フルートは、はっと目覚めました。
ゼンとポチとロキが心配そうにのぞき込んでいました。ロキの目は涙でいっぱいです。
「馬鹿野郎……」
フルートにゼンが言いました。何故だか、やっぱり泣き出しそうな声に聞こえました。
そこはグーリーの背中の上でした。歩くのをやめているので、頭上に広がる空も止まっています。白い綿雲をぽっかりと浮かべた綺麗な青空です。フルートは青ざめている仲間たちを不思議に思いながら見回し、起き上がろうとして悲鳴を上げました。また、すさまじい痛みが左腕に走ったからです。
仲間たちがあわててまたかがみ込みました。フルートの体を押さえ、のぞき込みます。
「ワン、動いちゃダメですよ……痛むから」
ポチは犬なので泣くことはできません。それでも、子犬の声ははっきりと泣き声に変わっていました。
フルートは痛みをこらえながら自分の左腕に目をやり、思わずぎょっと息を飲みました。鎧の籠手は、仲間たちの手で外されていました。下に着ていた服の袖も切り取られてしまっています。外気の中にむき出しになったフルートの左腕は、普段の倍以上にも腫れ上がって太くなり、青黒い色に変わっていたのでした。
すると、ロキが口を開きました。
「言ったじゃないか、兄ちゃん。濡らしちゃダメだよ、気をつけなって……。兄ちゃんの腕は凍傷にかかったんだよ……寒さで凍りついて……それが溶けたんだよ……」
灰色の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちました。フルートが体を濡らしたのは、雨の中で魔法のマントをロキに貸した時です。それがその後の寒さにさらされ、さらに雪の中に長時間埋もれたせいで凍りつき、服や体の表面だけでなく、体の奥深くまで完全に凍らせてしまったのでした。――他の場所は何でもありません。ただ、左腕の肘を中心としたあたりだけが、凍りついてダメージを受け、暖かさに溶けて痛み出したのでした。
「ワン、鎧の籠手の調子が悪かったんですね? どうしてもっと早く言わなかったんですか。つなぎ目に隙間ができて、そこから寒さが侵入していたんですよ」
とポチが言いました。そうか、とフルートはまた左腕を見ました。隙間ができた、と言っても、それは目に見える隙間ではありません。鎧はいくつものパーツに別れていて、それを装備すると、目には見えない魔法の力でつなぎ合わされます。その魔法のつなぎ目の間に、ゆがみが生じて、外界の寒気を防ぐことができなくなっていたのです。だから、雪の中であんなに左腕が冷たかったのか……とフルートは改めて納得しました。
「なに落ちついてんだよ、馬鹿野郎!」
とゼンが突然どなりました。
「こんなになるまで何も言わないでいやがって! おまえはどうしてそうなんだよ!? いつだって何も言わずに黙ってばかりで――!!」
とフルートの襟首をつかんで引き起こしてしまいます。たちまちまた激痛が走ってフルートが悲鳴を上げます。ロキとポチが、あわててそれを止めました。
痛みの大波が通り過ぎると、フルートはあえぎながら答えました。額にはまた玉のような汗が噴き出しています。
「気がつかなかったんだよ、本当に……先に進むのに夢中だったから……」
ゼンは絶句してしまいました。
フルートは大きく息をすると、座った姿勢で、そっと左腕に触れてみました。ぱんぱんに腫れ上がった腕は、どす黒く染まっていて、自分の体の一部とは思えないほどです。軽く触れただけで激痛が走りましたが、歯を食いしばって、それをやり過ごすと、フルートはロキに尋ねました。
「これはどうすれば――どうなっていくんだい?」
途中で質問を変えたのは、どうやらこれが完全に元に戻ることはないのだろう、という予想がついたからでした。
案の定、ロキが顔色を変えて目をそらしました。ためらってから答えます。
「医者に行かなくちゃ、兄ちゃん……一刻も早く治療してもらわないと、大変なことになるよ……」
けれども、どんなふうに大変になるかを、ロキは話そうとしません。
すると、ゼンが大きな溜息をつきました。一瞬だけためらってから、真剣そのものの目で、フルートの目をまっすぐにのぞき込みます。
「いいか、よく聞け。凍傷ってのはな、どの程度やられたかと、すぐに適切な手当を受けられるかどうかで違ってくるんだ……。親父の猟師仲間にアウガって奴がいたんだけどな、四年前の冬に鹿狩りに出て凍傷にかかったんだ。左足の膝から下が信じられないくらい腫れ上がって青黒い色に変わってた。ちょうど、おまえのその腕と同じだ。すぐにドワーフの洞窟に運び込んで医者の手当てを受けたけどな、結局膝のところから足を切断するしかなかったんだ。今はもう狩りができなくなって、洞窟で暮らしてるよ」
フルートは目を見張りました。とっさには声が出ません。
すると、ロキがまた泣きそうになりながら言いました。
「そんなふうになっちゃうと、もう体の組織は元に戻らないんだよ……。血も通わなくなって腐り出すんだ。体中にその毒がまわらないうちに、その部分を切り落とすしか、助かる方法がなくなるんだよ……」
「ワン、金の石があれば!」
