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第5巻「北の大地の戦い」

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第12章 負傷

47.白い世界

 変化は忍びやかにやってきました。

 最初、フルートは何も感じていませんでした。

 ただ、ずっと左腕に違和感がありました。こわばりのようなものがずっと取れなかったのです。腕が動かしにくくて、しかたなく右腕ばかり使っていました。こわばり感は肘のあたりがいちばんひどくて、腕をまっすぐに伸ばすことができませんでした。戦いの時にも、とっさに盾を構えることができなくて苦戦に陥りました。ゼンが助けに駆けつけてくれなければ、危ないところでした。

 鎧の籠手の調子が悪いからだろうか、とフルートは考えていました。ひっかかるような、どうにも動きにくい感じは、闇の声の戦いの最後の頃からずっと続いています。ただ、なんとなく、不自由さが鎧ではなく、その内側から来ているような気がして、漠然と不安を感じていました。鎧の内側の――フルートの左腕自体がどうにかなっているような気もしたのです。でも、先を急ぐフルートには、それをじっくり振り返って確かめてみる余裕がありませんでした。

 雪オオカミの群れを撃退して、グーリーの背中に戻ったときにも、まだフルートは何も感じていませんでした。ところが、食事をしているうちに、少しずつ変化が訪れました。左腕がうずくように痛み出したのです。初めはかすかでした。それが、次第に強まって、はっきりと痛みとして感じられるようになり、どんどん痛みが増していったのです。

 北の大地を包む大気の気温が上がり、暖かい風と日差しが彼らを包んでいましたが、フルートはそれを感じるどころではありませんでした。痛みはやがて激痛に変わり、フルートの全身を頭のてっぺんから足の先まで駆け抜けていくようになりました。全身が震え、大声で悲鳴を上げそうになります。左腕を抱えて声を上げないようにこらえるのがやっとでした。苦痛が強すぎて、仲間たちに助けを求めることさえできませんでした。

 フルートが必死で耐えていると、察しの良い子犬が振り返って「フルート!?」と驚きの声を上げました。

 とたんに、フルートの中で張り詰めていたものが切れました。全身から力が抜け落ち、ただ痛みだけに支配されて、フルートはトナカイの背中に倒れました。自分でも気がつかないうちに、うめき声を上げてしまいます。驚きあわてる仲間たちの声を聞きながら、フルートは気が遠くなっていきました――。

 

 すると、痛みにもうろうとなった世界に、少女たちの姿が見えたような気がしました。

 フルートは、痛みをこらえながら、必死でまた顔を上げました。一面真っ白な世界は、雪と氷の大地のようにも、深い霧の中のようにも見えました。その中に、少女たちがひとかたまりになっていました。ポポロとメールとルルです。フルートは思わず駆け寄ろうとして、また痛みの発作に襲われてうずくまりました。激痛に頭の芯がしびれるようです。

 その中に、少女の声が聞こえてきました。メールです。鋭い鞭のような声で叫んでいました。

「あっちお行きよ! あたいたちに近づくんじゃない!」

 はっとフルートはまた顔を上げました。危険が迫っている声です。かすむ目を懸命にこらすと、長身の少女と犬の少女が、小さな黒衣の少女をかばうように立っているのが見えました。彼女たちが向き合っているのは、黒ずくめの痩せた男です。薄青い目が冷ややかに少女たちを見つめているのが、離れた場所からも見て取れました。

 男はじりじりと少女たちに迫っていました。それに押されるように、少女たちが後ずさります。メールがまた金切り声を上げました。

「あっち行きなったら!」

「そうはいかぬ。こんな場所でわしの邪魔をしおって」

 と男が答えました。怒りに充ちた声でした。少女たちに向かって片手を突き出します。メールとルルがさらに後ずさる中、背後にいたポポロが突然両手を上げました。男を見据えながら、呪文と共にその両手を振り下ろそうとします。

 とたんに、男が何かをぐっとつかむように手を動かしました。たちまち黒衣の少女がその場に倒れます。

「ポポロ!」

 メールとルルが悲鳴を上げました。フルートも思わず叫ぼうとしました。が、痛みで声が出ません。

 男が北の大地の大気より冷たい声で言い続けました。

「逆らえると思うのか。おまえたちの力はすべてわしのものになっている。おまえたちのか細い心も、すべてわしのものだ。勇者どもを倒し、すべての命を滅ぼすために、わしにすべてを捧げるのだ」

