夕映えの中、太陽が地平線に沈んで夜が来ました。白々と明るい北の大地の夏の夜です。
サイカ山脈目ざして駆け通しに駆けてきたグーリーが、ロキのかけ声でようやく立ち止まりました。いくら白夜でも夜の中を駆けるのは危険なので、その場で夜明けを待つことにしたのです。
ロキとゼンが火皿に火をおこして夕飯の支度をする間、フルートは一人で雪原を少し歩いてみました。足下の雪は岩のように固く凍りついていて、危険な感じはまったくしません。このあたりはもう北の最果てです。世界で最も寒い場所のひとつなのでした。
目の前におおいかぶさるように、白い山脈が広がっていました。鋭い峰を持つ山々が壁のように連なっています。それが世界の最果ての山脈、サイカ山脈でした。吹雪が起きているのか、ところどころを白い靄に包まれながらも、白夜を背景に、くっきりとそびえ立っています。
フルートが白い息を吐きながらそれを見上げていると、足下にポチがやってきました。
「もうすぐですね」
と一緒に山脈を見上げながら言います。フルートは黙ってうなずきました。そう、もうすぐです。あと一、二時間も進めば山脈の一番手前の山にたどりつくでしょう。いよいよ、魔王とポポロたちがいる場所へ乗り込んでいけるのです――。
すると、ポチが気がかりそうに言いました。
「ワン、ロキが怖がってますよ。平気そうな顔をしてみせてるけど、ものすごくおびえてます。……占いおばばたちのところで、魔王の姿を見てからですね」
フルートはまたうなずきました。今、フルートが一番気になっているのもそのことでした。
「本物の魔王を見て、おまけに攻撃されたんだもの。それは怖いさ」
「ワン、魔王の魔法は北の大地全部をおおってます。なにかあると、すぐに心が恐怖に支配されちゃうんです。ロキもその魔法につかまったんじゃないかな」
「だとしても、ぼくらにはどうしてあげることもできないよ。恐怖の魔法は自分自身にしか追い払えないんだから――」
フルートは振り返って、グーリーのそばで食事を作っているロキを眺めました。相変わらず、あまり元気はありません。それでも、なにかゼンが話しかけると、怒ったようにそれに答えていました。ゼンがまたからかったのでしょう。
金の石がここにあれば、とフルートは考えました。あの石にも心につけ込んでくる闇の魔法を防ぐ力はありませんが、それでも、聖なる石が自分たちを守ってくれているのだと思うと、不思議と心が落ちついて、勇気がわいてくるのです。今、あの石がここにあれば、きっとロキのことも励ましてくれるのに、とフルートは考えました。――それがあれば自分の左腕も即座に治るのに、などとは思い出しもしないのが、いかにもフルートらしいところでした。
食事がすむと、子どもたちはグーリーの背中で仮眠をとりました。毛布の中にもぐり込むように長い毛を体にかけて、それぞれに眠ります。半日以上、疾走するトナカイに揺られて、くたくたになっていた子どもたちは、あっという間に寝入ってしまいました。白い夜空の下、グーリーが凍った息を吐きながら、静かにたたずみ続けます。
すると、急にロキがうなされ始めました。眠りながら、すすり泣くような声を上げます。年上の少年たちはすぐに目を覚ましました。
「やめろ」
とトジー族の少年は言いました。眠ったまま、夢の中で話しているのです。
「やめろ……やめろ。さわるな! ……なんて、聞くもんか……」
フルートとゼンとポチは顔を見合わせました。ブルル、とグーリーが心配するように鼻を鳴らしました。背中をゆすって、小さな主人を起こそうとします。
ロキはますますひどくうなされ始めました。本当に涙を流しながら、苦しそうに言い続けます。
「……だ。嘘だ。……嫌だ。やめろ……やめろ!」
何かを払いのけようとするように、小さな手が宙を泳ぎます。
フルートはあわててロキの体を揺すぶりました。