とポチがたまりかねたように声を上げました。そう、金の石さえあれば、どんな傷も病もたちどころに癒すことができます。こんな凍傷は問題でもなくなるのですが……。
「金の石はここにはないよ。バジリスクに奪われたんだから」
とフルートは答えました。冷静な声でした。腕は耐え難いほど痛んでいます。それでも、頭の中ではあらゆる事態を考え合わせて、一つの答えを導き出していました。
フルートは左腕を抱えながら言いました。
「医者にかかっている暇はないよ。そんな時間は、ぼくらにはない。このまま進むんだ。この状態で魔王と戦う」
「馬鹿言え! 死ぬつもりか!?」
たちまちゼンが声を荒げました。
「ロキが言ったとおりだ! おまえの腕は壊死を起こし始めてるんだ! そのまま放置すれば、体中に毒が回って死ぬことになるぞ!」
「治療なんかしてたら、それこそ北の大地全体が崩れてみんな死んでしまうじゃないか。ぼくたちだって、もろともだ。どっちにしたって死ぬことになるよ」
「だが――!」
すると、フルートが深い目を親友に向けました。
「ぼくは今、夢を見てたよ……。魔王がポポロたちを鎖で縛り上げていた。夢の中でぼくたちを助けていたのを気づかれたんだ。早く助け出さないと、みんな、心まで魔王に奪われてしまう――。そんなことはさせられないんだよ、絶対に」
静かですが、きっぱりと言い切ります。
ゼンは唇を震わせました。答えることができません。
仲間たちは黙り込んでしまいました。小さなロキは涙ぐみ続けています。それへ、フルートは話しかけました。
「悪いけど、君に貸したマントを返してくれるかい? 籠手を装備できないから、それで腕を包まなくちゃ……」
ロキは脱いであったマントをあわててフルートに着せかけましたが、マントが軽く触れただけでフルートがまたうめいたので、思わずびくりと飛び上がりました。
「無茶だよ、兄ちゃん……行けっこないよ……」
と今にもまた泣き出しそうになりながら言います。けれども、フルートは首を横に振ると、自分たちが乗っているトナカイに声をかけました。
「行くんだ、グーリー。北へ――サイカ山脈へ向かうんだ!」
グーリーはためらうように立ち止まったままでした。ロキが、助けを求めるようにゼンとポチを見ます。
ゼンは真っ青な顔のまま親友を見つめていました。ポチも、自分自身が痛みに襲われているように、黒い瞳を歪めています。二人とも何も言いません。
「ゼン兄ちゃん――!」
思わずロキが声をかけると、ゼンが悔しそうにまた唇を震わせました。
「ダメなんだよ……。こいつが一度こんなふうに言い出したら、絶対に誰の言うことも聞かねえんだ……」
優しい顔をしているくせに、フルートはとことん頑固です。一度固く決心してしまったら、誰にもその心を変えさせることができないことを、彼らは嫌というほど知っているのでした。
すると、フルートがゼンを振り返りました。痛みをこらえる顔のまま、それでも小さく笑って見せます。
「心配かけてごめんね」
ゼンは拳を握りしめ、それをどこにもたたきつけることができなくて、そのまま目をそらしてしまいました。
ポチが沈んだ声で言いました。
「出発してください……。フルートが言うとおり、サイカ山脈へ……」
促されて、グーリーが歩き出しました。暖かい風の吹き渡る氷原を、ゆっくりとまた進み始めます。
足下の雪はいたるところでゆるんで、危険になっています。慎重にその中を進んでいくので、グーリーの歩みはとても静かです。けれども、わずかな振動でさえ、今のフルートには応えました。ほんの少しグーリーの背中で揺られただけで、また腕を抱え込んで歯を食いしばってしまいます。猛烈な痛みに襲われているのは見ただけでわかるのに、それでもフルートは止まることを命じようとはしませんでした。何も言わずに、ただ耐え続けています。
ゼンとポチは、そんなフルートを見つめて、ますます青ざめていました。もうやめよう、と言いたいのですが、それが言えないことも、彼らは嫌と言うほど承知しているのでした。少女たちがとらわれている白いサイカ山脈は、あまりにも遠い彼方でした。
すると、ふいにロキが手綱を引いてグーリーを立ち止まらせました。行く手を見たまま、じっと考え込む目になっています。
フルートが言いました。
「止まらないで、ロキ……。進むんだ」
その顔も全身も、吹き出し流れ出した冷や汗でびっしょり濡れています。
すると、ロキが行く手を向いたまま、静かに口を開きました。
「絶対に無理だよ、兄ちゃん。その状態じゃ、サイカ山脈にたどりつく前に兄ちゃんが死んじゃうよ……」
フルートがそれに反論しようとすると、だから、とロキが言いました。
「だから――痛みを止めなくちゃ、兄ちゃん」
年上の少年たちは思わずロキを見ました。意外なことばを聞いた気がします。
「そんなことができるのか?」
とゼンが尋ねると、ロキはうなずきました。そのまま、また少しの間、黙り込んで、やがてつぶやくように答えました。
「できるんだ……おいらの魔法を使えば」
そう言ったロキの小さな後ろ姿は、何故だか、大きな決心をした人のように見えました。