ゼンは風の犬のポチに乗って大雪鳥を追い続けました。
北の大地の北の最果て、サイカ山脈の上空です。世界で最も寒い場所は氷よりも冷え切っていて、吹きすぎる風も凍りつくようです。ゼンはポチの上に顔を伏せ、風の直撃を防ぎながら、前を飛ぶ鳥を見つめ続けていました。雪メガネをかけていて、目に風の直撃を受けないのが幸いでした。
ワン、と飛びながらポチが吠えました。
「大雪鳥には一箇所だけ弱点があるって言ってましたよね? それはどこなんですか?」
ポチはゼンと一緒にその弱点を狙わなくてはなりません。すると、ゼンが顔を伏せたまま答えました。
「左の翼の下だよ。翼の付け根だ」
「ワン、そんなところなんですか!?」
とポチが驚きました。非常に狙いにくい場所です。
「さっきも言ったとおり、大雪鳥は全身を丈夫な羽根でおおわれていて攻撃が効かない。だが、翼の付け根にだけは、普通の鳥のような柔らかい羽毛が生えてるのさ。基本的には左右どっちもそうなんだが、左はヤツの心臓に近い場所なんだよ。だから、そっちが急所だ」
「ワン、大雪鳥が羽ばたいているところを狙うしかないですね。でも、難しそうだ」
「難しくてもやるのさ。あいつは必ず引き返す。その時が勝負だ。しくじったら、あいつはまた突撃体勢に入る。そうしたら、いくら風の犬でも追いつけなくなるし、フルートたちがまた襲われる。チャンスは一度きりだ」
ゼンはいつもの軽口が嘘のように、低く真剣な声で話していました。雪メガネの奥から鋭く鳥を見つめ、やがて鳥が速度をゆるめ始めたのを見ると、ゆっくりと体を起こしていきます。抱きかかえていたエルフの弓を構え、矢をつがえます。ゼンがきりきりと音をたてながら弓を引き絞っていくのを、ポチは飛びながら聞いていました。ゼン以外の者には引くことさえできない強弓です。
するとその時、大雪鳥が空飛ぶポチとゼンに気がつきました。青い瞳に鋭い怒りがひらめきます。
「ワン、攻撃してきますよ!」
とポチは叫んで、とっさに身をかわそうとしました。
けれども、ゼンは弓矢を構えたままどなりました。
「いいから行け! 絶対に逃げるな!」
凍りつくような風の中、こちらへ向かってくる大雪鳥に狙いを定めます。鳥が羽ばたきを強めました。ぐん、と速度が増し、あっというまにゼンたちの目の前までやってきます。
「ヤツの左だ!」
とゼンが叫び、ポチが身をひねりました。大きく羽ばたいた左の翼の下へ飛び込んでいきます。
すると、大雪鳥のくちばしが鋭くポチの体を貫きました。ばっと幻のような体が飛び散ります。その瞬間、ゼンが矢を放ちました。
キアァァァ……!!
大きな悲鳴が上がりました。エルフの矢が、大雪鳥の左の翼の下から体に突き刺さったのです。たちまち空から落ちていきます――。
「ポチ、大丈夫か!?」
ゼンが焦って振り返りました。大雪鳥のくちばしは、ポチの体をまともに貫いたのです。けれども、ゼンが見たときには、ポチはまた元通り、異国の竜を思わせる長い美しい姿で空を飛んでいました。
「ワン、大丈夫ですよ。ぼくは風ですから、普通の攻撃は素通りさせちゃうんです」
とポチが笑うように答えました。
大雪鳥は山間の氷河の上に落ちました。氷でできた川の表面を血で赤く染めながら、弱々しく羽ばたきを繰り返しています。
そのかたわらに舞い下りたポチから、ゼンが飛び下りました。とたんに、キァァ、と鳥がまた鳴きました。力を失った、細い鳴き声です。
「即死しなかったか。わずかに急所から外れたんだな」
とゼンが言いながらショートソードを抜いたので、ポチが驚きました。
「とどめを刺すんですか!? このまま放っておいても、もう攻撃はしてこられないでしょう!」
それなのに殺すんですか? と言いたそうなポチでした。
もともと大雪鳥は人を襲うことのない生き物です。それが彼らを襲ったのは、魔王に操られていたためで、大雪鳥の意志ではなかったのです。
すると、ゼンはじろりとポチを見ました。
「さっきも言ったはずだぞ。こいつは執念深いんだ。今は飛び立てなくても、少し休んでまた飛べるようになれば、必ずまた俺たちやフルートたちを攻撃してくる。こいつが攻撃をやめるのは、俺たちが死んだ時か自分が殺された時の、どっちかなんだよ」
ひどく厳しいゼンの言葉でした。ゼンは猟師です。生き物たちの命を奪うことを生業としている猟師たちは、いつも相手の反撃に遭って自分たちの命を奪われる危険と背中合わせでいます。中途半端な同情が命取りになることは、嫌と言うほど知っているのでした。
ゼンが大雪鳥にショートソードをふるいました。けれども、剣の刃先は、鋼のような鳥の羽にはじかれてしまいます。唯一の弱点は、鳥が翼を折りたたんでいるので外からは見えません。
