フルート、ゼン、ポチの二人と一匹は、雪原に突然現れた雪エンドウの森に飛び込んでいきました。蔓の間をぬうようにして、奥へ奥へと逃げ込んでいきます。
いえ、逃げているのではありません。後を追ってくる雪オオカミたちを奥へ誘い込んでいるのです。周囲では豆の蔓がますます伸びて太くなっています。小柄なフルートたちなら通り抜けることもできますが、雄牛のように巨大な体をした雪オオカミたちには、くぐり抜けてくるだけでも大変なはずです。そうして動きが鈍ったところを迎え撃つつもりでいたのでした。
豆の森の中にオオカミの吠える声が響き始めました。フルートたちの匂いをたどって飛び込んできたのです。案の定、その声がうなり声や困惑したようなキャンキャンいう声に変わります。太い蔓に行く手をはばまれて、難儀を始めたのです。
フルートは仲間たちにささやきました。
「力はある奴らだ。きっと無理やり進んでくるだろう。ばらばらになったところを一匹ずつ倒そう」
「おう」
とゼンが返事をして、背中の弓にちょっと触れました。蔓が絡み合ってどんどん空間を狭めているので、ゼンも弓矢が使いづらくなっていましたが、場所さえ選べば何とかなりそうです。少年たちはオオカミの声の方向と距離を確かめながら、できるだけ自分たちに有利な地点を探して、さらに森の奥へと進んでいきました。
周囲では雪エンドウがますます太く伸びていました。無数に枝分かれした先から、さらに新しい蔓が伸びて絡み合い、葉を広げていきます。葉の間からさらに細い蔓が伸びて、つぼみが現れてふくらんでいきます。
ポチが感心したように言いました。
「ホントに成長の早い植物ですよねぇ。もう花が咲き出していますよ」
「え……?」
フルートは思わず、ぎくりと足を止めました。心の琴線に触れて警鐘を鳴らすものがあります。
見回すと周囲はもう白い花でいっぱいでした。みるみるうちにつぼみが花びらを開き、雪が降り積もったように、いたるところを白く変えていきます。むせるような花の香りが漂い始めます――。
と、豆の花たちが、いっせいにザワリと震えました。まるで小さな蝶の群れのように、白い花びらを小刻みに動かし始めます。フルートたちは顔色を変えました。
「しまった!」
「ちくしょう、これは――!」
すると、唐突に豆の森の中に魔王の声が響き渡りました。
「愚かな人間ども! 自分たちの死に場所に自分から飛び込んで行きおったな!」
あざ笑う声に応えるように、ザーッと音を立てて、豆の花が蔓から離れました。生き物の群れのように空を飛び、周囲の蔓をへし折りながら一箇所に集まっていきます。フルートは叫びました。
「花使いの力だ! 逃げろ!」
メールが持つ花使いの力は強力です。ひとつひとつの花は華奢で可憐なのに、寄り集まって何かを形作ったとたん、そのものの能力まで持ち始めます。
今、白い花たちは巨大なオオカミの形を作り始めていました。自分たちの母体である豆の茎や蔓をへし折りながらふくれあがり、見る間に頭や体が現れ、鋭い牙が伸びてきます。口が完全にできあがったとたん、花のオオカミは頭を上げて遠吠えをしました。
アオォォォーーン……!
