ポチはフルートとゼンを乗せたまま雪原に舞い下りました。そこでは、グーリーに乗ったロキが呆気にとられた顔で彼らを見上げていました。
「ゼン兄ちゃん……どうして雪クジラに食われて平気だったのさ?」
とロキが信じられないように尋ねてきました。
「ばぁか。いくら俺でも食われて平気でいるわけないだろうが」
とゼンが答えます。
「雪クジラっていうのか? あいつ、図体はでかいが、首がほとんどなくて振り返れなかったからな。かみつかれないように横っ腹に取りついて、そこに切り目を入れて潜り込んでいたんだよ」
「潜り込んで、って――兄ちゃん、雪クジラの体の中に隠れてたわけ!?」
ロキが仰天します。ゼンは、にやっとしました。
「あいつはすごい皮下脂肪だったからな。そこんとこを切り開いて入りこんだのさ。寒さは防げたし、腹が減ったら周りの脂肪を食えたし。狭苦しかったけど、居心地悪くはなかったぜ」
「た、確かに雪クジラは食用になるけど……でもさぁ……」
ロキは驚いた顔のままです。
「どうやってあのクジラを倒したんだい?」
とフルートが尋ねました。ポチはもう風の犬から子犬の姿に戻っているので、彼らは自分の足で雪原に立っています。
「いきなりあいつが動き出したと思ったら、外からおまえらやロキの声が聞こえたからな。こりゃおまえらが戦っているんだろうと思って、俺も中で大暴れしてやったのさ」
とゼンが自分のショートソードを掲げてみせました。ゼンの全身と同様、剣も血だらけになっています。
「手当たり次第、体の奥に向かって突き刺してやったんだけどな。どうやら俺が隠れていた場所のすぐ近くに心臓があったらしいや。手応えがあったと思ったら、いきなりものすごい血が吹き出してきやがった。おかげで危なくあいつの中で溺れるところだったぜ」
結果として、ゼンは吹き出した大量の血と共に体の外に押し出され、ポチやフルートに助けられたのでした。
フルートは思わず笑いました。
「さすがだね、ゼン」
けれども、トジー族の少年の方は、さすがと感心するどころの話ではありませんでした。雪クジラは北の大地最大の生き物です。食用になるので、たまに狩りの対象になりますが、その時には、屈強の大人たちが何十人もで罠を張り、クジラが動けなくなったところでいっせいに襲いかかってしとめます。それだって、今回ゼンが倒したクジラほどの大物は狙いません。彼らの目の前に倒れているのは、雪クジラの中でも最大級のものでした。
ロキは年上の少年たちをグーリーの上から見つめ続けました。雪の中に深く埋もれながら、ポチを守り、炎と共に脱出してきたフルート。巨大な雪クジラに立ち向かい、その体の中に隠れて、内側からクジラを倒してしまったゼン。とても並の少年たちではありません。もちろんそうです。彼らは金の石の勇者の一行なのですから。
「すごいや、兄ちゃんたち……!」
ロキは思わず声を上げると、そのままグーリーの背中に突っ伏して笑い出しました。ちょっと神経質な感じの笑い声が響き渡ります。ゼンは、ロキが笑いながら泣き出しているのに気がついて目を丸くしました。
「なんだよ。どうして泣いたりしてるんだ?」
けれども、ロキは甲高い声で泣き笑いを続けているだけです。その顔は、本当に大泣きをしているようでした。
フルートが優しい目になってそれを見上げました。
「ロキはぼくたちのことをとても心配してくれてたんだよ……本当に、ものすごくね」
そう言ってグーリーの背中に上っていくと、ロキの後ろに座って、そっとその頭をなでてやりました。とたんに、ロキが頭を振ってその手を払いのけました。
「やめろよ! お――おいら、泣いてるんじゃないぞ! 兄ちゃんたちがあんまりものすごいから、あ――あきれて笑ってんだ!」
けれども、その目からは大粒の涙がこぼれ続けています。フルートが何も言わずにただほほえんでいると、ロキが鎧の胸当てを殴りつけてきました。
「馬鹿! 笑うな! 笑うなったら――!」
そのまま、フルートの胸にすがりついて泣き出してしまいます。フルートは小さな背中にそっと手を回しました。
そんなロキの様子を、ゼンは面食らったように眺めていましたが、やがて渋い顔になってつぶやきました。
「ったく、性格変わりすぎだぞ、おまえ。ついていけねえだろうが」
すると、足下にいたポチが、尻尾を振りながら言いました。
「ワン。こっちがホントのロキなんですよ。今までのは、ちょっと強がってただけなんです」
ゼンは、じろりとポチをにらみました。面白くなさそうに言い返します。
「うるせえ。そんなの、とっくにわかってたさ」
二人と一匹の少年たちが見守る中、小さなトジー族の少年は、声を上げて泣き続けていました。グーリーがブルル、と静かに鼻を鳴らしました――。
やがて、ゼンが馬鹿でかいくしゃみをしました。
「でぇっくしょぃ!!」
全身を濡らしている雪クジラの血が、寒さに凍り始めていたのです。顔にこびりついた血を手でこすると、赤いガラスの破片のように落ちていきます。
