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第5巻「北の大地の戦い」

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95.窮地

 「来たね、魔王!」

 幻のようなメールが淡い光の中で身構えました。後ろに浮かぶポポロを守るように、片腕を大きく伸ばします。雪オオカミを追っていたルルも、すぐに飛び戻ってきてメールに並びました。

「ポポロは渡さないわよ! あなたがどんなにがんばったって、ポポロは負けないんだから!」

 と魔王相手に牙をむきます。

 魔王はそれに答えようとして、ふいに視線を下に向けました。とたんに白い矢が砕け、金の光がはじけ飛びます。ゼンとフルートの放った攻撃が防がれてしまったのです。

「おとなしくそこで見ておれ、勇者ども」

 と魔王は言うと、改めて少女たちに目を向けました。魔王と少女たちは空中で向き合っています。メールとルルがいっそう低く身構え、ポポロは両手を固くにぎり合わせて、力を仲間たちに送り続けます。

 すると、魔王が口を開きました。

「ポポロの力など、もう奪わん。そいつの力は無尽蔵だ。そんなものにかかずらっていたら、いつまでたっても埒(らち)があかんわ」

 少女たちが意外そうな顔になりました。

 地上のフルートたちは、ふいに胸騒ぎを覚え始めました。魔王の声は冷静です。冷静すぎて、氷のように冷たいのです。フルートは思わず少女たちへ叫びました。

「みんな、逃げろ! 魔王が何か仕掛けてくるぞ!」

 魔王の顔に冷笑が広がりました。

「こんな実体のないものも相手にできるか。力がなくなるまで、際限なく現れてくるのだからな。わしが手を下すのはこれだ」

 魔王がさっと手を向けた先の空間に、黒い影が現れました。黒い長い腕がうねうねと何十本もうごめき、その付け根がこぶのようにふくらんでいます。山の地下で少女たちを飲み込んでいる、闇の触手です。思わず飛び出して吠えかかっていったポチが、触手の中を突き抜けてしまいました。ただの映像だったのです。

 

 すると、フルートたちに聞き覚えのない、澄んだ少女の声が響き渡りました。

「やめて、魔王! 何をするつもりなの!?」

 長い触手の一本が、黒髪の少女を縛り上げて、空中からつるしていました。ロキの姉のアリアンです。すると、少女が長い髪を払いのけて頭を上げました。この世のものとも思えないほど美しい顔が、まっすぐ魔王を見ます。

 それは、以前フルートたちが絵姿で見たのと同じ少女の顔でした。肌の色は抜けるように白く、唇は血のように赤く、垂れ下がる髪は漆黒に輝く滝のようです。けれども、その大きく悲しげな瞳は、闇の民の象徴の赤い色に染まり、額にはロキと同じような一本の角が生えていました。叫んでいたのはアリアンでした。声を発するたびに、口の端に鋭い牙の先がのぞきます。

「魔王、やめてったら! 何をするの、やめてちょうだい!」

 闇の少女が必死で言っているのは、自分自身のことではありませんでした。触手の根元のこぶがふいに裂けて、中から誰かが転がり出てきます。――メールでした。ねばねばとした黒い液体にまみれて、床の上に倒れます。まるで死んだような顔色をしています。

「……あたい?」

 空中に幻のように浮かんでいるメールが、目を見張って驚きました。力だけの存在になっているメールと、闇の触手から吐き出されたメール。どちらもここに見えているのは実体ではありませんが、二人のメールが同時に同じ場所に存在しているのは、何とも奇妙な感じがしました。

 すると、魔王が言いました。

「もとより、わしが必要としていたのは目と力だけだ。アリアンとポポロさえいれば事足りる。気まぐれに連れてきた二人など、そもそもわしには必要のないものだったのだ」

 そのことばに誘われるように、闇の触手の一本が、するすると伸び始めました。先端が槍のように鋭くなります。触手が狙いを定めているのは、床の上に死んだように倒れているメールの背中でした。

 子どもたちはいっせいに息を飲みました。空中のメールが真っ青になります。

 アリアンが悲鳴のように叫びました。

「やめて、魔王――! メールは関係ないのよ!!」

「大ありだ。勇者どもを助けている。わしの言いなりにならない力など、わしには不要なものだ」

 魔王の声は冷酷でした。メールを闇の触手で突き殺すことなど、なんとも感じていないのです。空中のメールは、地上に映し出された自分を見ながら、いっそう青ざめました。

「よせ、魔王!」

「やめて! メールを殺さないで!!」

 フルートと、空中のポポロも同時に叫びました。ルルが飛び出して魔王に襲いかかっていきます。けれども、次の瞬間、ルルは闇の障壁に跳ね飛ばされてしまいました。

「騒ぐな、犬め。次はおまえの番だ」

 と魔王が冷ややかに言い渡します。今度はルルとポチが息を飲みました。

 闇の触手がメールを狙います。目の前に見えているのに、実体は、蛇の鎌首のような山の地下にあります。どんなに助けようとしても、どんなに金の石の光で守ろうとしても、届かないほど遠い場所なのです。触手が動いた瞬間、子どもたちは思わず悲鳴を上げました――。

