その場にいた者たちは、一瞬呆気にとられました。
アリアンの前の鏡を壊す? そうやって、魔王が少女たちを見られないようにする――?
と、ポチがワン、と吠えました。
「そうか! 姿が見えなくなったら、魔王だってメールを殺せない!」
「いいわ! やりなさい、ポポロ!」
とルルも歓声を上げます。
ポポロは即座に目を閉じ、呪文を唱え始めました。
「テイフーヨゼカイツァー……」
「触手!」
魔王が命じます。槍のような触手がメールの背中へ動き出します。それを見て、ゼンがどなりました。
「馬鹿メール! よけるんだよ、のろま!!」
「なんだってぇ!?」
空中のメールが真っ赤になって怒りました。そのとたん、死んだように倒れていたメールの体が動きました。一瞬のうちに寝返りを打ち、怒ったような短い声を上げます。闇の触手は狙いがはずれて、石の床を貫きました。
また歓声を上げたゼンに、透きとおったメールが迫りました。
「ちょっとぉ! のろまって何なのさ、のろまって! あたいのどこが――」
そんなメールに、ゼンは声を上げて笑いました。
「おう、おまえはのろまで大馬鹿野郎だよ。おとなしく魔王に殺されようとするんじゃねえや。徹底的に抵抗してやれ!」
メールは目を丸くしました。幻のはずの顔が、みるみるうちに赤くなっていきます――。
その間にもポポロの呪文は続いていました。
「シカートオミガカノリオコーセクカラカメノウオーマ」
とたんに、触手にとらわれていたアリアンの長い髪がはためき始めました。洞窟に風が吹き出したのです。倒れているメールの髪も吹き乱され、床から抜け出したばかりの触手が揺すぶられます。
すると、突然、映像が乱れ始めました。うごめく触手も、それにつかまっているアリアンも、倒れているメールも、何もかもがにじんだように揺らめき始めて――
やがて、溶けるように消えていきました。
そのとたん、ポポロの声が聞こえてきました。
「熱い風を呼んで鏡を溶かしたのよ。鏡は氷でできてたから」
笑うような声です。そして、それきり、何も聞こえなくなりました。
フルートたちはあたりを見回しました。空中にいたポポロとメールとルルの姿がありません。闇の触手や、そこにとらわれていた少女たちの姿も完全に消えました。巨大に広がる豆の森の中、残っているのは、三人の少年たちと、空中に浮かぶ黒い魔王と、花の獣だけです。
と、ザアア……と音を立てて花のトラが崩れました。無数の白い豆の花に戻っていきます。その足下で、花オオカミはすでに踏みにじられて、形を失っていました。
「アリアンの前の鏡が消えたんだ。だから、ポポロたちにもぼくたちが見えなくなって、ここに力を貸せなくなったんだよ」
とフルートは穏やかに言いました。その手はまだ金の石を握りしめたままです。
「よくも……」
と魔王が歯ぎしりをしました。魔王も鏡がなくなったために透視力を使えなくなっています。フルートはすばやく立ち上がると、魔王にペンダントを向けました。
「金の石!」
たちまち、澄んだ金の光がほとばしります。
魔王は空中で大きく飛びのき、黒い闇の障壁で光をはじき返しました。
そんな魔王へ、フルートは言いました。
「さあ、これで本当にぼくたちとおまえだけだ! 勝負をつけよう、魔王!」
「こしゃくな!」
魔王がわめきながら空中高く飛び上がりました。豆の森の天井ぎりぎりまで上昇して、そこから声を上げます。
「きさまらなど、わしが直々に相手をするほどの価値もないわ。花ども、こいつらを始末しろ!」
また周囲からザーッと土砂降りの雨のような音がわき起こりました。豆の森のいたるところから、白い蝶のような花が群れ飛んできます。トラから元に戻って足下に散っていた花たちまで、またふわりと空中に浮き上がりました。フルートたちは思わず身構えました。花から彼らを守ってくれる花使いの姫は、もうこの場にはいません。
「行け!」
魔王の命令と共に、花がまたいっせいに少年たちに襲いかかってきました。三人をびっしりと取り囲み、全身に強くへばりつきます。
「あっ!」
と、フルートが声を上げました。一瞬の隙に、鞭のように寄り集まった花に金の石を奪い取られたのです。必死で取り返そうとしますが、頭上高く持ち去られて手が届きません。
その間にも、花はどんどん集まってきました。少年たちは目も鼻も口も無数の花におおわれ、息をするのさえ困難になってきました。
