フルートは夢を見ていました。
目の前に見知らぬ女の子が立っています。流れるような長い黒髪に灰色の瞳をした、トジー族の少女です。その肌は抜けるほど白く、唇は血のように赤く、そして、信じられないくらい綺麗な顔立ちをしています。
少女が、じっとフルートを見下ろしてきました。フルートより背が高いのです。その目の中に宿っているのは、とても優しくて悲しげな色合いでした。訴えるように、ただずっとフルートを見つめ続けています。
フルートは思わず首をかしげると、黒髪の少女に尋ねました。
「君は誰? ぼくに何か用なの?」
すると、少女は赤い唇を開きました。声が出てきません。灰色の瞳だけが、何かを伝えたそうにフルートを見つめてきます。――そのとたん、かき消すようにその姿が見えなくました。
フルートは驚いて、あたりをきょろきょろ見回しました。ただ乳白色の霧が漂う世界が広がっているだけで、黒髪の少女はどこにも見あたりません。それでもフルートが探し続けていると、霧の中から少女の声が聞こえてきました。ためらいがちに、そっと呼びかけてきます。
「フルート……」
フルートは思わず笑顔になりました。その声はよく知っています。振り返ると、やっぱりそこには赤いお下げ髪の少女が立っていました。
「ポポロ」
フルートに笑顔を向けられて、ポポロははにかんだ顔になりました。視線を外してうつむいてしまいます。
そんなポポロにフルートは優しく話しかけました。
「あの時は助けてくれてありがとう。おかげでポチもぼくも命拾いしたよ」
ポポロは真っ赤になると、あわてて頭を振りました。
「ううん、あたしは何もしてないわ。……あたしはただ、フルートを起こしに行っただけ。雪の中から立ち上がって脱出したのはフルート自身なのよ」
「それでも、君が起こしてくれたおかげだよ。それに、ぼくたちを寒さから守ってくれていただろう? 本当にありがとう」
おどおどしていたポポロが、そう言われて、ぱっと明るい顔になりました。緑の宝石のような瞳が、きらめくように輝き出します。綺麗だな、とフルートは思わずうっとり眺めてしまいました。この小さな少女はいつだって、自分でも気がつかないうちに、内側から美しい輝きを放つのです。
「何を探していたの?」
とポポロが尋ねてきました。フルートは我に返ると、見とれてしまっていた照れ隠しに、また周りへ目をやりました。
「女の子がいたんだよ。知らない子……ものすごい美人だったんだ」
そのとたん、ポポロの表情がこわばったことに、フルートは気がつきませんでした。照れくさくてポポロの顔を見られないまま話し続けます。
「誰だったのかなぁ……。あんなに綺麗な子は生まれて初めて見たな。でも、なんだかすごく悲しそうな目をしていたんだ」
ポポロは何も返事をしません。フルートが振り返ると、そこに少女の姿はありませんでした。ただ乳白色の霧の中に、フルートが一人で立っています。
フルートは驚いて、たった今まで緑の瞳の少女がいた場所へ手を伸ばしました。やっぱりポポロはいません。ただ、白い霧が流れていくだけです。
「ポポロ……?」
フルートはうろたえて立ちすくみました。なんだか訳がわかりません。ただ、とまどって霧を見回しているうちに、霧は白い雪と氷の平原に変わり――
フルートは目を覚ましました。
フルートはトナカイの背中で体を起こしました。グーリーは雪原を走り続けています。リズミカルに繰り返される蹄の音と震動に揺られるうちに、フルートは眠くなってきて、いつの間にかうとうとしていたのでした。なんとなく、現実でもあたりを見回してしまいます。
すると、かたわらからポチがフルートを見上げてきました。
「ワン、また夢を見たんですか?」
フルートはとまどいながらうなずきました。夢はえてして要領のえない不思議なものです。けれども、今フルートが見た夢は、その中でもなんだか特に不思議で、意味がよくわからなかったのです。
すると、フルートの後ろであぐらをかいていたゼンが、大きなあくびをしながら言いました。
「行けども行けども見えるのは雪ばっかりだもんなぁ。いいかげん飽きて眠くもなってくるよな。俺もこないだから夢ばっかり見てるぜ。起きてんのか寝てんのか自分でもわからないくらいだ。ったく。トジー族はこんな退屈な世界で暮らしてて、よく頭が変にならないよな」
そう言って、ちらっとロキの方を眺めます。トジー族の少年が気を悪くするような言い方をわざとしています。