 

 すると、闇の触手が途中でぴたりと止まりました。倒れているメールの体から、わずか三十センチという場所です。鋭い切っ先を無防備な背中に向けたまま動かなくなります。

 魔王がフルートとポポロを見ながら言いました。

「友だちを助けたいか? ならば、勇者は金の石を捨てろ。ポポロはわしにすべての力を渡して、闇の触手を受け入れろ。そうすれば、メールの命は助けてやろう」

 常套手段の交換条件です。子どもたちはまた真っ青になりました。

 闇の触手につり下げられたアリアンが、叫んでいました。

「聞いてはだめよ! 魔王は約束なんて守らないの! あなたたちが言うことを聞いたって、魔王は結局メールを殺すつもりなのよ!」

「黙れ!」

 魔王の声と共に、目に見えない平手打ちがアリアンの頬に飛びました。アリアンが触手ごと一メートルも飛ばされて、口の端から血をにじませます。それでも、美しい目に涙を浮かべて、じっと魔王をにらみつけます。

 フルートは胸の上の金の石を握りしめました。ポポロも、今にも消えてしまいそうなほど薄らいだ姿で、両手で口をおおっていました。できません。魔王の要求を呑むわけにはいきません。けれども、言うことを聞かなければ、魔王は間違いなくメールを殺すのです――。

 

 すると、突然ゼンがうなり声を上げました。かたわらに伸びている豆の蔓に飛びつくと、猛然とよじ上り始めます。雪エンドウの蔓は、まるで木の枝のような太さです。そこをあっという間に登り、横に枝分かれした蔓の上を駆け抜けるように渡り、またさらに上へと登っていきます。そうしてたどりついたのは、空中に浮かぶ黒い魔王のすぐ上でした。

「この野郎! おまえの思い通りなんかにさせるか!」

 とどなりながら、ショートソードを抜いて飛びかかっていきます。

「ゼン!!」

 子どもたちはまた、思わず声を上げました。

 すると、ショートソードが魔王に届く前に、ゼンの体がはじき飛ばされました。闇の障壁に防がれたのです。十メートル近い高さから、地面に向かって落ちてきます。

「危ないっ!」

 子どもたちはまた悲鳴を上げました。風の犬のルルが、とっさに飛び出して受け止めようとします。

 そこへ、ザーッと音を立てて白い花が飛んできました。落ちてくるゼンの下に広がって、ふんわりと花びらの上に受け止めます。宙から半ば透き通ったメールが舞い下りてきました。

「まったくもう。無茶するんじゃないよ、ゼン。剣なんかで魔王が倒せるわけないじゃないか」

 とあきれたように話しかけてきます。ゼンは真っ赤になって跳ね起きました。

「馬鹿野郎! おまえこそ何落ちついてやがるんだよ! 魔王に殺されてもいいのかよ!?」

 すると、メールが、はっ、と鋭く笑いました。

「あたいを誰だと思ってんのさ。渦王の鬼姫だよ。海の王の娘なんだよ。死ぬのが怖くて海の民がやってられるかい。人質に取られるくらいなら、ひと思いに殺された方がずっとましだね!」

 ゼンは思わず頭を抱えました。そうです。メールたち海の民は、死ぬことをも恐れない勇猛な種族なのです。友だちを窮地に追い込みながら不名誉に生き続けるよりは、潔く死ぬことの方を選んでしまうのです。

 メールが頭をそらして魔王を見上げました。

「というわけさ。さあ、早いとこあたいを殺しなよ。そうすりゃ人質はなくなるからね。あんたはフルートたちに倒されるだけさ」

「メール!!」

 子どもたちはまた叫びました。本当に叫び声しか出てきません。

 ゼンが真っ青になってメールに飛びつきました。

「馬鹿、挑発するな! 本気になるぞ――!」

 けれども、白い花の絨毯の上、つかもうとしたゼンの手はメールの体の中をすり抜けてしまいました。ここにいるのはメールの心だけです。実体は蛇の鎌首の地下にあって、今まさに闇の触手に殺されようとしているのです。思わず顔を歪めたゼンに、メールが笑いました。