それを見て、魔王があざ笑いました。
「良い眺めだな、勇者ども。その花はきさまらの友だちとやらが贈ってよこしたものだ。友だちの贈り物に殺される気分というのはどんなものだ?」
真っ白な繭(まゆ)のようになった花の奥で、ゼンが歯ぎしりをしていました。占いおばばと一緒にいた大男のウィスル。口のきけない彼が、ありがとうのことばの代わりにゼンにくれた雪エンドウを、そんなふうに言われるのは我慢がなりませんでした。
けれども、花はますます集まってきて、ぎゅうぎゅうと少年たちを締めつけてきます。ゼンの怪力でも、どうしても押し返すことができません。フルートとゼンの足下で、ついにポチが悲鳴を上げました。
「キューン……!」
今にも息が詰まりそうになっています。
すると、フルートが言いました。
「もうちょっとだ、ポチ、ゼン……もうちょっとだけ我慢するんだ……そうすれば、きっと……」
そんなフルート自身も、顔一面に花にへばりつかれて、ほとんど息ができなくなっています。
「そうすれば、きっと? きっと何が来るというのだ! おまえたちを助けるものなど、もう何もないぞ!」
魔王が聞きつけて、またあざ笑いました。白い花に包み込まれた少年たちは、もう何も答えません。ただ花だけがじわりじわりと縮まって、中心の獲物を押しつぶしていきます――。
その時、突然、音を立てて何かが地面に転がりました。金の石のペンダントです。花の鞭に高い場所まで持ち去られていたものが、何故か急に落ちてきたのでした。ペンダントをつかんでいた花の鞭は、茶色く枯れていました。
「――?」
魔王は空中で身構えました。金の石が何か不思議な力を発揮したのかと考えたのです。けれども、そうではありませんでした。
周囲の豆の森で、花が急速に枯れ始めていました。白い蝶のような花びらが、あっという間に茶色く縮れていきます。フルートたちを押し包んでいた花の群れも、見る間にくすみ、乾いた茶色に変わって、ばらばらと地面に落ちていきます。その後から少年たちが姿を現しました。膝に手を当て、身をかがめて、あえぎながら息を整えます。
「な、なんだ……!?」
何事が起こっているのかわからなくて驚いている魔王に、フルートは顔を上げて笑って見せました。
「雪エンドウは寿命の短い植物だよ……。芽が出て三十分もたたないうちに、花は散って森が枯れ始めるんだ。枯れてしまったら、もう花は使えない。雪エンドウは、やっぱりぼくたちの味方なのさ――!」
「この!」
魔王が怒り任せに手を向け、魔弾を撃ちだしてきました。フルートはそばに落ちていたペンダントに飛びついてかざしました。たちまち澄んだ光が広がって、二人と一匹の少年たちを包み、魔弾を跳ね返します。
周囲では、花だけでなく、豆の蔓や葉までが枯れ始めていました。根元の茎や葉が黄ばんできたと思うと、見る間にそれが茶色く変わって、上へ上へと広がっていきます。緑に輝いていた森が、たちまち色あせて、黄色く枯れた葉が雪のように降り始めます――。
フルートたちはその場を動くことができませんでした。魔弾が雨あられと金の障壁の上に降りそそいできます。
「ワン、このままだとまた障壁が――」
とポチが心配した矢先に、障壁に白いひびが走り、ガラスのような音を立てて砕け散りました。
とっさにフルートはポチを抱いて横に飛びのきました。ゼンも別の方向へ飛びます。たった今まで彼らがいた場所に魔弾が命中して、雪と氷の地面に穴をうがちました。
「隠れろ!」
フルートは叫んで、そばの豆の木の陰に飛び込みました。ゼンも別の木の後ろに転がり込みます。そこに次々と魔弾が命中し、豆の木が音を立てて倒れていきます。
すると、森の中に突然、ウォン、オン、と吠える声が響き始めました。雪オオカミたちです。さっきルルに追い払われたオオカミたちが、豆の森が枯れて隙間ができ始めたのを見て、また中に飛び込んできたのでした。
オオカミの声はフルートたちの背後から近づいていました。目の前の空中には魔王がいて、魔弾を打ち出す手を少年たちに向けています。少年たちは一箇所に集まりました。前と後ろの両方の敵に身構え、ふいに声を上げます。
「ぼくは前だ!」
「後ろは俺に任せろ!」
「ワン、ぼくも後ろです!」
少年たちはそれぞれの方向を向いて背中合わせになると、戦闘態勢に入りました――。