戦闘は終わりました。
少年たちは立ち止まると、雪原を見回しました。十数頭の白ツノクマは、そこここで燃えかすになり、急所に矢を突き立てて倒れています。動いているものは、もう一頭もいません。
フルートとゼンは、ほっとして武器を背中に戻しました。激しい戦いの中、必死でグーリーを走らせ続けていたロキは、手綱を握ったまま大きく肩で息をしていました。まだ緊張にこわばった顔をしています。
そんなロキの頭を、ゼンが笑いながら片腕で抱え込みました。
「よぉし、良くやったぞ、ロキ! 初めてにしちゃ上出来だ!」
フルートとポチもグーリーの背中に飛び戻ってきました。ポチが子犬に戻って、ロキに飛びついていきます。
「ワンワン、勇敢でしたね! グーリーが軍馬みたいに見えましたよ!」
フルートも笑顔でロキを見ました。
「ありがとう、ロキ。おかげで本当に助かったよ」
少年たちからまともに誉められて、トジー族の少年は真っ赤になり、やがて、えへへっ、と笑い返しました。
「おいらたちも、けっこう役にたつだろう? 守られるばかりじゃないんだぜ」
「へっ、言うな。だがまあ、確かに大したもんだぞ。戦闘中に、あんなに撃ちやすい場所につけてもらったのは初めてだ」
ゼンは決してお世辞は言いません。相応の働きをした者しか認めないのです。それを肌で感じ取ったのか、ロキがとびきり嬉しそうに笑いました。
地平線がバラ色に染まって、北の大地にまた朝が来ようとしていました。短い夏の夜が終わったのです。空を見上げると、淡い光のカーテンのようなオーロラは、夜明けを告げる光に薄れて、もうどこにも見えなくなっていました。
「行こう」
とフルートは言いました。
「サイカ山脈へ急ごう。みんなを助けなくちゃ――」
もうお決まりになりつつあることばを口にしたとき、ふいに、グーリーが高くいなないて、後足立ちになりました。背中の少年たちは振り落とされそうになって、とっさに手綱や背中につかまりました。片腕のフルートが落ちかけたのを、後ろからゼンががっしりと捕まえます。小さなポチは本当にグーリーから転がり落ちて、次の瞬間、風の犬に変身して空に舞い上がりました。
「グ、グーリー、どうした……!?」
ロキが驚いて手綱を引くと、それを振り落としそうな勢いで、またトナカイが棒立ちになり、その前脚を振り下ろして凍った地面を踏みつけました。そのとたん、トナカイの蹄が何かを踏みつぶした感触が伝わってきました。アーッと鋭い悲鳴が響き渡って、雪の上にばっと紅い色が飛び散ります。
少年たちは驚いて足元を見ました。雪の上を紅く染めてつぶれていたのは、小さな生き物でした。直径十センチほどの雪のボールのように見えます。雪の色にそっくりな、白い毛並みをしているのでした。
とたんに、またロキが顔色を変えました。
「雪ケマリ!? ま、まさか――!」
ひどく意外そうな顔をしているので、ゼンが苦笑しました。
「またサイカ山脈にしか棲まない生き物か?」
ロキがうなずき、叫ぶように言いました。
「気をつけて、兄ちゃんたち! そいつは牙に猛毒を持ってて――必ず集団で行動するんだ!」
「なに?」
フルートたちがぎょっとしたとき、周囲の雪がざわめいて、黒いビーズ玉のような無数の目が現れました。凍った雪の上にうずくまっていた白い毛玉のようなものが、いっせいに動き始めたのです。それは何百という雪ケマリの大群でした。丸い口がぽっかりと開いて、アーッと鋭い声を上げます。その口の中には、ネズミのようにとがった前歯が見えていました。
「取り囲まれてる」
とフルートが周りを見回しながら言いました。周囲は一面白い毛玉で埋め尽くされています。ゼンが舌打ちしました。
「ったく……魔王のヤツ、次から次と容赦ないぜ」
「こっちに金の石がないことがわかっているからね」
言いながら、フルートは収めたばかりの炎の剣をまた引き抜きました。ゼンも弓を下ろして構えます。
「グーリー、気をつけろ! かまれたら死ぬぞ!」
ロキが叫んだとたん、周囲の毛玉がいっせいに襲いかかってきました。大トナカイよりも高く宙に飛び上がると、グーリーとその背中の少年たち目がけてかみついてきます。グーリーが思わずまた後足立ちになり、武器を構えた少年たちが振り落とされそうになります。
すると、風の犬のポチが飛んできました。グーリーの周りで渦を巻き、あっという間に雪ケマリを払い飛ばします。
ロキは手綱を絞って興奮するグーリーを抑えました。
「落ちつけ、グーリー! 隙を見て逃げるぞ!」
とたんにフルートが炎の剣を振り上げました。炎の弾を撃ち出して、その隙を作り出そうというのです。そこへまた雪玉のような生き物が飛びかかってきました。毒のある牙で、フルートの唯一の弱点の顔を狙ってきます。