「なに壮絶な顔してんのさ、ゼンったら。さ、そろそろ下におろすよ。あたいが死んだら、あんた、また墜落しちゃうもんね」

 さらりとそんなことを言ってのけると、メールはあっというまにゼンのかたわらから消えました。魔王と同じ高さまで飛び上がって、真っ正面から魔王を見据えます。

「さあ、やってごらんよ、魔王。フルートの金の石も、ポポロの力も、あんたになんかには渡さないからね。フルートたちがそうするって言ったって、あたいが絶対にさせないんだから!」

「メール!」

 ゼンがどなりました。地上に降り立った足下から、白い豆の花が崩れるように離れていきます。ゼンは思わず泣き出しそうな顔になっていました。

 フルートは自分の持つ力や仲間たちの持つ力を、ありったけ頭の中に並べてメールを救う方法を考えていました。なにか――なにかあるはずです。メールを助けるための方法が、なにか――。

「よかろう」

 と魔王が言いました。表情ひとつ変えずに、地上に映し出された闇の触手と、その前に倒れて動かないメールとを見下ろします。そのまま触手に命じようとします。

 

「待て!」

 とフルートは叫びました。

 触手がまたぴたりと止まります。黙って目を向けてくる魔王に、フルートは言いました。

「金の石は渡す! メールは殺さないでくれ!」

「馬鹿言うんじゃないよ、フルート!!」

 すさまじい口調でわめいて、メールが飛んできました。幻の体なのに、つかみかからんばかりの勢いでフルートに飛びついてきます。

「そんなことしたら世界中のヤツらが魔王に殺されちゃうじゃないか! あんたたちも皆殺しにされるよ! 情に惑わされるんじゃないよ!」

 フルートは、青ざめながらもほほえんで見せました。

「ぼくにそれを言うのは無理だよ……。ぼくには、世界中の人たちも、君たちの命も、同じくらい大事なんだもの。どっちも死なせるわけにはいかない。金の石は魔王に渡すよ」

「そんな、フルート――!!」

 メールは金切り声になっていましたが、フルートは無視して首から金の石を外し、自分の足下に置きました。魔王がほくそ笑むような目でそれを見守っています。

 すると、かがみ込んだままの姿勢で、フルートが言いました。

「ねえメール、魔王は今、この豆の森の中に来ているよね。それなのに、どうして山の地下にいる闇の触手に、君を殺すことを命令できるんだろう? どうやって、魔王は触手や君たちの姿を見ているのかな?」

 メールは目を丸くしました。フルートが何故唐突にこんな質問を始めたのか、理解できなかったのです。それでもフルートが返事を待っているので、とまどいながら答えました。

「魔王は……アリアンの目でいたるところを見てるのさ。今は、洞窟の中の闇の触手やあたいたちを見ているんだ。あそこに映し出されてるのは、魔王が見ている光景の写しだよ」

 フルートはうなずきました。ほんの少し、考えるような表情をしてから、また口を開きます。

「ロキが言っていたんだ。占いおばばが水晶玉で占うように、自分たちは鏡を媒体にして透視をするんだ、って。ロキは剣に景色を映して見せた。アリアンの前にも、鏡があるんじゃないの? それに映った姿をアリアンが見るから、魔王にもそれが見えているんじゃないのかい?」

 少女たちはますますけげんな顔になりました。本当に、フルートが何故こんな話をするのか、全然わけがわかりません。

 触手につるされているアリアンが答えました。

「私の前には氷の鏡があるわ……私はそれで今、洞窟の中の様子と豆の森の様子を見ているの」

「余計なことは話すな!」

 と魔王が乱暴にさえぎりました。大きく顔を歪めています。意味のわからないやりとりに、胸騒ぎを覚えているのです。

「フルートよ、早く石を手放せ! ぐずぐずするなら、メールを殺すぞ!」

「わかってる、放すよ。――もうひとつだけ、確かめたらね」

 そう言って、フルートは今度は頭上の少女を見上げました。

「ねえポポロ、君、力を奪われていても魔法はまだ使える?」

 少女は宝石の瞳を見開きました。

「強い魔法は……でも、今日はまだ魔法を使ってないし、ありったけの力を集めれば、一度だけなら使えるわ……」

 両手をいっそう強くにぎり合わせながら答えます。フルートはまたうなずきました。

 魔王が大きく眉をひそめました。不吉な予感に、瞬時に決断を下します。

「ええい、かまわん! 触手よ、メールを――」

 とたんに、その声にフルートの声が重なりました。

「ポポロ! アリアンの前の鏡を壊せ! 魔王が君たちを見られないようにするんだ!!」

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