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第5巻「北の大地の戦い」

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79.真相

 山の斜面に突然現れた氷の裂け目に、凍った雪が次々に崩れ落ちていきました。斜面の中ほどに長い深いクレバスが姿を現していきます。割れ目は一番広い場所で幅が三メートル近くあります。ロキはそのあたりに落ちていったのでした。

「ロキ! ロキ――!!」

 まだ雪が裂け目の中に崩れ続けているのにもかわまず、フルートはクレバスに駆け寄りました。

 すると、裂け目の上の凍った雪を必死でつかんでいる二つの手が見えました。指には長い爪が生えています。ロキは、すんでのところでクレバスの縁をつかんで、転落をまぬがれたのでした。

 のぞき込んだフルートの青い目と、はい上がろうと必死になっているロキの赤い目が、まともに出会いました。

ロキがちょっと目を見張ってから、皮肉に笑いました。

「完全に形勢逆転、かな。この格好じゃ、さすがに何もできないや。兄ちゃんの思うままだね」

 フルートが自分に剣を振り下ろしてくるか、氷の裂け目へ突き落とそうとするか――とにかく、そういうことをしてくるはずだと考えている口調でした。

 すると、フルートがかがみ込みました。右手を伸ばして、氷の崖にしがみつくロキの腕をつかみます。

「上がってくるんだ! 早く!」

「……フルート兄ちゃん」

 ロキは本当に驚いた顔になりました。闇の民の姿の自分を、フルートは強く支え、引き上げようとしています。本気で助けようとしているのです。

 ロキの顔がはっきりと泣き顔に変わりました。フルートに向かって何かを言おうとします。

 

 ところがその時、フルートがつかんでいない方のロキの手が、いきなり崖から離れました。凍った雪が体温で溶けて手が滑ったのです。その拍子にもう一方の手も崖から離れ、ロキの体がクレバスの中へ落ち込みます。

 ロキと手をつないでいたフルートは、引きずられて崖の上にたたきつけられました。金の鎧がガシャンと音をたて、衝撃で一瞬息が詰まります。それでも、フルートは手を離しません。

 ロキはフルートに腕をつかまれたまま、クレバスの中に宙ぶらりんになりました。下は底も見えない真っ暗闇の奈落です。落ちかけた拍子に崖から崩れた氷のかけらが、いつまでも音をたてながら落ちていくのが聞こえています。

 と、ロキの体が少しずつ下がり始めました。ロキは、はっと顔を上げました。自分と手をつないだフルートが、じりじりとクレバスへ身を乗り出してきています。その顔色は、ロキに劣らず真っ青です。フルートは右腕しか使えません。左腕で体を支えることができなくて、一緒にクレバスに落ちそうになっているのでした。

 ロキは思わず声を上げました。

「離せ、フルート兄ちゃん! 手を離せよ!」

 けれども、フルートは逆にロキをつかむ手に力をこめました。フルートの金属の鎧は、凍った斜面で止まることができません。どんなに必死でこらえようとしても、ロキに引きずられるまま、クレバスに向かって滑っていってしまいます。それでも、フルートは絶対に手を離す気はなかったのです。

「馬鹿! 兄ちゃんまで落ちるぞ! 離せったら!」

 とロキが暴れました。身をよじってフルートの手を振り払おうとするのですが、フルートが固くつかんでいるので、逆に二人ともが一気にクレバスに落ち込みそうになります。ロキは息を飲み、ついに泣き声になりました。

「離せったら――。おいらは闇の民だぞ。これくらい、落ちたって死なないんだよ」

「死ななくたって……怪我は……するはずだ」

 とフルートが答えました。止まりようのない斜面に必死で抵抗しているので、息が上がっています。

「でなかったら……そんなに本気になって……しがみついたりしないはずだもの……」

 ずるり、とまた体が大きく滑りました。フルートの体が半分以上クレバスの中に落ち、ロキの体も一気にまた下がります。ロキは思わず悲鳴を上げました。フルートの言うとおり、闇の民でも、何百メートルもある深いクレバスに落ちれば、決してただではすまないのでした。

 くそっ、とフルートはつぶやきました。左手さえ使えれば、滑り落ちていく体を支えて、ロキを引き上げることができるのです。けれども、フルートの凍傷を負った左腕は、剣帯で体に縛りつけられていて、どうしても動かすことができません。

 ゼン、ポチ! とフルートは心の中で仲間たちを呼びました。ポポロ、メール、ルル! 誰でもいい! 頼むからロキを助けてくれ――!。

 けれども、空の彼方から飛んでくる風の犬の音はなく、これまで決まって助けに駆けつけてきた少女たちの気配も、今はもう、まったく感じられないのでした。

 フルートの体がますます滑っていきます。あともう少し前に進んでしまえば、体は重みに耐えられなくなって、二人とも一気にクレバスへ転落してしまうでしょう。フルートの手の下から、低いロキの声が聞こえてきました。すすり泣きの声でした。