「ったく――魔王の野郎め!」
ゼンがわめきながら矢を放ちました。フルートのすぐ目と鼻の先で、雪ケマリが矢に貫かれて落ちていきます。
フルートは炎の剣をふるいました。ごうっと音を立てて、炎が吹き出し、行く手の雪の上をなめます。十数匹の雪ケマリが炎に包まれて、火の玉になって雪の上を転がっていきます。
「行け、グーリー!」
ロキが叫び、グーリーは走り出しました。炎の弾が雪ケマリの群れの中に切り開いた道を突進していきます。行く手へフルートがまた剣をふるい、活路を先に延ばします。後ろから飛びかかってくる雪ケマリを、ポチが次々に吹き飛ばしていきます。
やがて、一行は雪ケマリの群れの中を抜ました。なだらかな起伏のある雪原が行く手に広がっています。アーッ、アーッというケマリの叫び声が後ろに遠ざかっていきます――。
ところが、グーリーが速度をゆるめ、少年たちが思わずほっとしかけた瞬間、少年たちの頭の中に声が響き渡りました。
「危ない! 気をつけて!」
少女たちの叫び声でした。思わず飛び上がるほど驚いた少年たちの目の前に、いきなり巨大な白い影が立ちました。――白ツノクマです。雪のくぼみの中で待ち伏せていて、突然グーリーの目の前に立ち上がったのです。鋭い爪のついた前足で殴りかかってきます。ロキが声に驚いて思わず手綱を引いていなければ、グーリーは走り続けて、まともに熊の一撃を食らったところでした。
「まだいやがったか!」
ゼンがどなりながら弓矢を構えました。フルートも炎の剣を振り上げます。
すると、後ろからポチが叫びました。
「ワン! 雪ケマリがもう追いついてきましたよ! ものすごい速さだ!」
少年たちは振り向きました。雪原の上をざわめくように、白い塊がこちらへ移動してきます。まるで荒く積もった雪そのものが、いっせいにこちらへ迫ってくるようでした。
「はさまれた!」
とフルートは叫びながら、後ろへ剣を振りました。炎の弾が吹き出して、追いかけてくる毛玉を何匹も火だるまにします。
けれども、雪ケマリはあまりにも数が多すぎました。何度炎の弾を撃っても、とても全体を止めることはできません。
「こんちくしょうめ!」
ゼンは悪態をつきながら行く手の大熊に矢を放ちました。百発百中の魔法の矢です。
ところが唐突に――本当に唐突に、猛烈な吹雪が始まりました。いきなりあたりが真っ白になり、視界がきかなくなります。ゼンの矢が熊に届く前に吹き飛ばされてしまいます。
「ワン!」
ポチが叫びながらグーリーの背中に飛び戻ってきました。吹雪の中を飛んでいると、風の犬は消滅してしまいます。大あわてで元の子犬に戻ります。
息が詰まりそうなほど激しい吹雪の中で、少年たちとトナカイは立ち往生してしまいました。周りがまったく見えません。一面真っ白な闇に包まれてしまったようです。
「こ……こんな天気ってないよ!」
とロキが叫んでいました。
「魔法のしわざだ……! 間違いないよ!」
猛吹雪の中でも、後ろから雪ケマリの群れが迫ってくる気配がしました。甲高い叫び声が、風の音にまじって近づいてくるのがわかります。
すると、ふいに、グーリーがブルルル、と鼻を鳴らして後ずさりを始めました。こちらは、前から近づいてくる何かから逃げようとするようです。
「来るぞ。白ツノクマだ――」
とゼンが歯ぎしりします。激しすぎる雪と風の中、ゼンの弓矢は役に立ちません。代わりにフルートが炎の剣を構えます。
見えません。何も見えません。世界は白い吹雪でいっぱいです。近づいてくる熊の気配さえ、猛烈な風の中にまぎれて、つかむことができません。フルートは風に逆らって剣を構え続けながら、なんとか敵の位置をつかもうと、白い闇へ目をこらしました――。
そのとたん、ばたりと風が止みました。横殴りの雪がひらひらと天から降るようになります。
雪の中、ほんの二メートルほど先に白ツノクマがいました。四つ足から後足立ちになって、今まさにグーリーに殴りかかろうとしているところでした。
フルートは一気に剣を振り下ろしました。うなりをあげて炎が飛び出し、あっという間に熊を包み込みます。熊は燃えながら雪の上を転がり、くぼみの中へ落ちていきました。すさまじい咆哮が響き渡ります。
けれども、ほっとする間もなく、後ろを振り向いたポチがまた叫びました。
「ワン、来ました! 雪ケマリだ!」
降りしきる雪の中、白い毛玉の集団がすぐ後ろまで迫っていました。表情のない黒い目でトナカイと少年たちを見つめて、ざわざわと近づいてきます。口の中の毒牙が、鈍く光って見えます。
「グーリー!」
