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第5巻「北の大地の戦い」

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44.逃亡

 北の大地の厳しい寒さの中で降り積もった雪は、固く凍りついて分厚い氷の層を作り上げています。何百年、何千年たっても、決して溶けることのない氷でした。

 ところが今、この地に未曾有(みぞう)の大雨が降っています。溶けるはずがなかった氷は雨に打たれて溶け出し、周りより低くなっている場所を川のように走り始めます。氷点下に近いひどく冷たい川です。周り中から溶けた水が川に注ぎ込み、みるみるうちに川幅が広がっていきます。

「ここをどうやって逃げるんだ!?」

 とゼンがロキに尋ねました。激しい雨にかき消されないように、どなるような声になっています。

「雨を利用するって、いったい――!?」

 とフルートも重ねて尋ねます。ロキは、雨を利用して追っ手のオオカミをまくのだと、グーリーに命じたのです。

 ロキは真剣な顔で手綱を握っていました。

「兄ちゃんたちもしっかりつかまってて……! グーリーは大トナカイの中でも足が速いんだ。跳躍力だって並じゃない。それを使って、ここを抜けるんだよ……!」

 ヒホーン! とグーリーが吠えて、目の前に横たわる川を飛び越えました。幅が何メートルもある流れの上を軽々とジャンプして向こう岸に着地すると、また飛ぶように駆け出します。

 後を追ってきたオオカミたちが川岸で立ち止まりました。ためらうようにそこでうろうろします。川の水は激しいしぶきを上げて流れています。オオカミたちは水に飛び込みたくなかったのです。

 すると、そこへひときわ大きなオオカミが追いついてきて、一声仲間たちに吠えました。フルートたちは知りませんが、それは魔王に人のことばで応えたリーダーのオオカミでした。とたんに、オオカミたちはいっせいに川へ飛び込み、流れを突っ切って対岸に上がりました。白い毛並みから水をしたたらせながら、またトナカイの後を追って駆け出します。

 

「ワン、また追いついてきましたよ!」

 とポチがトナカイの背中から振り返って叫びました。

 追ってくるオオカミたちは、雪オオカミにしても巨大で、本当に雄牛ほどの大きさがあります。つむじ風のような勢いで、みるみるうちにグーリーとの距離を詰めてきます。

 すると、グーリーがまた川を飛び越しました。続けざまに二つ、三つと越えると、さらに先へと走ります。川はますます流れが速く強くなっています。氷の岸辺を溶かしながら、次第に大地に深く流れを刻み始めます。

 オオカミたちが吠えながら川にたどりつきました。流れの中を突っ切るには、川は深くなりすぎています。オオカミたちが次々に身を躍らせて、川の上を飛び越えていきました。トナカイに勝るとも劣らない跳躍を見せます。

 と、一頭のオオカミが川岸に下りそこねました。脚の爪が氷の上を滑り、きしむような音を立てます。オオカミは吠えながら川の中に落ち、そのまま流れに巻き込まれて川下へ押し流されていきました。あっという間のできごとです。

 一瞬立ち止まってそれを眺めたオオカミたちが、次の瞬間にはまた、川の上を飛び越え始めます。もう川に落ちるようなドジを踏むものはいません。ほんの少し広がったトナカイとの距離を、また確実に縮めていきます。

「近づいてきやがったな」

 とゼンは言って、エルフの弓矢をまた構え直しました。慎重に狙いをつけ、力一杯弓弦を引いて放つと、矢は大雨を貫いて先頭を走っていた一頭の眉間に命中しました。オオカミの巨体がもんどり打って氷の上に倒れます。ひゃっほう! とゼンは歓声を上げました。

「見やがったか! どんどんこっちに来い! 土砂降りでも近距離なら届くからな。エルフの矢の餌食にしてやるぞ!」

 そんなゼンのことばが聞こえたのか、危険な矢の力を見て取ったのか、オオカミたちは一定の距離から先、近づいてこなくなりました。矢の届かないところを、ただずっとトナカイの後を追って走っています。数えてみると、その数はちょうど十五頭いました。

「どこまで追ってくるつもりだろう?」

 とフルートは後ろを見ながら言いました。オオカミたちは執拗です。

「グーリーが疲れてくるのを待つ気なんだろう。あいつら、本当に魔王の精鋭部隊だぞ。動きに全然無駄がない」

 とゼンがいまいましそうに答えました。時折、オオカミたちがじりじりと距離を詰めてくることがあるので、そのたびにエルフの弓矢で狙うのですが、とたんにオオカミたちはさっと散って、雪原のくぼみに身を隠したり、大きく距離を開けて矢が届かない場所まで下がったりするのでした。

 

