしめます。
「それでも、だ! おまえの不幸には同情する、魔王! だけど――その不幸に他人を巻き込んじゃだめなんだ! おまえにはそんな権利はない! 今すぐ、世界から手を引け!」
フルートの燃える瞳と、オオカミの風の瞳がにらみ合いました。風の瞳は薄青い色を帯びています。氷のような色合いです。
「この上は、もう話し合うこともないな」
風のうなるような声で、魔王が言いました。
フルートは唇をかみ、右手の剣を握り直して身構えました。後ろでゼンとポチも戦闘態勢に入ります。
「よかろう、勇者ども! これが最後の勝負だ――」
ゴゴゴゥとうなりをあげて、風のオオカミが上空に舞い上がりました。白夜の空で渦を巻き、空の高みからフルートたちを見下ろします。
「死ね、勇者ども!!」
声と共に、魔王が巨大なつむじ風になって襲いかかってきました――。