氷の山は、登っていくほどにその厳しい姿をあらわにしていきました。垂直な崖を登りきると、急な斜面が現れます。雪が固く凍りついた坂はまるで滑り台のようですが、グーリーは軽々と駆け上がり、よじ上っていきます。大トナカイの蹄には長い毛が生えていて、それが滑り止めになっているのです。
と、グーリーがふいに立ち止まりました。ロキも手綱を引き絞ったまま、とまどうように行く手を見回しています。どうしたの? と年上の少年たちがロキの肩越しに見ると、目の前の斜面に大きな氷の裂け目が口を開けていました。幅が十メートルほどもあります。ぎりぎりまで近寄ってのぞき込むと、裂け目の中は氷の絶壁になっていて、どのくらいの深いのか、とても見当がつきませんでした。
ロキが言いました。
「クレバスだよ。ここは氷の大地がせり上がった場所だから、下手すると深さは千メートルくらいあるかもしれない。落ちたら助からないよ」
「迂回するのか?」
とゼンが尋ねました。クレバスは長く、左右どちらへ目をやっても、そこからは終わりが見えません。ロキは、ちょっと考えてから答えました。
「このまま行くよ。グーリーなら跳べるから」
言うなり、ピシリと手綱を鳴らします。とたんに、ぽーんとグーリーが宙に跳びました。
「うわっ――!」
フルートやゼンたちはあわててグーリーにしがみつきました。トナカイの巨体が助走もなしに軽々と裂け目を跳び越えていきます。すばらしい跳躍力でした。小さな氷のかけらを散らして向こう岸に降り立ち、蹄の音を響かせながら立ち止まります。
「ったく、大したヤツだな、グーリーは!」
ゼンが思わず驚嘆すると、グーリーが得意そうにいななき返しました。一瞬、少年たちの間に笑いが流れます。
ところが、次の瞬間、ポチがクレバスを振り向いて激しく吠え出しました。
「ワンワンワン! 気をつけて! 何かが出てきますよ!」
とたんにグーリーも飛び上がり、いきなり氷の斜面を駆け上がり始めました。その後を追うようにクレバスの中から姿を現したのは、巨大な蛇の鎌首でした。頭だけでもグーリーほどの大きさがあります。クレバスの奥から白い体がするすると伸びてきて、グーリーを追いかけてきます。
「大蛇だ……!」
「な、なんでこんな寒い場所に蛇がいるんだよ!?」
フルートとゼンが驚きます。蛇は変温動物。アイスウィングのような氷の蛇は別として、寒い場所ではとても生きられないはずなのです。
すると、ポチとロキが口々に答えました。
「ワン、蛇じゃありませんよ!」
「あれはスノードラゴンだ!」
長い蛇の首の後に巨大な体と二枚の翼が現れました。全身純白の長い毛でおおわれています。雪とまったく同じ色のドラゴンでした。
すると、ドラゴンがトナカイに向かって口を開けました。ロキは必死で手綱を引っ張りました。
「よけろ、グーリー!!」
とたんに、ドラゴンの口からごおっと白い息が吹き出してきました。トナカイが飛びのいた後の斜面にまともに吹きかかり、一瞬のうちに吹雪を巻き起こします。それが通りすぎた後、斜面には冷たい氷の柱ができていました。まともに息を浴びていたら、グーリーも少年たちも氷詰めにされるところでした。
「氷の息か!」
とゼンがまた驚きました。フルートが背中から炎の剣を引き抜きます。雪と氷の怪物ならば、火の魔剣が効くはずです。
すると、そこへまたスノードラゴンが息を吐きかけてきました。かわしたトナカイのすぐ後ろに、また氷の柱ができあがります。
羽音を立ててスノードラゴンがクレバスから飛び出してきました。上空からトナカイと少年たちを狙います。
「走れ、グーリー! 走れ!」
ロキが必死で叫び続けます。フルートは疾走するグーリーの上で体をねじり、後ろに向かって剣を構えました。ドラゴンがまた口を開けた瞬間を狙って、炎の弾を撃ち出します。
ドン……ジュワァァ……!
激しい音を立てて氷の息と炎の弾が激突しました。冷気の塊が一瞬で蒸発して白い煙のような霧に変わり、凍りついてきらきらと散っていきます。
すると、きらめく霧を突き抜けて、一本の矢がドラゴンへ飛んでいきました。ゼンが放ったエルフの矢です。ドラゴンの長い首に突き刺さって、のたうたせます。
その間にグーリーはさらに先へ逃げました。急な斜面を跳ぶように駆け上がり続けます。
と、突然トナカイがぴたりと立ち止まりました。あまり急なことだったので、フルートとゼンは背中から転げ落ちそうになりました。
「な、なに……!?」
驚いて眺めた目の前に、また新たなクレバスが口を開けていました。先のクレバスより巨大で、幅は二十メートルほどもあります。裂け目は深く暗く、底はまったく見えません。
後ろから羽音が近づいていました。傷を負わされて怒りくるったスノードラゴンが、まっしぐらにこちらへ迫ってきます。
「くそっ」
フルートとゼンはまた怪物を振り向き、炎の弾と矢を撃ち出しました。ところがドラゴンははるか上空にいて、炎の弾が届きません。ゼンの矢はドラゴンが吐き出す吹雪に巻き込まれて、はじき飛ばされてしまいました。
クレバスの縁でグーリーがとまどうように足踏みを続けていました。逃げ道は右か左しかありませんでしたが、どちらへ走ってもクレバスに行く手をさえぎられていて、ドラゴンに追いつかれてしまいます。
「ワン、ぼくが――」
立ち上がって変身しようとしたポチを、あわててゼンが押さえ込みました。
「やめろ、馬鹿! 吹雪を吐く怪物に風の犬がかなうか!」
「ワン、でも……!」
このままじゃ追いつかれて襲われますよ! とポチが叫ぼうとしたとき、ロキのきっぱりした声が聞こえてきました。
「しっかりつかまってて。跳ぶよ」
えっ!? と年上の少年たちが驚いたとたん、ピシリと手綱の音が響き、グーリーがまた助走もつけずに空中に飛び出しました。巨大なクレバスの上を跳び越えていきます。
「わ……わわっ……!」
フルートとゼンは必死でグーリーにしがみつきました。ゼンは手の中にポチも抱いていました。ロキもグーリーの首にすがりついています。
足下には目もくらむような氷の谷がぽっかり口を開けていました。奈落の底は真っ暗です。その上をグーリーは翼の生えた馬のように跳び越えていきます。目の前に向こう岸がぐんぐん近づいてきます。
と、グーリーの前足が向こう岸にかかりました。氷のかけらが飛び散ります。ところが、ほんの少しだけ飛距離が足りなくて、後足が届きませんでした。トナカイの体がクレバスの中に落ち込みそうになります。
「うわーっ……!!」
少年たちは悲鳴を上げました。グーリーの背中から転げ落ちないように必死でしがみつきます。グーリーの体にくくりつけてあった荷物が解けて、ガランガランと音を立てながらクレバスの中を落ちていきます――。
ヒィホホホーン……!
