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第5巻「北の大地の戦い」

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第19章 黒い者たち

78.角と牙

 「ロキ……?」

 フルートはトジー族の少年を見上げました。呆然としてしまいます。

 炎の剣がクレバスに落ちるのを止めようとしたフルートは、凍った地面の上に膝をついています。その姿勢から見上げた顔へ、ロキはフルートのロングソードを突きつけているのでした。

 フルートを見るロキの表情には、いたずらめいたところが少しもありませんでした。冗談や悪ふざけでそんなことをしているのではないのです。さっきクレバスから響いてきた魔王の闇の声に心とらわれてしまったのに違いありませんでした。

 フルートはあわてて叫びました。

「ロキ、目を覚ませ! 闇の声に負けるんじゃない!」

 魔王やデビルドラゴンが語る闇の声は、人の心の一番弱い部分を突いてその人物を支配してきます。心を強く持って闇の誘いを追い返すしか、立ち向かう方法はないのです。

 けれども、ロキは何故だか笑いました。歪むように笑った顔は、ひどく毒々しく、どろりと暗いものに充ちているように見えました。

「ほぉんと、フルート兄ちゃんって人がいいよなぁ」

 とロキが言いました。あざ笑うような声ですが、口調は意外なほどしっかりしています。

「まだわかんないの? おいらは魔王に操られてるわけじゃないんだよ。おいらは兄ちゃんを殺すために、ずっと兄ちゃんたちのそばにいたんだ。おいらは刺客だったんだよ」

 フルートは目を見張りました。そう言われても、すぐにはピンと来ません。刺客? と頭の中で繰り返してしまいます。

 すると、ロキがまた笑いました。

「兄ちゃんったら、ホントにおいらのことをすっかり信用してたんだなぁ。おいらの演技力もなかなかだったかな。じゃあ、見せたげるね。これが、おいらの本当の姿さ」

 そう言うと、ロキは片手を自分の前にかざし、意味ありげに空間をなでました。とたんに、少年の姿がかげろうのように揺らめき、フルートの目の前で変わり始めました。ウサギのように長い耳が、みるみる縮んで先のとがった短い耳になります。分厚い毛皮の服が溶けるように消えて、北の大地には不似合いなほど薄い黒い服に変わります。灰色の瞳は血のように赤い瞳に、茶色の髪は夜空のような黒髪に、そして、額にはとがった角が生え、口の両端からは鋭い牙がにょっきりと突き出してきます――

 

「ロキ……」

 フルートは目の前で変身していく少年を呆然と眺めていました。額に角を生やし、黒髪に黒い服になったロキは、まるで悪魔そのもののように見えます。

 すると、突然すぐ近くで、ギエェェ……と大きな鳴き声が上がりました。ぎくりとして振り向いたフルートの目に飛び込んできたのは、ロキと同様に溶けるように変身していく、大トナカイのグーリーの姿でした。大きな体がさらに大きくふくれあがり、長い灰色の毛が短くなり、首や足が伸び、背中に巨大な翼が現れます。頭がくちばしのあるワシの頭部に、体はワシとライオンをつないだような胴体に変わり、全身が真っ黒な羽毛と短い毛おおわれていきます――。

 変身がすっかり終わったとき、グーリーは巨大な黒いグリフィンに変わっていました。

「そんな……」

 フルートはつぶやいたきり、声を失いました。何もかもが、何かの間違いか、魔王の幻術のような気がします。けれども、フルートは思い出してしまっていました。黒いグリフィンがフルートたちを襲ってきたとき――一度は吹雪の中でテントを張っていたときに、もう一度はダイトの郊外で占いおばばやウィスルといるときに――大トナカイのグーリーは、二度ともその場に一緒にいなかったのです。

 