「ロキ、ロキ、しっかり! 目を覚まして!」
はっとしたように、ロキが目を開けました。顔中が涙と汗でぐっしょり濡れています。恐怖に充ちた目でフルートを見つめ返し、やがて、我に返ったような表情になって、あ、と声を上げました。こわばっていた体から、みるみる力が抜けていきました。
「大丈夫?」
フルートが尋ねると、ロキはのろのろと起き上がりました。
「うん。でも、やな夢見ちゃったな……」
その横顔が青ざめているのが、白夜の薄明かりの中でもはっきりわかりました。
「ワン、魔王の夢を見たんですか?」
とポチが尋ねると、ロキはいっそう青ざめて、小さくうなずきました。
「魔王が現れて、姉ちゃんを殺すぞ、って言うんだ……。おいら、必死で戦って姉ちゃんを助けようとするんだけど、魔王はものすごく強いから、全然かなわないんだよ……」
それきり、口をつぐんでうつむいてしまいます。フルートとポチは、そんなロキを痛々しく見つめてしまいました。間違いありません。ロキは魔王の恐怖の魔法にとらわれてしまっているのです。
すると、ゼンが言いました。
「その夢の中に俺たちは出てこなかったのか?」
ロキがまたうなずきました。何故だか、またいっそう青ざめたように見えます。
すると、ゼンが、ふん、と鼻を鳴らしました。
「じゃあな、次にまた同じ夢を見たときには、忘れずに俺たちのことも夢に見ろ。そしたら、俺たちが魔王をぶっ飛ばして、夢の中から追っ払ってやるから」
ロキは思わず目を丸くしました。その拍子にいつもの表情が戻ってきます。
「でも、魔王はすごく強かったんだよ」
と、まるっきり子どもの口調で言うと、ゼンが胸をそらしました。
「俺たちは魔王よりもっと強いぞ。びびるな、俺たちを信じろよ」
ロキはあきれたようにゼンを見つめ、やがて、目を伏せて小さく笑いました。
「ホントに……兄ちゃんたちって変てこだなぁ。魔王が怖くないの? ゼン兄ちゃんなんて、なんだか楽しそうに見えるよ?」
「おう、嬉しくてしかたないぜ。あいつらをさらって、あんな目に遭わせたヤツにようやく対面できるんだからな。見てろ。絶対に魔王のヤツをぶっ飛ばして、あいつら全員助け出してやる!」
そう言いきるゼンの後を、フルートが続けました。
「ロキ、確かにぼくたちはまだ子どもさ。だけど、ぼくたちは、魔王と戦うために選ばれた金の石の勇者の一行なんだ。だから、ぼくたちは戦うし――負けるつもりもないんだよ」
ロキは返事をしませんでした。
目の前に白くそびえるサイカ山脈。その左側の地平線を紅く染めて沈んでいった太陽が、今度は右側の地平線から上ろうとしていました。空が次第に明るくなり、たなびく雲が淡い桃色に変わります。北の大地の短い夜が終わりを告げ、五日目の朝が始まろうとしているのでした。
明るくなってくる景色の中、その鋭い稜線をはっきりさせてくる山脈を見ながら、フルートは言いました。
「ロキ。あのふもとまでたどりついたら、後はもういいよ。山の上には、ぼくたちだけで行く。ロキはグーリーと一緒に待っておいで」
ロキはびっくりして顔を上げました。ゼンとポチも驚いてフルートを見ます。
フルートは穏やかな笑顔をロキに向けました。
「もう充分だよ、ロキ。君は本当に良くがんばってくれた。怖い思いも、つらい思いも、いっぱいしたのにね。ここまでぼくたちを運んでくれてありがとう。後はぼくたちに任せて、下で待っていて。必ず魔王を倒してくるからね」
ロキは口を開きましたが、声が出てきませんでした。何かを言おうとするのに、ことばにならない。そんな感じです。うろたえるように赤くなったり青ざめたりする少年を、ゼンは腕組みをして、ポチは小首をかしげて、それぞれに黙って見守りました。どちらの目もフルートと同じ暖かい色を浮かべています。
「あ……」
