サイカ山脈を登り続ける一行は、やがて少しなだらかな斜面にたどりつきました。一面に雪が降り積もり、時折吹く風に薄い雪煙を上げています。その中を、グーリーは子どもたちを乗せながら、さらに上へと登っていきます。
しばらくは誰も口をききませんでした。ひょうひょうとうなり続ける風の音の中に、近づく敵の気配を探り続けます。けれども、いくら進んでも新たな敵が現れないので、とうとうゼンがしびれを切らしました。
「なんだ、さっぱり次が来ないな。魔王のヤツ、怠慢してるんじゃないのか?」
まるで敵が出てこないのが残念だと言わんばかりの口調です。
すると、フルートが周囲に鋭く目を配りながら言いました。
「ねえ、気がついていたかい? 今回の魔王がよこす敵には、闇の生き物はほとんどいないんだよ。グリフィンだけは闇の怪物だけど、それ以外は、雪オオカミ、白ツノクマ、雪ケマリ、アイスウィング、スノードラゴン……どれも、この北の大地に棲む生き物や怪物ばかりだ。金の石を奪っていったバジリスクだって、闇の怪物じゃなかった。どうしてだろうね?」
問いかけられてゼンは目を丸くし、顎の先をかきました。
「まあ、こっちには金の石がないんだから、闇の怪物が出てこないのはありがたいんだが、そう言われれば妙だな。金の石がないからこそ、闇の怪物を繰り出してきてもいいはずなのにな」
「だろう? 魔王は闇の怪物の総大将だ。ゴブリン魔王なんて、本当にたくさんの闇の怪物を送り込んできたのに」
すると、ポチがワン、と鳴きました。
「ぼく、ルルから聞いたことがあるんですけどね……魔王が手下にできる怪物や生き物は、その魔王によって違うらしいんです。ゴブリン魔王はもともと闇の怪物だから、闇の生き物を操るのが上手だったけど、ルルは完全に魔王にはなってなかったし、元が天空の国の生き物だから、闇の怪物はうまく扱えなかったって。ルル自身が言ってたんですよ」
この話にはフルートもゼンも目を見張りました。魔王によって手下の種類が変わってくる、というのは、これまで考えたこともなかった事実でした。
「そういえば、ルルの時には怪物はとても少なかったよね……ミノタウロスとゴーレムと……」
「あとは肉坊主だ。肉坊主だけは闇の怪物だったみたいだけどな。ルルの時には、とにかくルルだけが出てきてたぞ。闇の怪物を飼い慣らせなかったのか、なるほどな」
「でも、じゃあ、今回の魔王が闇の怪物をあまり使わずに、北の大地の生き物ばかり使ってくる理由は……?」
そう改めて聞かれても、ゼンにはさっぱり訳など思いつきません。
「そういうときこそおまえの出番だろうが、フルート。なんかうまい説明は思いつかないのかよ?」
と逆に聞き返します。フルートはちょっと首をかしげました。
「説明はできないけど……ひとつだけ思いつくことはあるな。今回の魔王の正体は、きっと、闇の生き物ではないんだよ。だから、闇の怪物をあまり使ってこないんだ」
「でも、魔王は闇の帝王だ」
とロキが突然口をはさんできました。低い声です。
「魔王には闇そのもののデビルドラゴンが乗り移ってるんだろう? そいつが命令してくるんだもん。闇の怪物だって、やっぱり言うこと聞くしかないさ」
どこか投げやりな口調でした。
「ロキ?」
フルートは少年を眺めました。また、なんとなく気がかりな様子になってきています。魔王の強大な力を想像して、またおびえ始めているのでしょうか……?