グーリーはいななきながら必死でクレバスをよじ登ろうとしました。前足を崖の上にかけ、後足で氷の絶壁を蹴り続けます。
「ワン!」
ポチがゼンの腕の中から突然消えました。風の犬に変身して飛び出したのです。大きな体をうねらせてグーリーの下へ飛ぶと、風の体でグーリーを押し上げようとします。トナカイの巨体がじりじりとクレバスの崖を上がり始めます。
ところがそこへ大きな羽音が近づいてきました。ゼンが青ざめた顔で振り向きます。
「来たぞ!」
スノードラゴンが上空から迫っていました。クレバスの崖に宙づりになっている彼らに向かって急降下してきます。白い頭の中で血のように赤い目がにんまり笑ったように見えました。口を開け、氷の息を吐きかけようとします。
フルートはそこへ向かって炎の剣を振りました。
「はぁっ!」
まさかその状況で炎の弾が飛んでくるとは思わなかったのでしょう。直撃を食らってスノードラゴンの胸元に穴が開き、ドラゴンがすさまじい悲鳴を上げました。
キシャァァァ……!!
けれども、左腕を使えないフルートは、剣をふるったとたん自分の体を支えることができなくなって、グーリーの背中でバランスを崩しました。
「フルート!!」
ゼンがとっさに手を伸ばしました。自慢の怪力でフルートを抱きとめようとします。が、その手はほんの数センチというところで届かず、フルートの小柄な体がトナカイの背中から消えました。クレバスの中へ、まっさかさまに落ちていきます。
「フルート!」
「兄ちゃん!」
ゼンとロキが同時に声を上げたとき、ワン! と一声吠えて、風の犬のポチが飛び出しました。暗い氷の割れ目を落ちていくフルートに追いつくと、渦を巻き、あっという間に背中に拾い上げます。
ところが、ほっとしたのも束の間、炎の直撃で負傷したスノードラゴンが、怒りくるって襲いかかってきました。鋭く鳴きながら、また氷の息を吹きかけてきます。冷気が白い吹雪に変わり、ごうっと彼らを襲います。ポチは寸前でそれをかわしましたが、長い体の最後が吹雪に巻き込まれ、風の体が霧散しました。キャン! とポチが悲鳴を上げます。
フルートは必死でドラゴンを振り返りました。また氷の息を吹きかけようと口を開けているのが見えます。フルートは叫びました。
「ポチ、あいつの背中へ回れ!」
風の犬になった子犬が、必死で吹雪をかわし、ドラゴンの頭上を越えて行きました。巨大な背中で白い翼が羽ばたきを繰り返しています。そこへ向かって、突然フルートが飛び下りていきました。炎の剣を下に向け、力任せにドラゴンの背中に突き刺します。
ドドドド……バシュゥゥゥ……!!!
とどろきと蒸気を吹き上げるような音を立てて、ドラゴンの体が溶け出しました。スノードラゴンは雪と氷の怪物。アイスウィングと同様、炎の剣を突き立てられて、その熱で消滅したのでした。白い巨体があっという間に蒸気の塊に変わり、それがみるみるうちに凍りついて、きらめく霧になって散っていきます……。
再びクレバスに落ちていきそうになったフルートを、風の犬のポチが拾い上げました。ようやくクレバスの上にはい上がったグーリーの元へ運んでいきます。
グーリーの背中へ戻ったフルートに、ロキが真っ青な顔で飛びつきました。
「兄ちゃん、兄ちゃん! 大丈夫――!?」
「ったく。相変わらず無茶しやがるヤツだ」
とゼンも苦々しく言います。伸ばす手の先でフルートがクレバスへ落ちていった瞬間、ゼンは、もうダメだ、と思ってしまったのです。
「心配かけてごめん」
とフルートは答えると、ポチが子犬に戻ったのを見て言いました。
「さあ、行こう。魔王は何としてもぼくらをたどりつかせまいとしてるよ。これから先も妨害は必ずある。急いで進むんだ」
相変わらず、自分自身が危なかったことにはまったく頓着しないフルートです。
「兄ちゃん……」
ロキがフルートにしがみついたまま、涙声を上げました。