 ついにまた、ずるりと体が滑りました。フルートは崖の上でバランスを崩すと、頭からクレバスの中へ落ちていきました。その右手の先にはロキがいます。青ざめた泣き顔を上げて、フルートを見つめています――

 

 と、いきなり二人の体が宙に止まりました。誰かがフルートの剣帯を背中からつかんで引き止めたのです。反動で手が離れそうになって、ロキがとっさに両手でフルートの右手にしがみつきました。フルートがそれを強く握り返します。

 二人はぐんぐん引き戻され、あっという間に氷の崖の上に引き上げられました。凍った雪の上へ、放り出されるように助け上げられます。

 ゼン! と笑顔で振り向いたフルートは、次の瞬間、目を見張りました。そこに怪力の友人の姿はありませんでした。すぐそばに立ってフルートたちを見ていたのは、黒い羽根と毛におおわれた、ワシのような頭のグリフィンだったのです。

「グーリー」

 とフルートは思わず言いました。とたんに、グリフィンは頭を振り、何メートルも後ずさっていきました。まるで、自分はそんなものではない、と言いたげな様子です。けれども、フルートにはわかっていました。今、クレバスから自分とロキを引き上げてくれたのは、他でもない、黒いグリフィンのグーリーなのです。

 日差しが雪の斜面に座りこんだロキの姿を、くっきりと浮かび上がらせていました。黒い髪、黒い服、額に角を生やした小さな少年――。けれども、それはやっぱりロキでした。どんなに姿形が変わってしまっても、ロキもグーリーも、フルートが知っている彼らに違いないのでした。

 

 震える声で、ロキが言いました。

「し……しかたなかったんだよ……。おいらが兄ちゃんを殺さなかったら、魔王は姉ちゃんを殺すって言うんだから……。闇の国のヤツらなんて、たとえ仲間だって、絶対に助けになんか来やしない。おいらが自分で助けるしかなかったんだよ……」

 フルートは立ち上がってロキを見ました。これまで聞かされてきたロキの話と内容が一致しています。

「お父さんとお母さんが死んでから引き取られていった親戚のところってのが、闇の国だったんだね? それまでは、やっぱりロキはこの北の大地に住んでいたんだ」

 少年はうつむいたまま、うなずきました。

「おいらの父ちゃんと母ちゃんは、闇の国から逃げ出してきていたんだ……。暗い地下の国じゃなく、明るい光の差す地上で暮らしたくて。トジー族に変身して北の大地に住みついて、そこで、姉ちゃんやおいらが生まれたんだ。おいらたちは最初からトジー族の姿をさせられてた。グーリーも、生まれてすぐに闇の国から一緒に連れられてきていて、大トナカイに変身させられてた。だから、おいらたち、ずっと、自分をトジー族や大トナカイだと信じてたんだよ……」

 身の上話をする少年は、まるで自分の角と牙を隠そうとするように、ずっと顔を伏せたままでした。

「父ちゃんと母ちゃんが氷の海に消えてった後、おいらと姉ちゃんは、どうしていいのかわからなくて、家の中でずっと泣いてた。そしたら――気がついたら、こんなふうに闇の民の姿に変わっていたんだ。グーリーもグリフィンに変わってた。父ちゃんが死んで、おいらたちにかけてた魔法が解けちゃったんだよ。おいらたち、びっくりして……本当に、わけがわかんなくなって……そこに、ガンヘン村の大人たちが来たんだ。トジー族って、本当に、助け合う民なんだよ。父ちゃんたちは村の人たちとあんまり付き合いはなかったけど、父ちゃんたちが海で死んだのを見て、おいらたちを心配して来てくれたんだ。だけど、角や牙が生えてるおいらたちを見たら、悪魔だ、悪魔の子だ、って氷を投げつけられて――村から追い出されたんだ」

 

 ロキの話が途切れました。うつむいたまま、唇をかんでいる気配がします。

 フルートは何も言うことができませんでした。それまでずっと自分たちをトジー族だと信じ込んでいた彼らが、自分たちの本当の姿を知り、村人から思いもよらない仕打ちを受けて、どれほどショックを受けて心に深い傷を負ったか――。想像するだけで、こちらの胸までつぶれるような想いがします。