けれども、それきり、ロキが黙り込んでしまったので、フルートもそれ以上は何も言えなくなってしまいました。そっと顔をのぞき込もうとすると、とたんに顔をそらします。何だか、泣き出すのをこらえているような表情に見えました――。
グーリーは山を登り続けます。いつしか斜面も終わりを告げ、屏風のように切り立った崖がまた行く手をふさいでいました。何十メートルもの高さがあります。
崖にはいくつもの割れ目が走り、そこから氷の壁が崩れ落ちて段差を作っていました。段差がつながって、細い道のように崖の上に続いているのが見えます。
ロキが言いました。
「こっちの崖は険しすぎて、足場が見つからない。あの道を通るしかないね」
とたんに、ひゅう、とゼンが口笛を鳴らしました。崖の上に自然にできた氷の道は、わずか四、五十センチほどの幅しかなかったのです。この巨体のグーリーが通れるんだろうか、とフルートとポチも思わず心配になります。
けれども、ロキはためらうことなくグーリーを崖の道に進ませました。全長三メートルもある大きな獣が、器用に細道を渡っていきます。ところどころで氷が崩れて道が途切れている場所に出くわすと、助走もつけず先の道へ跳び移ります。
初めのうちこそ、落ちるのではないかとはらはらしていた子どもたちも、グーリーの歩みがあまりに安定しているので、すっかり感心するようになりました。
「ホントにおまえは大したヤツだな、グーリー!」
とゼンがまた感嘆の声を上げます。
すると、かたわらの絶壁の上から、ぱらぱらと何かが落ちてきました。小さな氷のかけらです。気がつくと、崖の上から道の上へ、広い範囲にわたって雪のように降りかかってきています。
「落石か?」
ゼンが真顔に戻りました。山の崖の上から小石や土が崩れてきたら、それは落石の前触れです。とはいえ、ここは氷の山なので、岩が降ってくるということはまずないはずですが。
ロキとフルートも崖の上を見上げました。やっぱり、なんとなく胸騒ぎがします。すると、その気持ちを察して、ポチが風の犬に変身しました。
「ぼく、ちょっと見てきますよ」
と言い残して、びゅうっと崖の上へ飛び上がっていきます。やがて、ワンワン、と上から声が聞こえてきました。
「崖の上には誰もいませんよ! ただ、雪の上に穴がいっぱい開いてます! 直径十センチくらいの穴……ものすごく多いです。何千、ううん、何万個もありますよ。いったい何だろう……?」
穴? とフルートたちが驚く中、ロキが顔色を変えました。
「まずい……それ、雪モグラだ」
とささやくような声で言って、突然手綱を鳴らします。
「急いで抜けるんだ、グーリー。雪崩が来るかもしれないぞ」
「雪崩!?」
フルートとゼンはびっくりして声を上げました。
とたんに、しーっとロキが唇に指を当てて見せます。
「静かに、兄ちゃんたち……。雪モグラはサイカ山脈にしかいない生き物で、何千匹もの群れを作って、山の雪に穴を開けるんだよ。雪は固く凍りついてるんだけどさ、雪モグラに穴だらけにされると、ぐずぐずに崩れて、ちょっとした拍子で雪崩を起こすんだ。それこそ、大声ひとつで起きることもあるんだよ」
フルートたちはまた崖の上を見上げました。相変わらず、氷のかけらはぱらぱらと降ってきます。少年たちは、思わず背筋に寒いものを感じました。降りかかってくる凍った雪の破片は、どんどん多くなっていたのです。
ピシリ、とまたロキが手綱を鳴らし、グーリーが駆け出しました。足を揃えて立つこともできないほど細い氷の道を、先へ先へと駆けていきます。その足下で氷が砕け、もろい部分が崩れて崖の下へ落ちていきますが、そんなことは気にもとめません。これは前に進むだけの道、後戻りは決してできないのです――。
すると、そこへポチが飛び戻ってきて言いました。
「ワン、上の雪の表面に何十メートルにも渡ってひびが入ってますよ。穴だらけになった雪が崩れ出しているんです。ここに落ちてきますよ……!」
「雪崩だ!!」
と少年たちは声を上げました。ロキさえ、思わず叫んでしまっていました。とたんに、その声に応えるように、頭上から、ずずず……と鈍い音が響き出しました。見上げると、はるか彼方の崖の上で、ぱっぱっと白い雪煙が上がっています。
「逃げろ、グーリー!!」
ロキはまた叫びました。とたんに、崖の上でぱぱぱっとまた白い雪煙が上がり、地響きのような音がいっそう大きくなります。雪煙の上がった場所から、また凍った雪が落ちてきます。
「来るぞ!」
とゼンが叫びました。
「ダメだ、逃げ切れないよ――!」
とロキも泣き声を上げます。
彼らは恐怖に充ちた目で崖の上を見上げ続けていました。そこから、ゆっくりと雪の塊がせり出し、彼らの上に崩れ落ちてくるのが見えました。彼らがいる場所も、彼らがこれから進む場所も、すっかり飲み込んでしまうほど広範囲な雪崩です。耳を打つ轟音が響き始めます――。
すると、音に負けない大声でフルートが叫びました。
「ポチ、つむじ風! それでグーリーの前を飛ぶんだ!」
「ワン!」
呆然としていた子犬が、たちまち返事をして飛び出していきました。全速力で駆け続けるグーリーの前に出ると、龍のような体でとぐろを巻き、長いつむじ風になって飛び始めます。
フルートは手綱を握っていたロキを乱暴なくらいに引き寄せて、後ろのゼンへ押しやりました。
「どいて!」
とロキが座っていた場所に出て、右手で炎の剣を引き抜きます。彼らの目の前には、渦を巻いて突き進むポチの姿があります。そこへ向かって、フルートは剣をふるいました。
「はっ!」
とたんに炎の弾が飛び出し、ポチの風の体に巻き込まれました。たちまちポチがまた炎の渦に変わります。それは、とぐろを巻きながら前へ飛んでいく炎の蛇のようにも見えました。
一瞬たじろいだグーリーへ、フルートは叫び続けました。
「進め、グーリー! 怖がらないで進むんだ!」
ヒホホホーン……!
