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第5巻「北の大地の戦い」

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第18章 サイカ山脈

72.黒い雹(ひょう)

 夜明けと共に気温がぐんぐん下がり始めていました。肌に痛いくらい冷たい風が吹き始め、空気の中に含まれていた水蒸気が凍りついて、朝日の中できらきらと輝きながら流れていきます。ダイヤモンドダストと呼ばれる現象です。子どもたちが着ている毛皮の服やグーリーの長い毛も、一面真っ白な霜でおおわれていきます。

 風が吹き渡っていく雪原で、ピシピシという音がそこここから響き始めました。日差しを浴びてわずかに溶けた雪が、急激な寒さにまた凍りつき、いたるところで小さなひび割れを作って音を立てているのです。

 ポチがグーリーの背中でぶるぶるっと身震いをしました。

「ワン、いやに冷たい風ですね。いったいどうしたんだろう?」

 ロキが長い耳を振りながら答えました。

「風向きが急に変わったんだ……。冷たい風がサイカ山脈から吹いてきてるんだよ。ここ何日も、こっちから風は来なかったのに」

 それを聞いて、フルートは目の前にそびえる山脈を見上げました。どういうことだろう、と考えます。北の大地が寒いのは当然のことなのに、なんだか妙に胸騒ぎがしました。

 すると、ふいに自分たちの周りから何かが消えました。まるで見えない柔らかな服をいきなりはがされて、裸で放り出されたような感覚です。少年たちは驚いてあたりを見回しました。吹き下ろしてくる寒風が、いっそう肌に突き刺さってきます。目には見えない変化が、確かに起きていました――。

 

 すると、彼らの目の前に、くっきりとひとつの映像が浮かび上がってきました。

 そこは切り立った黒い石の壁の部屋でした。部屋の真ん中から、太い蛇のような触手が生えだし、うねうねと動きながら絡み合っています。少女たちをとらえている闇の触手です。

 けれども、その腕の中に少女たちの姿はありませんでした。少年たちは驚き、目をこらして少女たちの姿を探し求めました。うごめき、獲物を求めるように伸びては縮むことを繰り返す闇の触手。でも、本当にその中にポポロたちはいません。ただ、以前には気がつかなかった根元の部分に、まるでこぶのように大きくふくらんだ箇所がありました。そこから無数の触手が伸びているので、ちょうど巨大なイソギンチャクのようにも見えます。

 こぶのふくらみをいぶかしげに眺めていたフルートが、ふいに、愕然とした顔になりました。

「ポポロたちはあの中だ!!」

 触手の付け根のふくらみは、ちょうど少女たち二、三人が入ったほどの大きさをしていたのです。

 ゼンが真っ青になりました。

「食われたのか!?」

「ワンワン、ルル!!」

 ポチも必死で吠えます。黒いイソギンチャクのような触手の中から、返事はありませんでした。

 フルートは混乱しそうになる頭で必死に考え続けました。

 これは闇の触手。生き物ではありません。ポポロたちを食べて消化する、ということはないはずです。触手は少女たちを自分たちの内側に閉じこめているだけです。――少女たちの力を根こそぎ奪うために。

「だから、サイカ山脈から風が吹き出したのか……」

 とフルートは思わずつぶやきました。

 サイカ山脈の向こうでは火山が噴火して、噴煙の中に発生した雷雲が、激しい雨で氷の大地を溶かしています。ポポロたちは少年たちの方へその雷雲がやって来ないように、サイカ山脈から吹く風の向きを変えていたのですが、闇の触手に完全に取り込まれ、風向きを変える力も失ってしまったのに違いありませんでした。

 そして、フルートは、自分たちの周りから消えた柔らかい気配が何だったのかを知りました。体は魔王につかまり、闇の触手にとらわれながらも、心だけは仲間の少年たちの元へ飛ばし続けていた少女たち。彼女たちの優しい守りの力が、完全にフルートたちの元から消えたのです。

「ワン!」

 ポチが風の犬に変身してグーリーの背中から飛び出しました。少女たちを飲み込んでいる闇の触手に突撃します。けれども、風の体は、黒い触手の中を突き抜けてしまいました。まるで抵抗がありません。それは、遠い場所にある光景が、映像で映し出されているだけなのでした。

「……ちくしょう!」

 ゼンが真っ青な顔のまま歯ぎしりをしました。フルートも呆然とします。魔王は、少女たちはもう助けに来ないのだぞ、と彼らに見せつけてきているのです。

 すると、突然ロキが悲鳴を上げました。

「姉ちゃん!」

 フルートたちが触手の根元のふくらみを見つめる中、ロキだけは上を見て青ざめています。伸びた触手の一番上に、一人の少女の姿がありました。長い黒髪をばっさりたらし、触手にがんじがらめにされて、死んだようにつり下げられています。

「姉ちゃん! 姉ちゃん! 姉ちゃん……!」

 ロキが泣き叫びました。けれども、どんなに必死で呼びかけても、姉のアリアンは以前のように顔を上げることはしませんでした。垂れ下がった黒髪の間から、死人のような顔色をした美しい顔が、ほんの少しのぞいて見えるだけです。