 エェェン……とグリフィンが弱々しい声を上げました。まるで、少年と一緒になってすすり泣いているような声でした。

 ふうっとロキが大きな溜息をついて、また話し出しました。

「村から追い出されて、雪原で途方に暮れてたら、角と牙が生えた黒いヤツらが迎えに来た。そのとき初めて、おいらたちは自分たちや父ちゃんたちの正体を知ったんだ。闇の国なんて嫌だったけどさ……おいらたちは子どもで、自分たちだけで北の大地で生きていくことはできなかったから、そいつらについていくしかなかったんだ……。闇の国はホントにひどいところさ。生き馬の目を抜くようなヤツらばかり住んでるんだ。優しいヤツなんて、誰ひとりいない。間違って誰かに優しくしようもんなら、あっという間につけ込まれて、骨の髄までしゃぶりつくされるからな。おいらたちを連れに来たヤツらだって、おいらたちを自分たちのために働かせるつもりだったんだ。おいらと姉ちゃんは、すぐにそこを飛び出して……おいらは、グーリーと一緒に働いて、実際に生活する方の金を稼いだ。闇の国だって、やっぱり働かなくちゃ生きていけないし、生きていくのには金も必要なんだよ。姉ちゃんは世間知らずでお人好しだけど、占いと透視の力はすごかったから、おいらたちを利用しようとするヤツが現れると、すぐに見抜いてくれた。姉ちゃんがいなかったら、おいらたち、今まで生きのびていられなかったよ。そんなふうに、おいらたちは二人きりで助け合ってきて……でも……その姉ちゃんが、いきなり魔王にさらわれたんだ」

 ロキの声が怒りに大きく震えました。

「あいつは、闇の国のどんなヤツらよりも、もっと冷酷で残忍だった。姉ちゃんをさらうのに、闇の民を何十人も殺して――。おいら、必死でグーリーと後を追って地上まで出たんだ。そしたら、魔王に言われたんだ。金の石の勇者の一行が、まもなく北の大地にやってくる。トジー族のふりをして勇者の仲間になって、隙を狙って勇者を殺せ、って……」

 

 フルートは小さな少年を痛ましく見つめ続けました。

 魔王はずば抜けた透視力のある姉のアリアンを奪っただけでなく、弟のロキにも目をつけて、フルートたちの刺客に使うことを思いついたのです。ロキが北の大地に詳しかったばかりに。

 ロキの声は低くなっていきました。

「最初は……本当に殺そうと思ってた……。グーリーにテントを襲わせて、吹雪の中に追い出せば、ムジラだし、すぐ凍え死んじゃうだろうと思った……。念のために炎の剣も奪おうとして、それは兄ちゃんたちに気づかれちゃったけど……。だけど……」

 ロキの声がまた震えました。今度は怒りのためではありませんでした。

「兄ちゃんたちは優しすぎるよ……。どうして、おいらみたいなのを本気で助けようとするのさ。それも、何度も何度も。フルート兄ちゃんなんて、おいらにマントを貸したせいで、そんなひどい凍傷になっちゃうしさ……なのに……兄ちゃんたちったら、一言もおいらのことを責めないし……」

 ロキの声はますます震えていました。すすり泣くような息づかいが混じり始めています。

「ダメなんだよ、そんなにおいらのことを信用しちゃ……。おいらは闇の民なんだからさ。おいらのことを友だちだなんて、言っちゃダメなんだ……。魔王は闇の帝王だよ。そいつに命令されたら、おいらたち闇のものたちは従うしかないんだもの……」

 すすり泣きの声が大きくなってきました。

 フルートは思わずロキにかがみ込みました。何と声をかけてやればいいのか思いつきません。思わずその小さな背中に右手を回すと、ロキはびくりと震えて、すすり泣く声で笑いました。

「ホントに……フルート兄ちゃんは信じられないくらい優しいや……。おいらの正体がわかっても、やっぱりこんなに優しいんだもん。そんなだから……だから……」

 ロキが急に大きく声を震わせ、腕を伸ばしてフルートにしがみついてきました。ロキ、とフルートが声をかけると、少年は泣き顔を隠すように鎧の胸に顔を埋めました。

 それを優しい目で見つめたフルートが、ふいに大きく目を見張りました。ロキの左腕は自分の体に回されています。右腕はフルートの顔のすぐ下まで来ていて――その中に、小さな短剣を握りしめていたのです。針のように鋭いその刃先は、ぴたりとフルートの顔に狙いをつけていました。

 フルートの胸で、ロキがまた笑いました。今度ははっきりとした笑い声でした。

「だから、ダメだって言ってるのさ。おいらを信じたら、裏切られるのに決まってるんだから。だって、おいらは闇の民なんだよ? だますのは闇の民の得意技さ」

 ロキは顔を上げてフルートを見上げました。その頬には一粒の涙も流れてはいません。ずっと泣き真似をしていたのです。赤い瞳がまがまがしく光りながら笑っていました。

「姉ちゃんを助けられるのは、おいらだけだ。兄ちゃんを殺さなかったら、姉ちゃんが殺される。だからさ――悪いんだけど殺されてくれよね、フルート兄ちゃん」

 ロキが右手に握る短剣が、不気味にぎらりと光っていました。

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