「アイスウィング?」
フルートたちはいっせいに聞き返しました。初めて聞く名前です。
ロキは真っ青になっていました。あわてて手綱を引き絞ってグーリーを急転換させようとします。
「ア、アイスウィングはサイカ山脈の怪物だよ……! つかまったら大変だよ!」
魔王が敵を送り込んでくる度にロキはあわててきましたが、この時の彼は、今までの中で一番驚きおびえているように見えました。
地平線に現れたきらめきは、霧か靄のように急速に流れてきます。驚くほどのスピードです。やがて、そのきらめきのひとつひとつが、氷の体をくねらせて空を飛ぶ蛇に変わりました。氷の体と背中の二枚の薄羽根が、日の光を反射してガラスのように輝いています。何千、何万という大群です。
「どえらい数だな」
とゼンが顔をしかめました。それでも背中からエルフの弓を外して矢をつがえます。
すると、ロキが叫びました。
「攻撃しちゃダメだよ、兄ちゃん! あいつは攻撃されると分裂して増えるんだ!」
「なに?」
ゼンが、ぎょっとして手を控えます。けれども、その間にも氷の蛇は迫ってきます。群を抜いて速かった一番先頭の蛇が、グーリーに襲いかかってきました。三十センチほどの長さしかありませんが、その口には意外なほど鋭く光る牙があります。
グーリーが大きく飛びのきました。身をかわして、また疾走を始めます。その後足へ蛇がかみついてきました。
「この!」
思わずゼンは矢を放ちました。エルフの矢がアイスウィングに命中して、氷の体が砕けるように割れていきます――。
と、その氷のかけらに頭が生え、二枚の薄羽根が生え、見る間にまた蛇の形になりました。三匹の小さなアイスウィングになって、また空を飛び始めます。
ロキが悲鳴のように叫び続けました。
「攻撃しちゃダメなんだったら! そいつは、攻撃を受けると、どこまででも小さく分裂して増えていくんだ! 数が増えるだけで倒せないんだよ!」
分裂したアイスウィングがいっせいにまたグーリーに追いついて来ました。やはり、グーリーの足を狙います。逃げ続けるトナカイを足止めしようというのです。
「ワン!」
ポチが一瞬で風の犬に変身しました。ごおっとうなりをあげて飛んでいき、蛇を風の体の中に巻き込み、激しい風の勢いで遠くへ吹き飛ばしてしまいます。
すると、また蛇の体がいくつにも砕けて、たくさんの小さなアイスウィングに変わってしまいました。元は一匹だったものが、今は十数匹にまで増えています。
ポチは困惑して振り返りました。
「ワン、防ぎようがないですよ! 何をしても分裂してしまいます!」
「ったく。やっかいな敵だな」
とゼンが舌打ちしました。もっと恐ろしい強い敵とも何度も戦ってきた彼らですが、攻撃してはいけない敵というのは初めてでした。弓矢を構えていても、それを射ることができません。そうする間にも、アイスウィングの大群はぐんぐん彼らに迫ってきます。
すると、フルートがグーリーの背中に立ち上がりながら叫びました。
「ポチ! 来てくれ!」
その右手にはすでに炎の剣が握られています。
「どうする気だ?」
とゼンが尋ねると、フルートはちょっと笑って見せました。
「切って増える敵なら前にも遭ったことがあるんだ。スライムさ。多分、同じ手が効くよ――」
うなりをあげてポチが飛び戻ってきました。その背中へフルートが飛び移ります。
「ポチ、真っ正面から向かって!」
「ワン!」
再びポチが大きく身をひるがえし、氷の蛇の群れへ突っ込んでいきました。ポチの背中でフルートは炎の剣を大きく振りかざしました。右腕だけしか使えませんが、それでも、精一杯の力で振り下ろします。
「はっ!!」
とたんに、大きな炎の弾が撃ち出されて、アイスウィングの群れの中に飛び込んでいきました。ジュッと音がして、アイスウィングが何十匹と消えていきます。炎の弾の直撃を食らって蒸発したのです。
「なぁる、氷の蛇だもんな。炎には弱いか!」
ゼンが歓声を上げました。
フルートがポチの上から振り返って叫びました。
「ここはぼくが食い止める! 先へ行くんだ――!!」
ところが、いくらも逃げないうちに、グーリーの速度が急に鈍りました。行く手を見ながら、おびえたようにピイ! と鳴きます。ロキが長い耳をそちらへ向けて、また顔色を変えました。
「新しい敵が来る! 何匹も! うなり声が聞こえるよ――」
即座にゼンが中腰になりました。伸び上がって行く手を見ます。そちらの地平線から姿を現したのは、三頭の白い獣でした。飛ぶような速さで雪原の上を駆けてきます。
ゼンは鋭い目でその動きを確かめながら言いました。