グーリーがまたスピードを上げました。氷の細道を全力疾走していきます。そこへ頭上から雪が猛烈な勢いで落ちかかってきました。日の光がさえぎられ、トナカイも子どもたちも影の中に包まれます。
「くそっ!」
ゼンはロキを抱いてグーリーの背中へ伏せました。そんなことをしても雪崩に耐えられるはずがないのは、わかりきってのですが……。
ところが、いくらたっても雪崩は彼らを襲いませんでした。
耳を打つ音は周り中で続いています。ドドドド……とまるで滝が落ちるような音です。ところが、肝心の雪が、いっこうに落ちかかってこないのです。
ゼンとロキは身を起こし、周りの光景を見て仰天しました。
グーリーは崖の細道を駆け続けていました。その上に雪は滝のように次々に落ちかかってきます。あたりは一面真っ白です。
その中を、炎のつむじ風になったポチが飛び続けていました。高熱の風が瞬時に雪を溶かし、ぽっかりと雪崩の中に空白を作ります。ポチは炎の熱で雪崩の中にトンネルを作りだしているのでした。
流れ落ちていく雪崩です。ポチが作ったトンネルは、次の瞬間には崩れてまた雪に押しつぶされます。けれども、そのほんの一瞬の空間を、大トナカイのグーリーは勇敢に突き進んでいました。熱い蒸気が充ちるトンネルの中を、ためらうこともなく疾走していきます。
フルートは先頭で炎の剣をふるって、ポチの中へ炎を送り続けていました。赤い手綱を口にくわえて、グーリーから振り落とされないようにしています。新たに送られてくる炎を体に巻き込んで、ポチはさらに前へと進みます。そのすぐ後をグーリーが駆けて駆けて駆け続けます――
と、ふいにあたりが、ぱあっと明るくなりました。
景色が再び目の前に広がり、青空が頭上に現れます。ついに雪崩をくぐり抜けたのです。
ドッドッと足音を立てて、グーリーが立ち止まりました。崖の険しい細道を抜けて、また、なだらかな雪原に出ています。振り返ると雪崩はまだ続いていて、雪の塊が次々と氷の道にぶつかっては、雪煙や氷のかけらを飛び散らし、そのまま崖の下へと流れていくのが見えました。
「抜けた……のか」
ゼンがつぶやくように言いました。さすがに呆然としています。ロキはゼンの腕の中でぶるぶる震え続けていました。とても常識では信じられないような切り抜け方でした。
フルートが炎の剣を収め、笑顔でグーリーの首筋をたたいていました。
「よぉし、良くやったね、グーリー! 勇敢だったよ!」
そこへ、ひゅうっと上空からポチが飛び戻ってきて、子犬の姿に戻りました。
「ワン、崖の上にまだ雪モグラたちがいたんで、ちょっと炎のかけらをプレゼントしてきましたよ。みんな逃げていったから、もう悪さは仕掛けてこないでしょう」
「やるね、ポチ」
フルートがまた、にっこりします。
そんな友人を見て、ゼンが頭を振りました。
「やるのはおまえの方だろ、フルート……。よくあんな脱出方法を思いついたな」
「だって、守りの金の石がないからね。その分、頭を使わなくちゃ」
なんでもなさそうにそう答えると、フルートはまたグーリーの首筋をぽん、とたたきました。
「さあ、進もう。今のでずいぶん上まで来たよ。頂上はもうじきさ」
グーリーがいなないてまた先へ進み始めました。命がけの脱出をしたばかりとは思えない落ちついた足取りで、なだらかな斜面を登り切り、その上の険しい氷の斜面を、さらに登っていきます。
すると、先頭に戻って手綱を握っていたロキが、急にフルートを振り向いてきました。
「兄ちゃん――」
と呼びかけて、そのまま口ごもってしまいます。
フルートは優しく尋ね返しました。
「なに、ロキ?」
けれども、ロキはためらうように視線を泳がせると、また前を向いてしまいました。
「ううん、何でもないよ……」
そんな少年の向こう側に青空が広がっていました。一行を大きく包み込むような空です。その中にくっきりと、白く鋭い氷の頂が見えています。頂上は、本当に、もうすぐそこでした――。