ロキは年上の少年たちを見回しました。誰も怖がっている自分を責めません。ただ優しく見つめているだけです。
ふいにロキは顔を歪めました。声を震わせて叫びます。
「や――やだよ! おいらも行く! おいらも一緒に行くんだ! ……行かなくちゃいけないんだよ!」
ロキの声が大きく揺れました。今にも泣き出しそうになります。ゼンが苦笑いしました。
「無理すんなよ。いいから、俺たちに任せとけ。ちゃんとおまえの姉貴も連れてきてやるからさ」
「ワン。山の上には、ぼくが風の犬になって運ぶから大丈夫ですよ」
とポチも言います。
ロキは激しく頭を振りました。
「ダメだ! ダメなんだよ……! おいらが行かないと、姉ちゃんが助けられないんだもの! おいらも行く! 絶対に行く! 一緒に連れてってよ……!」
「ロキ」
フルートは心配そうな顔をしました。行くと言い張る少年は、本当に、今にも倒れてしまうのではないかと思うほど、真っ青な顔色をしていたのでした。そんなに無理しなくていいんだよ、とフルートもゼンのように言いたかったのですが、なんとなく、それがためらわれました。それくらい、何か強いものがロキの口調の中にありました。
すると、ふいにロキが泣き出しました。こぼれる涙を手袋でぬぐいながら言い続けます。
「おいら……おいら、もう怖がったりしないからさ……。絶対兄ちゃんたちの足手まといにはならないからさ……。だから、一緒に連れてってくれよ。ねえ……」
「ちぇ、泣き落としか? そんなことしなくても、おまえが平気なら、ちゃんと連れてくさ」
と涙嫌いのゼンが閉口したように答えました。それでも、フルートは心配そうにロキを見つめ続けます。
「フルート兄ちゃん!」
ロキが泣きながら見上げてきました。
フルートは小さな溜息をつきました。
「本当に無理しちゃだめだよ。怖くてどうしようもなくなったら、ぼくたちに言うんだ。――正直言えば、ぼくらだって、絶対に大丈夫だ、なんて君には言ってあげられない。だけど、ぼくらはできる限りの力で君とグーリーを守ってあげるからね。必ず、守れる限り君たちを守るから――」
言いながら、知らず知らず金の石を求めて、フルートは右手を胸元に当てていました。
小さなロキ。フルートたちと違って、身を守る防具も戦う武器もありません。わずかな魔法が使えるだけの、本当に弱くて小さな少年です。魔王を怖がるのは当然のことでした。
ロキを守れる力がほしい、とフルートは思いました。自分たちが持っているよりも、もっと大きな、もっと強い力がなければ、この小さな少年を守りきることはできないかもしれません。魔法の金の石が今ここにほしい、とフルートは心の底から思いました。ロキとグーリーを守るために……。
すると、鎧にあてた手の下で、何かがコツンと胸当てにぶつかって小さな音を立てました。フルートには、それが何だか、すぐにはわかりませんでした。しばらく考えてから、ようやく、出発の時に白い石の丘のエルフからもらったペンダントだと思い出しました。ペンダントには「友情の守り石」と呼ばれる青い綺麗な石がついています。――そんなものをもらったことさえ、今の今まで、フルートは忘れていたのです。
フルートは胸に手を当てたまま、鎧の下にある守り石に呼びかけました。
友情の守り石。その名前が本当ならば、ロキたちを守ってくれ……と。
「ワン、夜が明けますよ!」
とポチが声を上げました。
地平線近くの空と雪が赤く染まって、そこから太陽が上り始めます。トナカイの背に乗ったまま、少年たちは朝日を見つめました。さーっと彼らの顔に日の光が当たり、周囲の雪がまぶしく光り始めます。
すると、急に寒さが増しました。みるみるうちに気温が下がっていって、彼らが来ている毛皮の服に、真っ白な霜が凍りつきます。
突然襲ってきた厳しい寒さに、少年たちは驚いて、思わずあたりを見回しました――。