ロキがもう一度トナカイを疾走させようとしたとたん、また、少年たちの頭の中に少女の声が響きました。
「みんな、伏せてしっかりつかまってて――!」
フルートたちは息を飲みました。それはポポロの声だったのです。
フルートは素早く剣を鞘に戻すと、前に乗るロキに飛びついて、グーリーの背中に伏せました。ゼンがポチを抱きかかえ、さらにフルートとロキの上に身を伏せて、全員の上からがっしりとグーリーにしがみつきます。
ごごごぅっ、と空の上で低い音が響き渡りました。雪雲が突然暗くなり、出しぬけに、すさまじい風が巻き起こります。吹雪の風など比べものにならないほど猛烈なつむじ風です。巨体のグーリーが思わず吹き飛ばされそうになって、後ずさりながら踏みとどまりました。ゼンの毛皮の服やフルートのマントが引きちぎられそうなほどはためきます。凍りついた雪が無数のかけらになって風にまじり、彼らの全身をたたきます。
その強風の中、雪ケマリが次々と吹き飛ばされていきました。風に巻き上げられ、あっという間に上空に昇っていって、そのまま風の渦と共に雪原を遠ざかっていきます……。
ばたり、と再び風がやみました。雪も降りやんで、空がまた澄んでいきます。地平線から顔を出した朝日が世界に光を投げ、みるみるうちに空が青く変わっていきます――。
ゼンは体を起こしました。フルートとロキもポチも起き上がります。ロキがあたりを見回して、信じられないように言いました。
「雪ケマリがいなくなったよ。一匹残らず吹き飛ばされちゃったんだ」
フルートとゼンは顔を見合わせました。誰のしわざか、彼らにははっきりわかったのです。ポチが言いました。
「危ない、って最初に熊を教えてくれたのは、やっぱりルルたちだったんですね。ルルとメールとポポロの声だったんだ」
フルートたちは黙ってうなずきました。
すると、ふっと何かが彼らに触れていったような気がしました。暖かくて優しい、誰かの手のような感触です。
とたんに、ロキが顔を上げました。はっとしたような表情であたりを見回して声を上げます。
「姉ちゃん!?」
周囲には一面凍りついた雪原が広がっているばかりで、彼ら以外に誰の姿もありません。けれども、少年たちは確かに暖かい気配を身近に感じていました。
すると、ふいに、ポチもワン! と吠えて叫びました。
「ルル! ルルですね!?」
気配の中に、犬の少女の、ちょっと取りすました優しい匂いをかぎ取ったのです。ゼンも、思わず息を飲んで目を見張りました。雪と氷ばかりの北の大地の空気に、花の香りを感じたからです。
誰かがいました。少年たちのすぐそばにいて、優しい腕を少年たちの肩に回し、寄り添い、湿った鼻面をそっと押しつけてきます……。その感触は、やがて消えるようになくなっていきましたが、人の息づかいを思わせる気配は、ずっとそばに残り続けました。いつまでも、彼らのかたわらに寄り添い続けています。
フルートはうつむき、つぶやくように言いました。
「いるんだ……そばにいるんだよ……」
そっとまばたきした目から、小さな水のしずくがグーリーの背中に落ちます。ゼンがうなずき、こちらは青空を見上げました。
「ああ、いる。感じるぜ。あいつら、魔王がどんなにがんばって捕まえていても、やっぱりすり抜けて、俺たちのところまで駆けつけてるんだ」
「ワン、すごいですね」
とポチが言いました。泣き笑いするような声です。
ロキはぼろぼろと大粒の涙を流していました。何もない空間に繰り返し呼びかけています。
「姉ちゃん! 姉ちゃん――!!」
とたんに、フルートたちはまた、はっとしました。泣いているロキのかたわらに、長い黒髪の少女の後ろ姿が寄り添ったように見えたのです。腕を差し伸べて、小さな弟をそっと抱きしめます。それは幻よりももっと淡くはかない影でした。目をこらした瞬間には見えなくなって、ただ、泣き続けるロキの背中だけが残ります――。
フルートは顔を上げました。朝日を浴びて青空の中に次第にくっきりと浮かび上がってくる白い山脈を眺めます。ゼンも黙って同じ山を眺めます。ポチは前に出て、ロキの泣き顔をぺろぺろとなめました。
「行こう」
とフルートは言いました。その一言だけで充分でした。
ポチに涙をなめてもらったロキは、新たにこみ上げてきた涙をぐいとぬぐうと手綱を握りしめました。
「はいっ!」
と声を上げると、グーリーが走り出します。
朝の光が彼らを照らします。トナカイがどんなに速度を上げても、優しい気配は朝日のぬくもりと一緒にずっとついてきます。遠く心を飛ばしている少女たちに会うために、少年たちはひたすら先を急ぎました。目ざすサイカ山脈は、次第に近く、大きく見えてきていました――。