オーン、オォーン。
それに応えるように豆の森の中からオオカミたちの声が上がりました。フルートたちを追ってきた雪オオカミたちが吠えたのです。声を頼りにこちらへ向かってくる気配がします。
子どもたちはすでに蔓の間をくぐり抜けて、さらに奥へと逃げていました。花のオオカミは白い花びらの体をぶるっと震わせると、蔓が絡み合った空間へ躍り込んでいきました。たちまち蔓がちぎれ、葉が飛び散ります。その間を力ずくでくぐり抜けて、花オオカミは子どもたちを追い始めました。
フルートたちは豆の森の中で進みあぐねていました。周囲では次々と花が咲き続けています。花は開いたとたんに小さな虫のように蔓を離れ、フルートたちの体にまとわりついてくるのです。そのままでは、先にバジリスクの洞窟で襲われたように、花に絡め取られ、伸びてきた蔓の針で突き刺されてしまうかもしれません。少年たちは花を払い落とすのに必死になって、先に進むことができなくなっていました。
「ワン、ぼくが風の犬になれれば……!」
ポチは花を払い落とすのに地面を転げ回り、悔しそうに言いました。ポチの風の犬の力は魔王に奪われてしまっています。風の首輪はまだ首の周りにありますが、緑の宝石が灰色の石ころに変わっているのでした。
フルートも唇をかんでいました。森の中では炎の剣は危険すぎて使えません。ゼンの怪力も、無数の小さな花たちにはほとんど効果がありませんでした。ちぎってばらばらにしても、またすぐに寄り集まって襲いかかってくるのです。
やがて、豆の森の中が満開になると、フルートたちは圧倒的な数の花にすっかり取り囲まれてしまいました。もがいてももがいても、さらにたくさんの花が押し寄せてくるだけで、どうしても脱出することができません。
そこへ、豆の森をへし折りながら、巨大な花オオカミが姿を現しました。大小の三つのボールのようになった子どもたちを見ると、花の舌をたらして喜びながら近づいてきました。花もろとも、獲物をかみ砕こうとします――。
その時、森の中に、りんとした声が響き渡りました。
「花たち!」
とたんに、フルートたちを包んでいた花が、ザワリと大きく揺れました。まるでいやいやをするように花びらが震え、花のボールの表面が乱れ始めます。
すると、また先と同じ声が命じました。
「おやめ、花たち! 今すぐ放すんだよ!」
花のボールがいっそう激しく乱れました。白い花の群れがざわめき、狂ったように動き始め――やがて、ザーッと雨のような音を立ててフルートたちから離れました。そのまま一箇所に寄り集まって、白いトラの形に変わります。
花のトラは花オオカミに負けないほど巨大でした。オオカミの目の前に立って、森中を震わせるような声で吠えます。さすがのオオカミも思わずたじろぐほどの咆哮です。
花から解放されたフルートとゼンとポチは、そんな花のトラの頭上を見つめていました。誰もいません。何もありません。ただ、巨大な花の獣たちに押しつぶされた花の蔓や葉がぶら下がっているのが見えるだけです。なのに……少年たちには見える気がしたのです。幻そのもののように淡く光り輝く少女の姿が。
少女は細い長身をいっぱいに伸ばし、両手を高く差し上げて、花オオカミを見据えていました。ひとつに結った長い髪が、燃え上がる緑の炎のように揺れています。
と、少女は花オオカミに向かって、鋭く両手を振り下ろしました。たちまち花トラが飛び上がり、オオカミに真っ正面から飛びかかっていきます。獣のうなり声が上がり、激しい戦いが始まります。互いの牙が相手の体をかみ裂き、血や肉の代わりに、ちぎれた花びらが飛び散ります。
「メール!!」
と思わず少年たちは叫びました。花トラの上に淡く輝くきらめき。その中に見え隠れしているのは、確かに、海の民の血を引く花使いの姫なのでした。
すると、メールが少年たちを見下ろしました。もどかしいほどにはかない姿で、それでも、にやっと笑って見せます。
「雪オオカミたちが近づいてきてるよ。この場はあたいに任せて、早く行きなよ」
「馬鹿野郎! おまえひとりに戦わせられるか!」
とゼンが即座にどなり返します。目の前では花の獣たちが戦い続けています。大きさも強さも互角の戦いです。
すると、メールがまた笑いました。楽しそうな笑い声です。
「あたいはひとりじゃないよ。ほら、見えないのかい? ポポロがちゃんと力を貸してくれてるんだよ」
