ふと、低いうめき声を聞いたような気がして、ロキは目を覚ましました。
そこはフルートのマントの中でした。雨はまだ降り続けていますが、空はだいぶ明るくなり、雨脚も弱まっています。ロキはマントにくるまれているうちに、いつの間にかうとうとと眠ってしまっていたのでした。
うめき声は寄りかかっている金の鎧を通じて聞こえてきたようです。、ロキはマントから顔を出し、フルートを見上げたとたん、驚いて声を上げました。
「どうしたのさ、兄ちゃん!?」
彼らの後ろにいたゼンとポチが、はっといっせいにフルートに注目します。金の兜からのぞくフルートの顔は、いつの間にか苦痛に歪んで真っ青になっていました。
ロキはあわてて手綱を絞ってグーリーを立ち止まらせました。
マントを差しかけ続けていたフルートの右手が、耐え切れなくなったように左腕を押さえます。食いしばった歯の奥から、また短いうめき声がもれました。
ロキは顔色を変えました。
「腕がまた痛んできたんだ!」
「おまえの魔法も一定時間しか効かないのか?」
とゼンが尋ねてきます。そう言いながらも、大急ぎでフルートの左腕を押さえている剣帯を解き、籠手を外していきます。
「ううん。でも、この暖かさだもの。魔法で凍らせたところが、元に戻っちゃったんだよ――」
案の定、フルートの左腕はまた色が変わって腫れ上がり始めていました。ロキの言うとおり、あたりの暖かさに、凍らせた腕がまた溶け出してきたのです。青ざめる仲間たちの目の前で、みるみるうちにふくれ上がっていきます――。
すると、フルートが言いました。
「ロキ……もう一度魔法をかけてくれ」
痛みをこらえる顔からは、脂汗が流れ続けています。ロキはいっそう青い顔になりました。
「で、でも……」
「ワン、できないんですか!?」
ポチが鋭く聞き返します。ロキは首を振りました。
「できるよ。でも、こんな魔法を繰り返してたら、兄ちゃんの腕は……本当に、すっかりダメになって、切り落とすしかなくなっちゃうよ……」
泣き出しそうな顔になりながら、腫れ上がった腕と苦痛に歪むフルートの顔を見比べます。痛みを止めるには、もう一度自分の魔法を使うしかないのはわかっています。わかっているのですが――
とたんに、フルートが強く言いました。
「いいから、早く魔法をかけて! ぐずぐずしてる暇はないんだ!」
叱りつけるような口調でした。ロキは本当に目に涙を浮かべると、ためらいながら手を伸ばしました。そっと、ふくれあがった左腕に手のひらを押し当てます。みるみるうちにまた腫れがひき、腕が細くなっていきます――。
ゼンはただ黙ってそれを見守っていました。再び凍りついたフルートの左腕は、前にも増して黒くなり、その範囲も腕全体に広がってきていました。ロキが使う冷凍の魔法は、その患部だけに働くというわけにはいかないのです。周囲の腕まで一緒に凍りつかせて、凍傷の範囲をいっそう広げています。それに、何度も溶けたり凍らせたりというのを繰り返すのは、ロキが言うとおり、腕にとって致命的なダメージになるのです……。
フルートは痛みの引いた左腕にまた籠手を装着すると、ゼンに手伝ってもらって、再び剣帯で上から腕を押さえつけました。まだ涙ぐみ続けているロキを、右手でなでます。
「大丈夫だったら。さあ、進もう。もう少しで雨雲が切れそうだよ。早くここを抜けないと、せっかく凍らせてもらったのに、また溶けてきちゃうよ」
ほほえみさえ浮かべてそんなことを言うフルートに、ロキは大きく顔を歪めました。何も言えなくなって、目をそらします。
雨は霧雨に変わっていました。行く手の空が明るくなって、間もなく降り止みそうな気配です。その先はまた、一気に気温が下がる厳寒の地帯になるようでした。
ロキは、きゅっと唇をかみました。何かを決心した顔つきになると、トナカイの手綱を握り直して声を上げました。
「それっ、グーリー! 全速力で走れ――!」
トナカイはどんどん駆け続けました。やがて雨雲の下をようやく抜け出し、地面が再び固く凍り始めると、蹄の音を響かせながら疾走を始めます。
その背中で揺られていたゼンが、ふと顔を上げて行く手を見ました。たちまちけげんそうな表情になって、あたりを見回します。
「おいロキ、微妙に方角が違ってるぞ。サイカ山脈はこっちじゃないだろう?」
ロキは返事をしません。
「ワン、ロキ?」
「ロキ、どこへ行くつもり?」
とポチとフルートも尋ねます。白い山脈は右手のほうに移りつつあります。明らかに進行方向が違います。
すると、ロキが行く手を見ながら言いました。
「ダイトへ。北の大地で一番大きな都だよ――」
フルートたちは驚きました。
「ワン、どうして!?」
「寄り道している暇なんてないんだったら!」
口々に言うポチとフルートを抑えて、ゼンがロキに尋ねました。
「何をするつもりだ?」
トジー族の少年に何か思惑があるのを感じたのです。少年は、まだ青ざめている顔で、年上の少年たちを振り返りました。
「フルート兄ちゃんの腕をそのままにはしておけないよ。やっぱり治療してもらわなくちゃ。ダイトにはいいお医者さんがいるんだ。魔法医さ――」
だから、治療してる暇なんてないんだよ、と反論しかけていたフルートが、目を丸くしました。魔法医というのは、怪我や病気を治すことを専門にしている魔法使いです。普通の医者と違って、たちどころに治療をしてくれます。ただし、その分、謝礼も桁違いに高いのですが……。
ロキが懸命に続けました。
「兄ちゃんの腕は、本当にそのままにはしておけないよ。今度溶けたら、きっとすぐに腐り出す。そしたら命だって危ないよ。魔法医なら、治療にだってあまり時間はかからない。魔王と戦うのにも左腕が使えなくちゃ困るんだからさ……! お金なら大丈夫だよ。オオカミを売った残りがまだあるし――兄ちゃんだって随分持ってたよね? あれだけあれば、きっと間に合うよ!」
ロキは必死でした。自分が以前フルートの財布を勝手にのぞいたことまで話してしまっているのですが、そのことにさえ気がつかずにいました。
そんなロキを、フルートは見つめました。なんだか、胸がいっぱいになってきます。
「ありがとう、ロキ。でも、ぼくは本当に――」
本当にこのままで大丈夫なんだよ、と言いかけたフルートの頭を、突然ゼンが後ろから殴りました。魔法の兜をかぶっているので痛みはありませんが、フルートは驚いて思わず振り返りました。その隙にゼンが言います。
「おいロキ。ダイトまでは、ここからあとどのくらいかかるんだ?」
「もう少しだよ。たぶん、あと一時間も走らないうちに見えてくるはずさ」
驚いて反論しようとしたフルートを、ゼンがあっという間にはがいじめにしてしまいました。怪力のゼンです。フルートには抵抗のしようがありません。
「ゼ、ゼン……!」
あわてふためくフルートを無視して、ゼンは言いました。
「よし、行けロキ! 行き先はダイトだ!」
「うんっ!」
ロキは、はじけるように返事をすると、ピシリ、と手綱を鳴らしました。グーリーがいっそう速く走り出します。ワンワン、と行く手を見ながらポチが吠えます。
「ゼン! ロキ! ポチ――!」
フルートは必死で叫び続けましたが、仲間たちはまったく耳を貸しませんでした。