ゼンはぎゅっと口を真一文字に結ぶと、大雪鳥の太い首に飛び乗って、いきなりその羽根をむしり始めました。手負いの鳥がギャアギャア鳴きわめきながら身をよじります。ゼンは力ずくでその頭を押さえ込むと、さらに頭の付け根の羽根をむしり続けました。
「ワン、な、なにをしてるんですか……?」
思わず震え上がったポチに、ゼンが答えました。
「こうしなくちゃ、とどめが刺せないんだよ。嫌なら見るな!」
銀の羽根が飛び散り、苦しそうな羽ばたきが起こした風に舞い上がって、雪のように降ってきます。大雪鳥は何度も立ち上がろうとしては地面に倒れ、哀願するような悲鳴を上げ続けます。
ゼンが低く言いました。
「フルートにこれはできないさ……あいつは優しすぎるからな。だから、俺が来たんだ」
ポチは目を見張りました。何も言うことができません。
鳥の頭の付け根の羽根はすっかりむしられ、肉色の肌がむき出しになりました。ゼンがショートソードを振り上げます。剣の刃先が、日の光に輝きながら、鋭く振り下ろされて行きます。
断末魔の鳥の声が、氷の山々に響き渡りました――。
フルートとロキはグーリーの背中から降りて、山の中腹の斜面でゼンたちが戻ってくるのを待ち続けていました。
サイカ山脈は静まりかえっていて、ただ風のうなる音だけが氷の峰の間を吹き抜けていきます。大雪鳥も、あれきり攻撃に戻ってきません。ゼンたちが負けるはずはない、と思いながらも、フルートは不安な気持ちを抑えることができませんでした。
すると、ゼンたちが飛び去った方角を見ていたロキが、急に耳をぴくりと動かしました。
「今、大雪鳥の鳴き声が聞こえたよ……。ゼン兄ちゃんがやっつけたみたいだ!」
笑顔になっています。ロキはウサギのように長い耳で、ゼンが大雪鳥を射落とした音を聞き取ったのでした。
フルートは、本当にほっとすると、思わず足下の雪の上に座りこんでしまいました。
「よかった……」
とだけつぶやくと、そのまま片手で顔をおおってしまいます。 ロキは躍り上がってあたりを飛び回り始めました。
「すごい、ゼン兄ちゃん! すごいや! 本当にあの大雪鳥をやっつけちゃうんだもんな!」
すると、喜んで跳ね回る足の下で、突然凍った雪が崩れ落ちました。ぼこっと音をたてて穴が開きます。ロキは悲鳴を上げて飛びのきました。フルートも驚いて跳ね起きます。
「ロキ!?」
トジー族の少年は、そばにいたグーリーにしがみつくと、足を伸ばして穴のそばの雪を蹴ってみました。とたんに、また音をたてて雪が崩れます。その後に現れたのは、幅が一メートルあまりもある氷の割れ目でした。
「ふえぇぇ……危なかった」
ロキは冷や汗をかきました。凍った雪の下にクレバスが隠れていたのです。
「大丈夫?」
とフルートが駆けつけようとしたので、ロキはあわてて手を上げました。
「気をつけて、兄ちゃん! まだクレバスがあるかもしれないよ。ゆっくり歩いてきて……!」
フルートとロキは並んでクレバスの中をのぞき込んでみました。氷の裂け目は、幅は一メートルほどですが、中は真っ暗で底がまったく見えませんでした。試しに足下から氷のかけらを拾って投げ込んでみると、暗闇の中から、いつまでもかけらが滑り落ちていく音が響いていました。
「深いな」
とフルートは思わずつぶやきました。幅はさほどではありませんが、前にロキが言っていたように、千メートルもの深さがあるのかもしれません。少年たちとトナカイは、間違って落ちることがないように、クレバスから距離をとりました。
さらに時間が過ぎました。ゼンとポチはなかなか戻ってきません。あまり時間がかかるので、フルートがまた心配になってきた頃、ロキがようやく耳を動かしました。
「大雪鳥のすごい声が聞こえた……! きっと、ゼン兄ちゃんがとどめを刺したんだよ!」
フルートは、またほっとしてうなずきました。これでゼンたちも本当に帰ってくるでしょう。
ところが、その時また、ロキが長い耳をびくりと動かしました。かたわらのクレバスの底から、何かうなるような音が響いてきたのです。地の底からわき起こるような音でした。
その音はフルートも聞きました。反射的に身構えると、自分の後ろにロキをかばおうとします。
すると、ロキが青ざめた顔のままで笑いました。
「違うよ、兄ちゃん。ただの風の音だよ……。びっくりしたね」
フルートはそれでも少しの間、警戒を解きませんでしたが、それきりもう音が聞こえなかったので、背中の剣から手を離しました。
それを見て、ロキがまた笑いました。
「フルート兄ちゃんって、すごいよね。何かあると、そうやってすぐに剣に手が行くんだもん。やっぱり勇者なんだよね」
フルートは、首をちょっとかしげて、そういえば、という表情をしました。
「いつの間にか癖になったんだな。最初はこんなふうじゃなかったんだけど」
「最初って、いつ頃?」
「ぼくが初めて剣を習ったのは十一歳のときだよ。ゴーリスっていう剣の名手が先生なんだ」