メールが振り向いた背後に、もうひとつの淡いきらめきがありました。メールを包む光は薄い青い色ですが、こちらは緑色です。その中に黒衣の小さな少女の姿が見える気がしました。
少女は両手を胸の前で組み、祈るような姿で立っていました。少年たちと目が合うと、ちょっとほほえむような表情を見せます。
フルートはすぐにうなずくと、親友の腕を引きました。
「行こう。ここじゃ雪オオカミが迎え撃てない。もっと奥へ行くんだ」
と、渋るゼンを連れてさらに進もうとします。
すると、また魔王の声が響きました。
「ここにもか! まだあきらめないのか! しぶとい奴らめ!」
声と同時に、かき消すようにメールとポポロの姿が見えなくなりました。花トラが音を立てて崩れて花に戻り、次の瞬間には大きく渦を巻いて、フルートたちの方に襲いかかってきました。メールの力が魔王に奪われて、また花たちが魔王の支配下に入ったのです。フルートたちは思わず身構えました。が、無数の花たちに抵抗する手段はありません。
ところが、花の群れが少年たちの寸前で、また大きく向きを変えました。Uターンして、後ろに迫る花オオカミに攻撃の矛先を変えます。
「な、なんだ……?」
驚いたような魔王の声が響く中、また、ぴんと張り詰めた少女の声が笑いました。
「馬鹿にするんじゃないよ! あたいたちにはポポロがついてるんだ。そんなに簡単に引っ込んだりはしないさ!」
再び豆の森の中にメールが現れていました。先よりもっとはっきりした姿が、宙に浮かび上がっています。
「そら、お行き、花たち! こっちが本家本元さ。実力を見せてやるんだよ!」
メールが空中で腕を振ると、花の群れが再びトラに変わって、花オオカミに飛びかかっていきました。あらたに蔓から離れる花たちも、吸い込まれるように花トラの体に飛び込んでいきます。トラはみるみる大きくなり、オオカミより巨大な姿になりました。圧倒的な大きさの差で相手を組み敷いていきます。
そこへ、オン、ウォン、と吠え声が響いて、とうとう三頭の雪オオカミがやってきました。花オオカミが力ずくで切り開いた道を通ってきたのです。
すると、淡い緑の光の中に再びポポロの姿が現れて、声を上げました。
「ルル!」
たちまち、何もなかった空間に銀の光が集まって、その中から風の犬が飛び出してきました。幻よりももっと淡い、幽霊そのもののような姿をしています。その体には、ほのかに銀色の毛がきらめいていました。
「ワン、ルル!!」
ポチは思わず歓声を上げました。魔王に力を奪われて連れ去られたと思った友人が、また風の犬になって戻ってきたのです。
そんな子犬を、ルルはちらりと見下ろしました。いつもの高慢そうな口調で、でも、ほんのちょっぴり笑うようにこう言います。
「あなたもなかなかがんばるわね、ポチ。雪オオカミは私に任せなさい。早く行くのよ」
「小娘ども――!!」
魔王の怒りの声が響きました。一瞬、三人の少女たちの姿が揺らめいて消えかけます。
けれども、次の瞬間、また光が強まって、少女たちの姿がはっきりしました。その中でも特に鮮やかに見えるのは、手を組み、淡い緑の光を放ち続ける少女の姿です。ポポロは力を奪おうとする魔王に抵抗して、仲間の少女たちに力を送り続けているのでした。
風の犬のルルがうなりをあげて雪オオカミたちに襲いかかっていきました。ルルは心だけ、魂だけの存在です。それでも、鋭い風の刃の力で敵を切り裂き、悲鳴を上げさせました。
花トラを操りながら、メールが叫びました。
「さあ、早く行きなったら! あんたたちの敵は魔王だよ! こんなヤツらにいつまでもぐずぐずしてるんじゃないよ!」
と少年たちを叱りつけます。少年たちは我に返った顔になりました。フルートがゼンとポチに言います。
「行こう。魔王は森の外だ。今のうちにあいつを倒そう!」
「おう」
「ワン」
ゼンとポチも返事をします。
ところが、彼らが豆の森の中を走り出そうとしたとき、また魔王の声が響き渡りました。
「おのれ! 許さん! 今度という今度はもう許さんぞ、小娘ども!!」
フルートたちは思わず足を止めました。魔王の声が今までよりもずっと近く、はっきりと聞こえたからです。はっと振り向くと、豆の森の中に黒い男が姿を現していました。淡い光のような少女たちと向き合うように、宙に浮かんでいます。
「魔王!」
とフルートたちは叫びました。魔王は自ら豆の森の中にやってきたのでした――。