谷川に面した崖っぷちに、メールが背中を向けて座っていました。その周りにはたくさんの花が咲いています。崖の下は目もくらむような絶壁です。落ちたらひとたまりもない高さの場所で、メールは無造作に腰を下ろし、足を崖の下に投げ出していました。
ゼンは思わず首をひねりました。なんだか怒ってすねているように見えるメールの後ろ姿です。
「どうしたんだよ?」
と声をかけながら近づいていきましたが、メールは返事をしません。ただ崖のはるか下を流れていく谷川を見つめているだけです。
ゼンは改めてあたりを見回しました。深い山の中です。広がる森は目の前の崖でとぎれて、反対側の崖の上から、また別の森が始まっています。両方の崖の上には、色とりどりの花が咲き乱れています。ゼンの故郷の北の峰によく似ていましたが、北の峰にはこんな場所はありません。これはゼンが見ている夢なのでした。
「おいったら」
とゼンはメールを後ろからのぞき込みました。すると、たちまちメールが顔をそむけます。彼女はやっぱり怒った表情をしていました。青い瞳が燃えるように輝きながら、対岸の崖をにらみつけます。
ゼンは肩をすくめました。
「なにを怒ってるんだ? 相変わらず訳のわからんヤツだな」
「わかんなくてけっこう!」
とメールがとがった声で言い返してきました。
「どうせ、あたいは女らしくも美人でもないさ。あたいの顔なんか、見ていたってつまんないだろ。なのに、なんでしょっちゅう呼び出すのさ!?」
ゼンは目を丸くしました。
「ホントに何をそんなに怒ってるんだ……? だいたい、呼び出すってのは何だよ。俺は本当におまえを呼んだりしてねえぞ。おまえが勝手に俺の夢の中に出てくるんだろうが」
それに、おまえはかなりの美人だぞ、とゼンは続けようとしました。メールはお世辞にも女の子らしいとは言えませんが、それでも、間違いなく美人の部類に入っていたし、それはゼンも認めていたのです。
ところが、ゼンがそれを言うより早く、メールが振り返ってにらみつけてきました。
「勝手に出てきて悪かったね! そんなら、かわいいポポロでも絶世の美少女のアリアンでも呼べばいいじゃないか! ホントに、男ってかわいい美人に弱いんだからさ!」
ゼンはいっそう目を丸くしました。何の話かさっぱりわかりません。そんなゼンにメールはかみついていきました。
「なにさ! ちょっと綺麗な子を見ると、鼻の下長くしてでれでれしちゃってさ! みっともないったらありゃしない! なぁにが『助け出したら俺たちを紹介しろ』よ! アリアンに紹介してもらいたいのはあんただけのくせに。フルートまで一緒にするんじゃないよ!」
ゼンはますます面くらい、ぷんぷん怒り続けるメールを見つめてしまいました。どうやらメールは、ゼンがロキに姉を紹介しろ、と言ったことを怒っているようです。そう考えたとたん、ゼンは急に愉快な気分になってきました。
「なぁんだ、おまえ。やきもち焼いてたのか?」
と笑いながら言います。案の定、メールはすさまじい目でにらみ返してきました。
「やきもち? 誰が、誰に!? 馬鹿言ってんじゃないよ!!」
そう言い捨てるなり、メールは突然崖の下に飛び下りました。ゼンがぎょっとして駆け寄ると、その目の前をいきなり色とりどりの生き物が舞い上がっていきます。花鳥です。メールが崖の花を鳥に変えて、その背中に飛び乗ったのでした。たちまち空の彼方に消えてしまいます――。
「なんだよ、あいつ、むきになって。ただの冗談に決まってるだろうが」
とゼンは頭をかきながらそれを見送りました。
とはいえ、ゼンが美人のアリアンに関心を持ったことをメールが気にしたのは、たとえ夢でも、本当に愉快に思えました。あのすねて怒った感じは、絶対にやきもちを焼いている姿です。案外かわいいじゃないか、とゼンはにやにやしました。
そういえば、メールは現実でも、しょっちゅうこんな感じで怒っていました。特に、ゼンがポポロを引き合いに出すと腹を立てたような気がします。ゼンがそれを注意すると、決まってメールはこう言いました。
「どうせあたいはポポロみたいにかわいくなんてないよ!」
そんなふうにすねるメールこそが、ゼンにはけっこうかわいらしく見えたのですが。
いろんな場面で、すねて怒るメールの姿が思い出されます。ゼンがポポロを誉めたとき、ゼンがポポロのことを話したとき、ゼンがポポロを見ていたとき――。そう言えば、今回だって山道でポポロが転びそうになったとき、メールはすかさずゼンに言ってきました。
「嬉しくてぼーっとしてるんじゃないよ。ポポロみたいに軽いのも支えられないようじゃ、ドワーフの怪力が泣くじゃないのさ」
ちぇ、とゼンは苦笑いしました。本当に、なんだってあいつはあんなにポポロを気にするんだろうな。いちいち俺につっかかってきやがって。まるで、本当にやきもちを焼いてるみたいじゃないか――
ゼンの顔から突然笑いが消えました。
ん? とけげんそうに考え込みます。
ゼンがポポロの話をするたびに、メールはすねたり怒ったり、からかったりしてきました。ゼンがポポロに気持ちを寄せるほど、その反応は激しくて、時には大声でわめき立てることもありました。