「ほらね」

 とロキがまた笑いました。そうすると、口の端が持ち上がって、牙が長くのぞきます。

「これがおいらたちの正体。闇の国に住む闇の民のロキ・ノックスと、闇のグリフィンのグーリーさ。改めて、よろしくな、兄ちゃん」

 ロキは馬鹿にしきった顔でフルートを見ていました。今の今まで自分を疑いもしなかったお人好しの勇者を、あざ笑っているのです。

「ホントに苦労したんだよ。兄ちゃんたちときたら、ホントに無茶苦茶強いんだもんな。フルート兄ちゃんとゼン兄ちゃんが揃って、そこにポチまでいたら無敵なんだもん。普通のやり方じゃ絶対に倒せないと思ったから、ずっと、情けないトジー族の子どものふりをしながらチャンスを狙ってたんだ。へへっ、ホントにうまかっただろ? 最初は疑ってたゼン兄ちゃんだって、すっかりだまされたもんなぁ。――おっと、動くな!」

 立ち上がろうとしたフルートに、ロキが剣を突きつけました。鎧の唯一の弱点である顔に、鋭い切っ先が迫ります。

「ダメだよ。炎の剣がなくたって、フルート兄ちゃんは全然油断できないんだから。そのままじっとして、動かないでいてよ。おいらが兄ちゃんを殺すまでさ」

 またロキが笑いました。得意そうな笑い声です。

 けれども、フルートは気がつきました。額に角を生やし、口から牙をのぞかせているロキ。あざ笑うような表情をしているくせに、その目はこれっぽっちも笑っていないのです。血のように赤い瞳は何故かとても悲しげに見えます――。

「ロキ」

 とフルートは口を開きました。

「それがぼくたちに話したかったこと? 話したくても話せなくて悩んでいたのは、このことだったの?」

 とたんに、ロキが一瞬真っ赤になりました。大きく顔を歪め、すぐにまた剣を突きつけてきます。

「黙れ! おまえらになんて、何も話すことなんてない! おいらは闇の民だ! 光の勇者を消し去るのが、おいらの役目なんだ!」

 銀のロングソードはフルートの顔からわずか数センチのところまで迫っていました。剣の柄をロキが両手で握りしめています。けれども、その切っ先は激しく震えていました。剣の重さのせいだけではありません……。

 

 フルートは痛々しい想いで黒い少年を見上げました。少年が命じられて自分に剣を向けているのを、はっきり感じてしまったのです。

「その役目を言ってきたのは魔王だね? だから、あんなに魔王を怖がったんだ。ぼくたちを何度も助けてしまっていたから……。ずっと魔王に見張られてたのは、ぼくたちじゃなくて、君だったんだ」

「違うったら!」

 とロキはまたどなりました。

「おいらが兄ちゃんたちを助けたのは、兄ちゃんを油断させるためさ! おいらを信用させて、こんなふうに隙を突くためにね! ほら、ゼン兄ちゃんだってポチだって、安心してフルート兄ちゃんから離れたじゃないか。これを待っていたんだよ!」

 けれども、絶好のチャンスのはずの今、ロキはフルートに剣を突き立てようとはしませんでした。フルートの鼻先に切っ先を突きつけたまま、ぶるぶると震え続けているのです。その顔色は透きとおるほどに青白くなっていました。

 すると、クレバスの底からまた低い声が響いてきました。

「何ヲシテイル――早クトドメヲ刺セ」

 ロキが、またびくりと震えました。青ざめたまま、笑い顔になります。

「焦るなって。この状況で逃げられるわけないじゃないか……」

 半分ひとりごとのように魔王の声に答えると、改めて、フルートに向かって笑って見せました。皮肉な笑い顔でした。

「楽しかったよねぇ、兄ちゃん。はらはらどきどきの連続だったけどさ、次々と魔王が差し向ける敵をうち破って突き進んで。それに、おいらの演技もホントに大したもんだっただろ? なんたって、トジー族になりきったもんなぁ」

 すると、フルートが驚くほどはっきりと言い返しました。

「演技なんかじゃない。君は本当にトジー族だ、ロキ」

 ロキがびっくりしたようにフルートを見返しました。一瞬、何かを言いかけ、すぐに眉をひそめると、また皮肉な顔に戻りました。

「なんでそんなことを言うのさ、兄ちゃん……? 見ての通り、おいらは闇の民だぜ。これのどこがトジー族だってのさ。全然違うじゃないか」

「理由は知らないよ」

 とフルートが答えました。

「でも、君は確かにこの北の大地に住んでいて、トジー族として生きてきたんだ。そうでなかったら、あんなにいろいろなことを知ってるわけがない。君はトジー族だ、ロキ。姿形はどうであっても、それだけは間違いないんだよ」