 ――と、彼らの目の前から、黒い部屋と触手が消えました。

 

 ロキはすすり泣いていました。フルートもゼンもポチも、口をきくことができません。

 魔王は最初はポポロたちを闇の触手でとらえているだけで、触手の中に取り込むことはしませんでした。力を完全に奪いたかったら、最初からそうすれば良かったはずなのに。――そのことが、少年たちの胸にたまらない不安をかき立てました。

 理屈はわかりません。けれども、そのままにしておいたら、じきに取り返しのつかないことになるような気がしました。少女たちの体が闇の触手と完全に同化してしまうか……少女たちの心が闇にむしばまれてしまうか……とにかく、一刻も早くあそこから救い出さなければ、手遅れになるのに違いないのです。

 すると、サイカ山脈の上の方から、突然すさまじい音が響いてきました。ドドド……グァラガラガラ……岩の崩れるような音を立てながら、真っ黒い雲の塊がこちらに向かって押し寄せていました。雷雲です。雲のそこここで稲妻がひらめき、雲の隙間を紫に染めます。

「火山の噴煙だ! こっちへ流れてくるぞ!」

 とフルートは叫び、とっさに自分のマントの中にロキを抱き込みました。同じ裾の中にポチが飛び込んできます。ゼンもあわててグーリーの上に頭を伏せました。

 とたんに、頭上からばらばらと音を立てて小石のようなものが降りかかってきました。雨ではありません、雹(ひょう)です。大粒の氷が、弾丸のように雲から落ちてきて、地上にたたずむ少年たちとトナカイの体をたたきのめします。分厚い毛皮のグーリーでさえ、ヒホーン、と思わず悲鳴を上げるほどの勢いでした。

 フルートは顔を上げることができなくて、うつむきながら、鎧を撃つ猛烈な雹の音を聞いていました。そこに頭上から響く雷鳴が重なります。マントの中にくるみこんだロキが激しく震えているのがわかります。マントをたたいて転がり落ちていく氷の粒は、薄黒い色をしていました……。

 けれども、やがて雷雲は流れ去り、雪原をダイトの都の方角へ遠ざかっていきました。それをフルートは気がかりに見送りました。雷雲が降らせたのは雨ではなく雹です。寒さに凍りついて、雨になることができなかったのでしょう。雹ならばダイトの街も溶かされないですむだろうとは思うのですが……。

 また日が差してきました。ゼンが体を起こして、雪原を見回しました。白かった雪の上が、一面薄黒い雹の粒でおおわれています。

「闇に染まっているのかな?」

 とフルートは心配そうに尋ねました。以前、黒い霧の沼の戦いの時、闇の霧を含んだ黒い雪が降り、北の峰の生き物たちを狂わせたのを思いだしたのです。ゼンはグーリーの背中に転がっていた雹を指でつまんで日にかざし、首を振りました。

「違うな。雹が黒いのは中に火山灰を含んでるからだ。火山は噴火の時に地面の中から大量の灰を吹き出すんだよ」

「ワン、でも、どうしてこんなにあっという間に煙が通り過ぎていったんでしょうね? 噴火してるなら、煙もずっと出てるような気がするんだけど」

 とポチが鋭い指摘をしました。マントからはい出して、サイカ山脈を見上げています。けれども、フルートもゼンも、納得がいくだけの答えを見つけることはできませんでした。

 

 一番最後にロキがマントの中から出てきました。しょんぼりとうなだれて、一言も口をききません。

 ゼンがその頭を小突きました。

「こら、元気出せって。あいつらは死んだりしてはいないんだ。おまえの姉貴だって、ちゃんと生きてる。大丈夫なんだよ」

「ワン、早く助け出しに行きましょう。それしかないですよ」

 とポチも言います。

 フルートはうなずきました。

「行こう。とにかくサイカ山脈に入って、魔王の居場所を見つけ出すんだ」

 ロキは黙ったままトナカイの手綱を取りました。ピシリ、と鳴らして合図を送ります。グーリーがまた走り出しました。黒い氷の粒におおわれた雪原を、次第に速度を上げて駆けていきます。

 すると、行く手の白い山脈を見ながら、ロキが急に言いました。

「ねえ、兄ちゃん……魔法使いが何でも見える魔法の目を持ってるってのは、本当なのかな……?」

 フルートとポチは思わず返事をためらいました。質問の内容もですが、ロキの様子が何だかおかしな気がしたからです。ところが、そんなことにはまったく気がつかないゼンが、あっけらかんと答えました。

「ああ、そうだぜ。ポポロなんて、天空の国にいたって、俺たちのことが見えるし俺たちの声が聞こえるらしいからな。魔法使いは、その気になれば何でも見えないものはないのかもしれないぞ」

 ふぅん……とロキはつぶやきました。それきり、また口をつぐんでしまいます。フルートは、じれったい思いに、そっと唇をかみました。何かロキに言ってやりたい気がするのに、言うべきことが何も思いつきません。

 少年たちを背中に乗せて、グーリーは駆け続けていました。サイカ山脈の険しい山肌は、もう目と鼻の先でした。

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