 グーリーがまた川を飛び越しました。

 川はすでに十メートル以上もある絶壁にはさまれた深い谷川に姿を変え、さらに氷の大地を削り続けていました。そうしながら流れはいっそう速さを増し、やがて、大地の中でも柔らかな部分に出会うと、氷雪の下にもぐり込んで伏流に変わります。伏流は姿を見せないまま足下を削って脆く弱くしていくので、その上を走っていくのはとても危険です。地表が突然砕けて、トナカイごと激しい流れに飲み込まれるかもしれません。

 と、行く手の雪に、ほんのわずか鈍い灰色に見える部分が現れました。とたんにロキが叫びました。

「越えろ、グーリー!」

 即座にトナカイが大きく飛び、灰色の雪の上を越えました。さらに先へと走ります。

 後を追ってそこに差しかかったオオカミたちが、突然悲鳴を上げました。案の定、その場所の雪が崩れて落ち込み、伏流が姿を現したのです。オオカミがまた一頭、雪の下を流れる川へ飲み込まれていきました。残るオオカミは十四頭です。

「さすがに落ちたヤツは助からないな」

 とゼンがつぶやきました。伏流は地面の中で他の流れと合流し、氷の大地を溶かしながら、やがては海岸まで達し、巨大な滝になって海へと注ぎ込んでいきます。川に落ちたオオカミも、同じ冷たい旅をするのに違いありませんでした。

 グーリーが今まで以上に大きく飛び跳ねながら駆けていました。地表のいたるところに色合いの違う雪が見え始めたので、そこを飛び越えているのです。巨大なトナカイが着地した拍子に、その震動で地面が崩れることもあります。色合いの違う雪の下は、決まって地中の伏流につながっていました。

「ワン、そこら中が伏流だらけですよ。まるで落とし穴の上を走ってるみたいだ!」

 とポチが思わず声を上げました。

「行け、グーリー! 駆け抜けるんだ!」

 ロキが叫び続けます。トナカイは全力で駆け、空中に飛び跳ねます。それはまるで、強い風に飛ばされながら舞う灰色の木の葉のようでした。

 

 その時、突然、すぐ目の前で凍った雪が崩れました。地面に吸い込まれるように、深い穴があきます。伏流が潜んでいる場所を見逃したのです。グーリーはとっさに飛びのきましたが、その脚の下でまた凍った地面が崩れました。グーリーが再び飛び上がります。

「わぁっ!」

 トナカイの背中が大揺れに揺れ、子どもたちは悲鳴を上げてしがみつきました。すると、グーリーの体ではなく手綱につかまっていたロキが、大きくバランスを崩しました。あっという間にトナカイの上から消えていきます。

 フルートたちは振り返りました。ロキの小さな体が凍った地面に落ちて転がります。そのすぐ近くには、ぽっかりと暗い穴が口を開け、激しい水音を底から響かせています。穴の向こう側にオオカミたちが迫ってくるのが見えます。

「ロキ!!」

 フルートは走るトナカイの背中から飛び下りました。ロキと同じように氷の上にたたきつけられましたが、とっさに体を丸めて転がると、すぐに立ち上がります。魔法の鎧を着ているのでダメージは食らいません。

 と、その足下がつるりと滑りました。土砂降りの雨がたたきつける氷の大地は、まるで天然のスケートリンクのように滑りやすくなっていたのです。フルートは何度も転びながら、やっとのことで倒れているロキに駆け寄りました。

「ロキ、ロキ! しっかり!」

 抱き起こすと、すぐに少年は目を開けました。

「あ、フルート兄ちゃん……」

「大丈夫? 怪我は?」

「ないよ……。マントをかぶってたから……」

 ロキの弱々しい声は、怪我の痛みではなく、驚きから来るもののようでした。そのマントは落ちた拍子に脱げて、かたわらに落ちていました。毛皮の服からのぞく顔や長い耳を、大粒の雨が打ち続けています。

「早く、これを着て」

 とフルートはまたマントをロキにかけてやりました。

 そんな彼らにオオカミの声が近づいてきます。伏流の上に口を開けた穴のすぐ向こうまで、巨大なオオカミたちが迫っていました。トナカイから落ちた少年たちを見て、いっそう激しく吠えたてながら、まっしぐらに走ってきます。

「に、兄ちゃん……!」

 思わず恐怖の声を上げたロキを、フルートは後ろにかばいました。背中の剣を引き抜いて構えます。

「ぼくから離れないで」

 それだけを言うと、目の前の敵をにらみつけます。オオカミたちはもう、穴のすぐ手前までやってきていました。先頭のオオカミが穴を飛び越えて襲いかかってきます。

 フルートは手にした剣を思いっきり振りました。ごうっと激しい音がして炎の塊が飛び出し、あっという間にオオカミが火だるまになります。オオカミは悲鳴を上げ、燃えながら穴の中に落ちていきました。水音と共に悲鳴が消えていきます。

 フルートは炎の剣を構え直しながら、迫ってくるオオカミをまた見据えました。

「残りは十三頭!」

 そう叫ぶと、いっせいに穴を飛び越えて襲いかかってくるオオカミたちへ再び剣を振りました――。

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