 ロキはまたひどく驚いた顔をしました。見開いた目が大きく歪みます。まるで、今にも泣き出しそうに――。その瞬間に見せた表情は、以前のロキと少しも変わりがありませんでした。

 けれども、すぐにロキは激しく頭を振りました。

「馬鹿言え! おいらは闇の民だぞ! トジー族なんかであるもんか! あんまり変なことを言うと承知しないぞ!」

 フルートを殺すために剣を突きつけているはずなのに、そんなことを言います。フルートがそれに答えようとしたとき、クレバスの底から三度目の声が響きました。苛立ち、怒っている声です。

「ヤレ、ろき! 勇者ヲ刺スノダ!」

 ロキが真っ青になりました。はじかれたように剣を大きく引き、力を込めてフルートの顔に突き立ててきます。

 フルートは、とっさにその剣をよけました。ロキは剣の重さに振り回されているので、太刀筋は鋭くありません。簡単に一撃をかわすと、勢いよく立ち上がってロキの手首に手刀を食らわせます。はじき飛ばされて宙を跳ぶロングソードが、日の光に銀にきらめきます――。

 

 フルートは右手を伸ばして剣を受け止めました。そのまま剣を構えます。

 ロキはあわてて大きく飛びのくと、フルートにたたかれた右手首を押さえて、自嘲するような笑い顔になりました。

「ちぇ。やっぱりその剣はおいらには重かったな……。これで形勢逆転かい、兄ちゃん? 勇者が剣を取り戻したんじゃ最強だよね」

 ところが、フルートはすぐに身を起こすと、ロングソードを背中の鞘に戻しました。驚くロキに静かに言います。

「君に向ける剣はないよ、ロキ。君はぼくの友だちだ。友だちには剣は向けられない」

 ロキは驚きを通り越して呆気にとられた顔になりました。とっさには声が出ない様子で、二、三度口をぱくぱくさせます。

「な……なに言ってんのさ……。おいらは闇の民なんだぞ。兄ちゃんたちをだましてたんだ! どうしてそれが友だちだってのさ!?」

「ロキ」

 フルートは目を細めました。懸命に突っ張ってみせるロキは、ひねくれた小悪党のふりをしていた最初の頃の彼にそっくりです。悪ぶってみせる態度のすぐ裏側に、悲しいくらいありありと、その本音が見えてしまっています。

 フルートは優しく言い続けました。

「前に話したことがあったよね。君がムジラでなくても、トジー族でも何でも、ぼくたちの友だちだって。それは今でも変わらない。闇の民でも何でも、ロキはロキだ。やっぱりぼくたちの友だちなんだよ」

 ロキの顔がまた大きく歪みました。今にも笑い出しそうに、大声を上げて泣き出しそうに。その表情を隠すように頭を大きく振りながら、後ずさり始めます。

「馬鹿言ってらぁ、兄ちゃん……! お人好しにもほどがあるぞ。どうして闇の民と人間が友だちになれるのさ。兄ちゃん、自分からおいらに殺されてくれるって言うのかい? ありがたいな。金の石の勇者を殺したら、おいら、闇の国の一大英雄だ……!」

「ロキ」

 フルートはまた少年の名前を呼びました。少年の様子があまりにも痛々しくて、切なくて、それ以上はことばになりません。おびえた捨て猫のように見える彼へ手を差し伸べて、心の中で呼びかけます。おいで、ぼくたちのところへ戻っておいで、と――。

 ロキはますます激しく頭を振りました。

「やめろ! おまえらなんか友だちなもんか! おまえらはおいらに殺されるんだ! こっちに来るな!」

 支離滅裂ぎみにわめきながら、近づいてくるフルートから逃げるように後ずさり続けます。

 すると、突然、ロキの体が沈みました。悲鳴と共に小さな姿がフルートの目の前から消えていきます。たった今、ロキが立っていた場所に、大きな雪の割れ目ができていました。次々に凍った雪が崩れていって、先に魔王の声が響いてきたクレバスにつながっていきます。

「ロキ!!」

 フルートは思わず叫びました。ロキは凍った雪を踏み抜いて、クレバスの中へ落ちていったのでした――。

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