「兄ちゃん、着替えなくちゃ」
とロキが言いました。もう泣きやんでいますが、まだ心配そうな顔をしていました。ゼンは肩をすくめました。
「着替えなら持ってるけどな、こう血だらけになっちまってると、風呂にでも入らないとどうにもならないだろうな」
「おいらたち、外にいる間は風呂には入らないよ」
とロキが答えました。
「体を濡らすのは厳禁だからね。代わりに、裸になって雪の上を転がるんだ。それから布で体をこすれば、すっかり綺麗になるんだよ」
「ははぁ、そりゃ面白そうだ」
ゼンはいたずらっぽく笑うと、たちまち服を脱ぎ捨てて素っ裸になりました。雪原の表面でザラメのように凍っている雪の上を盛大に転がっていきます。それを見て、ポチもワンワンと吠えながら駆けていって、一緒になって転げ始めました。ポチは犬なので、もともと雪は大好きなのです。
裸のまま、ポチとくんずほぐれつ雪の上でじゃれあいながら、ゼンが呼びかけてきました。
「おぉい、フルートも来いよ! ホントにけっこう気持ちいいぜ! 固い雪にマッサージされてるみたいだ!」
「ぼくはいいよ。遠慮しとく」
とフルートは苦笑いをしました。
マイナス何十度という寒さの中でも、ゼンやポチは、いつの間にかあまり寒いと言わなくなっていました。体が寒さに順応してきたのです。それに対して、フルートはずっと魔法の鎧を着続けています。鎧は北の大地の寒さからフルートを守ってくれますが、それだけに、フルート自身の体は寒さに慣れることができません。ゼンたちのように裸で雪の中に飛び出したら、あっという間に寒さでやられてしまうのは間違いなかったのです。
ゼンたちが雪の中で入浴している間、フルートはせっせとゼンの毛皮の服をふるって、こびりついたクジラの血を払い落としました。ロキがそれを手伝います。魔法の毛皮の服は、本当に驚くほど水気を寄せつけないので、ちょっとふるっただけで、簡単に血液が落ちていきます。凍りついたクジラの血は、雪の上で、まるでルビーかガーネットの粒のように輝きました。
ゼンが自分の荷袋の中から乾いた布をとりだして体を拭き始めました。こびりついた血は雪の中でほとんど落ちていて、わずかに残っていたものも、布でこすれば完全に落ちてしまいます。
すると、何気なくそちらを見たロキが大声を出しました。
「ゼン兄ちゃん! なんなのさ、それ!?」
ゼンの胸から腹にかけて、肉色の大きなひきつれがあったのです。傷痕です。
ああ、とゼンがそれにふれました。
「大昔の傷だ。それこそ、おまえよりもっとガキの頃のな。大熊と素手でやりあったんだ」
ロキは思わず真っ青になっていました。傷痕はゼンの体の前面を半分以上もおおっています。こんなに大きな傷を負ったからには、瀕死の重傷だったのに違いありません。それを何でもないことのように言うゼンが信じられませんでした。
フルートがちょっと首をかしげて言いました。
「金の石で何度もゼンの傷を治してきたけどさ、この傷痕だけは消えなかったね」
「うーん。金の石も、時間がたった傷は治せない、ってことなんだろうな。きっと癒しの魔力にも有効期間があるんだろ」
とゼンは軽く答え、ロキがまだ青い顔で自分を見つめ続けているのに気がつくと、にやっと笑って見せました。
「いいか、傷は前にしかついてないんだぞ。大熊相手に俺が逃げなかったって証拠だ。こんな傷だけどな、俺には記念の勲章みたいなもんなんだよ」
そして、ゼンは荷袋の中から薄い木綿の着替えを取り出すと、さっさと身につけて、その上にまた毛皮の服を着込みました。フルートが胸当ての中にしまっておいた手袋を取り出してみせると、おっ、と喜びます。
「助かった。クジラのヤツに食われたのかと思って困ってたんだ。あと、見つけなくちゃいけないのは俺の弓矢と――フルートの荷物だな」
「ワン、ゼンの弓矢ならもう見つけてありますよ!」
とポチが言えば、ロキも言いました。
「フルート兄ちゃんの荷物も見つけたよ。グーリーの背中に乗せてあるから」
それを聞いて、フルートとゼンは思わずロキを見つめてしまいました。
「な、なに……?」
年上の少年たちの視線の意味がわからなくて、ロキが思わずたじろぐと、ゼンが言いました。
「フルートの荷物の中には金があったはずだぞ。それなのに、持ち逃げしないで俺たちを捜したのか」
意外そうな声でした。
たちまちロキは真っ赤になりました。
「い――いいだろ、別に!? 悪いことしたわけじゃないんだからさ!」
と怒ったような声を上げて、あわててそっぽを向きます。なんとなく、照れて恥ずかしがっているようにも見えるロキでした。
思わずほほえんでしまったフルートとゼンに、ロキがまたどなってきました。
「笑うなよ! 笑うなってば――!」
厳しい寒さの北の大地。
それでも、青空から降りそそいでくる日差しを浴びていると、何とも言えない暖かさが感じられてくるようでした。