 すると、倒れていたポポロが顔を上げました。仲間の少女に抱きかかえられながら、りんとした声で答えます。

「そんなことはさせないわ。あなたには負けない。絶対に」

「殺させやしないよ! あんたの思い通りになんてなるもんか!」

 とメールも叫びました。青い瞳が炎のように燃え上がりながら男をにらみつけています。

 ウゥーッとルルも背中の毛を逆立てながらうなりました。

「きさまらに何ができる。たかが子どものおまえらに」

 いうなり、男がまた何かをつかむように手を動かしました。とたんに、少女たちは悲鳴を上げました。その全身には鈍く光る黒い鎖が絡みついていました。

 フルートは思わず跳ね起きました。痛みも忘れて助けに駆けつけていきます。

 黒い鎖は少女たちの全身を締め上げていました。少女たちの悲鳴が続きます。やめろ! とフルートはどなりました。けれども、それは声になりません。背中から剣を引き抜き、鎖を断ち切ろうとしましたが、刃は鎖の中を通り抜けてしまいました。

「!?」

 フルートは驚いて振り返りました。剣だけではありません。フルート自身が、鎖に縛られた少女たちの体の中を通り抜けてしまったのです。触れることができません。

 すると、二人と一匹の少女たちがフルートを見ました。締め上げられる苦しさの中、それでも、六つの瞳はひとつの強い意志を持って見つめてきます。それは、信頼の光でした。フルートたちが必ず助けに来てくれることを信じているまなざしでした。

 そして――少女たちの姿は消えました。

 

 白い世界に黒ずくめの男だけが残っていました。

 フルートは剣を持ったまま男に向き直りました。

「おまえが魔王なんだな!?」

 とどなります。

「ポポロたちをどこにやった!? 彼女たちを返せ!」

 すると、男は目を細めました。薄青い目が、いっそう冷酷な色に変わります。

「人間は愚かだ。自分の力もわきまえず、願うだけで何とかできると思いこむ。虫けらよりもちっぽけで弱い存在のくせに!」

 ふいに、激しい怒りが男の声にまじりました。見えない手が何メートルもの距離を超えて伸びてきてフルートの左腕を捕まえます。また激痛に襲われて、フルートは悲鳴を上げました。

「この体で何ができるというのだ!? その腕と命、わしに捧げるがいい!」

 見えない手がもう一本伸びてきて、フルートの体を捕まえます。すさまじい力に押さえつけられて、フルートは身動きできなくなりました。突然、胸に締めつけられるような苦しさを感じて、もがいてしまいます。見えない手は、フルートの体を突き抜け、心臓をわしづかみにしたのでした。長い爪の生えた指が、心臓を握りつぶそうとするのが感じられます――。

 すると、白い霧の中から、ふいに小さな手があらわれました。黒い袖から伸びた華奢な手です。魔王の見えない手をぴしゃりと力任せに払いのけてしまいます。

「この……!」

 魔王の怒りの声に、少女たちの声が重なりました。

「逃げるんだよ、フルート!」

「目を覚ましてちょうだい!」

 メールとルルの声でした。フルートは痛む左腕と胸を押さえて、その場に崩れました。苦しくて、息をするのがやっとです。

 魔王が大きく手を振りました。ばちっと大きな火花が散り、少女たちの鋭い悲鳴が上がりました。それっきり、少女たちの気配が消えてしまいます。

 フルートは真っ青になって顔を上げました。

「ポポロ! メール! ルル――!」

 あえぎながら少女たちの名前を呼んでいると、黒い魔王がまた迫ってきました。

「今度こそ、きさまの息の根を止めてやる」

 と長い爪の手をまた伸ばしてきます。フルートは動けません。

 

 すると、遠くから必死に呼ぶ声が聞こえました。

「フルート! おい、フルート!」

「兄ちゃん! 兄ちゃんったら……!」

 とたんに、白い世界は霧のように渦を巻き始め、黒い魔王も、何もかも、フルートの目の前から消えていきました――。

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