ところが、ロキはゼンのからかいを無視しました。グーリーの背で揺られながら、手に持った何かをじっと見つめています。ゼンは後ろから伸び上がってのぞき込みました。
「なんだ、何をそんなに一生懸命見てるんだよ――?」
そのとたん、ロキが、はっと手の中に隠そうとしました。
「お、なんだ、怪しいぞ。見せろ!」
とゼンが力ずくで取り上げてみると、それは銀色のペンダントでした。鎖の先に銀の丸い飾りがついています。
「返せ! 返せったら!」
とロキはむきになって取り返そうとしました。ゼンは軽くそれを押さえ込むと、ペンダントを眺めました。裏は鏡のように磨き上げられていますが、返すと、縁飾りのついた表側にトジー族の少女の絵姿がはめ込んであります。ゼンは、ピュウ、と口笛を吹き鳴らしました。
「ロキのガールフレンドか? おまえ、ガキのくせに隅に置けないな。すっげぇ美人じゃないか」
ゼンがロキをからかうのは退屈紛れです。フルートはそれをたしなめようとしたのですが、美人と聞いて、思わず一緒になってのぞき込んでしまいました。このあたり、フルートもやはり男の子です。すると、長い黒髪の綺麗な少女の顔が目に飛び込んできました。
え? とフルートは目を見張りました。この少女には見覚えがあります――。
「返せよ!!」
とロキがゼンの手を払いのけました。顔を真っ赤に染めて、本気で怒っています。
「とと……」
さすがに少しやり過ぎたと気がついて、ゼンはあわててペンダントを返しました。ロキはにらみつけるような目のままそれを受け取り、黙ってまた首にかけました。まるでフルートが金の石をそうしていたように、ペンダントの先の絵姿を服の内側へすべり込ませます。
フルートは思わず尋ねました。
「ロキ、その絵の人は……?」
小さな少年はまだ怒った顔をしていましたが、やがて、彼らに背中を向けてトナカイに座り直すと、憮然とした声で答えました。
「ガールフレンドなんかじゃないよ。……おいらの姉ちゃんさ」
「なに、おまえの姉貴って、あんなすさまじい美人なのかよ!? それともあれは絵が美化してあるのか!?」
とゼンが身を乗り出しました。相当失礼なことを言っているのですが、本人は全然気がついていません。
ロキはじろっとそれを振り向きました。
「本物はもっと美人だよ」
と答えます。
フルートは心の中で思わずうなずいてしまっていました。そう、実物はもっと綺麗です。流れる黒髪に抜けるような肌、悲しげで優しい大きな瞳――この世のものとは思えないほど美しい姿をしています。絵姿に描かれていたロキの姉は、ついさっき、フルートが夢の中で出会った、見知らぬトジー族の少女だったのです。
どういうことだろう……とフルートは考えました。まだ会ったこともないロキの姉。それがフルートの夢の中に現れたというのは、いったい何故なのでしょう。顔も知らなかったはずなのに……。
「よぉ。そのおまえの姉貴、名前、なんて言ったっけ? えぇと、ア、ア……」
とゼンが言うので、ロキは憮然としたまま答えました。
「アリアンだよ」
「そうそう、そのアリアンは今どこにいるんだ? 海辺の村でおまえが帰ってくるのを待ってるのか?」
できればこの美少女の実物に会ってみたい、と考えているのが、ありありとわかります。
ロキは少しの間、何も言いませんでした。ただ行く手だけを眺めていましたが、やがて、急に手綱を引くと、走っていたグーリーを立ち止まらせました。
「ガンヘン村にはいないよ」
とロキは答えました。何故だか、とても低い声になっています。まるで、誰かに聞かれることを恐れるように。そして、そのまま黙り込みます――。
フルートは首をかしげました。ロキの様子はなんだか変です。ポチも、じっとロキを見つめていました。ただゼンだけが、場の雰囲気を察せなくて、じれったそうにロキの背中をどやしつけました。
「こら、もったいつけるな! そんなに人に見せるのが惜しいのか。おまえの姉貴はどこにいるんだよ!?」
すると、ロキが顔を上げました。ふうっと溜息をついてから、答えます。
「おいらの姉ちゃんがいるのは、あそこだよ――」
眺める視線のはるか彼方には地平線が広がっていました。真っ白な山脈が浮かぶようにそびえています。
フルートたちは驚きました。
そこは、彼らが今目ざしている、サイカ山脈だったのでした――。