「十一歳!?」
とロキが目を丸くしました。
「おいらよりひとつしか上じゃなかったの? へぇぇ……」
と改めて感心したようにフルートを見上げます。ロキがあまりうらやましそうな顔をしているので、フルートは思わず笑ってしまいました。
「剣を使ってみたいの? 貸してあげようか?」
「え、いいの!?」
ロキが驚きながらも目を輝かせたので、フルートはまた笑ってしまいました。剣ひとつにこんなに感激されるのが、新鮮なような、それでいて懐かしいような、不思議な気持ちがしました。遠い昔、そもそもの始まりに魔の森へ金の石を取りに行ったとき、フルートも年上の友人が持つ剣を、同じような憧れの目で眺めていたのかもしれません……。
フルートから抜き身のロングソードを手渡されて、ロキはおっかなびっくり受け取りました。顔を真っ赤にしながら、切っ先を上に向けて掲げます。銀の刀身が日の光に輝きます。
けれども、それを下に向けたとたん、ロキは思わずよろめいてしまいました。剣の重みに引きずられたのです。剣を構えようとするのですが支えきれません。両手で持って、やっと構えることができました。
「剣って、けっこう重いんだね」
とロキが言いました。構えているだけで両腕が震えています。
「そうだね。それでも、ぼくの剣は軽い方なんだけど……」
実際に、剣というのは意外に重いものです。剣自体の重みをスピードに変えて、切りつけたり貫いたりするためです。それを自在に振り回して戦っているフルートは、小柄な見た目からはちょっと想像がつかないほど、鍛えられた体をしているのでした。
剣を振り回そうとして、とてもできそうにないとわかったロキが、残念そうに剣を下ろして雪の上に突き立てました。それに杖のように寄りかかりながら言います。
「とっても無理だぁ……。フルート兄ちゃん、よくこんな重いもの持って戦えるね」
「そりゃ、ずいぶん稽古したもの」
とフルートはまた笑いました。勇者は、何の鍛錬もなしになれるほど甘いものではないのです。
すると、ロキがフルートの背中に残っている、もう一本の剣を見ました。
「そっちはどうなの、兄ちゃん? その剣も、やっぱり重たいの?」
「炎の剣かい? こっちは魔剣だから、普通の剣よりは少し軽いけどね――」
とフルートは黒い鞘から剣を引き抜きました。黒い柄に赤い宝石がはめ込まれた、幅広の剣です。あらわになった刀身は、先のロングソードより、もっと鋭く輝いていました。
「ちょっと貸して! そっちも貸してよ!」
とロキが飛びついてきて、炎の剣をフルートの手からもぎ取っていきました。危ないよ、と言おうとするフルートを無視して、誰もいない方向に向かって剣を大きく振ります。
「はあっ!」
フルートの真似をしたのです。
けれども、剣の切っ先から炎は飛び出してきませんでした。何度やってみても、どんなにがむしゃらに振り回してみても同じです。ロキには炎の弾は撃ち出せないのでした。
汗だくになって剣を下ろしたロキに、フルートは穏やかに笑いながら言いました。
「簡単には撃てないよ。コツがあるんだ……。でも、もう返してね。この剣はロキが使うには危険すぎるから」
炎の剣は切ったものを燃え上がらせ、燃やし尽くす魔力があります。たとえそれが剣の使い手自身であっても、間違って傷つけたら、やはり炎の魔力に巻き込まれて燃えてしまうのでした。
ちぇ、つまんないの、とロキがブツブツ言いながら、炎の剣を返そうとした時です。
彼らのかたわらに口を開けるクレバスの中から、突然低い人の声が響いてきました。
「今ダ――ヤレ!」
フルートは一気に総毛立ちました。地の底から響いてくるのは、紛れもなく闇の声です。そしてそれは、水晶玉から現れ、ポポロたちを苦しめ、フルートたちを殺そうとした魔王の声に間違いありませんでした。
フルートはとっさにロキへ手を伸ばしました。
「返して! 早く!」
と炎の剣を取り返して身構えようとします。
すると、ロキの手からぽろりと剣が落ちました。凍った雪の上で跳ね返り、かたわらのクレバスの中へ飛び込んでいきます。
「あっ!」
フルートは叫んで剣に飛びつきました。あわてて剣をつかもうとします。
けれども、一瞬遅く、炎の剣は氷の裂け目へ落ちていきました。カラカラカラカラ……カラーンカラーン……深いクレバスの中を剣が滑り落ちていく音が響きます。
フルートは真っ青な顔で呆然とそれを見送り、次の瞬間、鋭くロキを振り返りました。ロキは恐怖に体がすくんで剣を取り落としたのではありません。わざと剣を手放したのです。
「ロキ、いったい――!?」
言いかけて、フルートは声を飲みました。
ロキはフルートのすぐ目の前に立っていました。その手には抜き身のロングソードが握られています。
鋭い剣の切っ先は、フルートにぴたりと狙いを定めていました――。