「とっととポポロのところへ帰りなよ! あたいのことなんか、ほっといておくれ!」
けれども、そんなときのメールは、決まって今にも泣き出しそうな顔をしていました。本音が正反対のところにあるのは見え見えの姿で、それでも意地を張り続けていたのです――。
ゼンは、ふいに目を見張りました。とっさに片手で自分の口をふさぎます。そうしないと、とんでもないことを口走ってしまいそうでした。
「お、おい……」
ゼンはうろたえながら、押さえた手の奥でつぶやきました。
ちょっと待てよ、メール。まさかおまえ……
みるみるうちに、ゼンの顔が真っ赤になっていきます。
どうしようもなく鈍かったゼンも、ここに来て、ようやくメールの気持ちに気がついたのでした。
ゼンは立ちすくんだまま考え込んでしまいました。今まで不可解だったメールの言動の数々が、一つの答えを当てはめただけで、全部謎が解けてつながっていきます。ゼンはどうしていいのかわからなくなって、ただただ、うろたえ続けました。顔が耳まで真っ赤になっています。
鮮やかな青い瞳と緑の髪をした海の王女。海の中を自在に泳ぎ回り、森や自然をこよなく愛する花使いの姫。ひとつの体に二つの血を持っているのは、ドワーフと人間の父母の間に生まれたゼンと同じです。王女のくせに、まったく王女らしくなくて、元気で賑やかで、とにかく気が強くて……そのくせ、どこかものすごく脆い感じがして放っておけなくて……
そして、メールはいつでもゼンのそばにいたのです。ゼンがどんなに馬鹿な真似をしても、どんなに迷っても落ち込んでも、ずっと近くにいてくれたのです。そこにいるのが当然のような顔をしながら。いつもと変わらない憎まれ口をたたきながら……。
ゼンは真剣な表情に変わりました。赤くなっていた顔が元に戻っていきます。
口をふさいでいた手を下ろして拳に握ると、ゼンはメールが飛び去った空を見上げました。綿雲を浮かべた青空に向かって 大声で呼び始めます。
「メール! おい、メール! 戻ってこい! 話があるんだ――!」
どなり続けていると、後ろからふいに声がしました。
「うるさいねぇ。なにさ、いったい?」
空に飛び去ったはずのメールが、あきれた顔でゼンの真後ろに立っていました。
とたんに、ゼンは思い知らされてしまいました。ああ、そうだ。そうだった。これは俺が見ている夢だったんだ――と。本物のメールは、魔王に連れ去られて、遠いサイカ山脈にいるのです。
「話ってなにさ?」
と夢の中のメールが尋ねてきました。細い腰に両手を当ててゼンを見つめています。その姿はすらりと伸びやかで、どんな場所にあってもとても鮮やかです。
ゼンは急に口ごもり、思わず顔を赤らめました。言おうとしていたことばを、とっさにごまかしてしまおうかと迷います。
そんなゼンを見て、メールが笑いました。
「なにをそんなに壮絶な顔してんのさ。さっきのことを謝ろうっての? 殊勝な心がけじゃないのさ」
たちまちゼンはムッとしました。そうです。これは夢なのです。夢ならば、本物を前にしているようにうろたえる必要などありません――。ゼンは腕組みをすると、頭をそらしてメールを見上げました。そのまま青い瞳をまっすぐに見て尋ねます。
「メール。おまえ、俺のことが好きなのか?」
言いながら、心の中で思わず笑ってしまいます。今ここでこんなことを確かめたって、なんの意味もありません。これは現実ではないのですから。ただ、夢でもこのまま何も言わずにあやふやにしておくのが嫌でした。一刻も早く白黒はっきりさせておかないと、ゼンとしては何とも落ちつかなかったのです。
メールの返事も最初からわかりきっていました。「なに寝ぼけてんのさ! 馬鹿も休み休み言いなよ!」と一喝されて、それっきりです。ゼン自身が、そういう答えを期待しているのですから――。
ところが、メールは予想外の行動をしました。
すぐには返事をせずに、じっとゼンを見つめてきたのです。その顔からはすべての表情が消えていました。ただ、ほの白く見える顔の中で、青い瞳だけが、ゼンの目を見つめ返します。
ゼンが面食らっていると、ふいにメールは背中を向けました。いつの間にか山の中の風景は消えて、一面の海原が広がっていました。青く輝く水面に白い波が走り、潮風の中を海鳥が飛んでいます。それを見ながら、メールが言いました。
「それを聞いてどうしようってのさ、ゼン。あんたはポポロが好きなはずだろ――」
ゼンは、はっとしました。メールの声は震えています。まるで、今にも泣き出しそうなのをこらえているようです。
ゼンはまたひどくうろたえました。予想外です。こんな返事を聞かされるなんて、まったくの想定外です――。
とたんに、メールが鋭く振り返りました。涙がにじんだ目でゼンをにらみつけると、力一杯叫びます。
「ゼンの馬鹿っ!!」
メールの姿が消えました。後には抜けるように青い海が広がります。
ゼンは呆然と立ちつくしました。夢の中の海から波の音が聞こえてきます。舞い飛ぶ海鳥の鳴き声が響きます。メールはそれっきり、二度と戻ってきません。やがて、青い海原は静かに薄れて、白い雪の大地へと変わっていきました――