「ネコ科の獣だな。ヤマネコか?」
「ユキヒョウだよ。大ユキヒョウ……トナカイより足が速いんだ」
トジー族の少年は青ざめていました。手綱を握りながら、逃げる方向を探しています。ふん、とゼンは鼻を鳴らしました。
「あのユキヒョウも攻撃したら分裂するのか?」
まさか、とロキは首を横に振りました。行く手から来るのは、凶暴ですが普通の獣です。ゼンは、にやりとしました。
「なら、任せとけ。そういうヤツには俺の出番だ」
弓矢を構えなおします。
行く手から迫ってくるユキヒョウに、グーリーがおびえて今にも逃げ出しそうにしていました。ゼンがどなりつけます。
「逃げるな! そのまま行け!」
ロキが必死で手綱を鳴らしてグーリーを走らせます。みるみる行く手の獣が大きくなっていきます。――ほとんどグーリーと同じくらいの大きさの、巨大な白いヒョウでした。それが三頭、まっしぐらにこちらへ向かってきます。
「なるほど。これならグーリーが怖がるのもわかるか」
ゼンはつぶやきながら、狙いを定めて矢を放ちました。先頭のユキヒョウが声ひとつ立てずに転がって、雪の上で動かなくなります。エルフの矢で眉間を射抜かれたのでした。
ゼンがまたどなりました。
「間があいた! あそこを駆け抜けろ!」
と残った二頭のユキヒョウの間を示します。ロキは一瞬唇をかむと、また手綱を鳴らしました。
「はいっ、グーリー! 行けっ――!」
ヒィホホーン!
グーリーは悲鳴のような声を上げると、いきなり速度を上げました。狂ったような勢いで、しゃにむにユキヒョウに向かっていきます。ユキヒョウたちが襲いかかってきます。
すると、また一頭のユキヒョウが倒れました。もんどり打って地面に落ち、のたうつように雪の上を転げ回ります。その片目にはゼンの放った矢が突き刺さっていました。グーリーが、そのかたわらを駆け抜けていきます。
「すごい」
とロキが目を丸くしました。いくら百発百中の魔法の弓矢といっても、疾走するトナカイの背中は激しく揺れています。その上で弓を構えられることだけでも奇跡的なのに、ゼンはしっかり狙いまでつけているのです。
ゼンがグーリーの上で素早く向きを変えました。後ろ向きになってまた次の矢をつがえます。
「そのまま走れ! 大丈夫だ、グーリーにはさわらせないぜ!」
と、いつか雪オオカミと戦ったときと同じことを言います。ロキは思わず泣き出しそうになりました。自分たちを守ってくれる年上の仲間たち。その頼もしさを肌で実感してしまいます。
ゼンの弓弦が鳴りました。矢が、今にも後ろから飛びかかろうとしていたユキヒョウの口から飛び込んで、まともに上あごに突き刺さります。獣が急所を貫かれて息絶え、雪原の上に転がります――。
そこへ、後ろから風の犬のポチに乗ったフルートが追いついてきました。
「だめだ、アイスウィングはいくら炎で溶かしてもきりがないよ。数が多すぎるんだ」
「逃げ切るしかないな」
とゼンが答え、一同は後ろを眺めました。氷の蛇の大群は、きらきらと輝きながら執拗に追いかけてきます。すると、ロキがふいに、あっ、と声を上げました。
「まずいよ、あれ!」
ゼンの矢に片目を射抜かれたユキヒョウが、襲いかかってくるアイスウィングに反撃していました。ユキヒョウがかみつくと、氷の蛇が砕けて何匹ものアイスウィングに変わります。それがまた襲いかかってくるので、ヒョウはうなりながら猛烈に暴れ、たたき落として踏みにじります。それがさらにたくさんの小さなアイスウィングに変わっていき――
ついに、アイスウィングは目に見えないほど小さくなってしまいました。ダイヤモンドの粉が混じった霧のように、きらきらと美しく輝きながら、ユキヒョウの周りを取り囲みます。
と、ユキヒョウがいきなり口から血を吐きました。大きな体が宙を飛び、雪の上を跳ね回るようにのたうちます。やがて、ユキヒョウはまた大量の血を吐くと、激しいけいれんを起こして動かなくなりました。
驚くフルートたちに、ロキは死人のような顔色で言いました。
「うんと小さくなったアイスウィングは、空気と一緒に体の中に入りこんで襲いかかってくるんだ。ヒョウのヤツ、内側から体を食い破られたんだよ……」
フルートたちもこれには顔色を変えました。極寒の北の大地に棲む怪物は、さすがに一筋縄ではいきません。
霧のように細かくなったアイスウィングが、死んだヒョウから、ふわりと離れました。風に乗って漂うように、トナカイと少年たちに向かって移動を始めます。アイスウィングの大群も、一緒にこちらへ押し寄せてきます。
「逃げろ――!!」
フルートとゼンは同時に叫びました。