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第5巻「北の大地の戦い」

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37.雪クジラ

 グーリーの背に乗った少年たちは、顔色を変えました。

 後ろから迫ってくる小山のような雪クジラ。その巨大な体に、ゼンが傷つけたらしい刀傷が残っているというのです。

 ロキが青ざめた顔で振り返りました。

「ゼ――ゼン兄ちゃんは、あいつと戦ったの――? か、勝てるわけ――ないじゃないか」

 グーリーの背中で激しく揺られながら、絶望的にそう言います。雪クジラは全長が二十メートル以上もある、北の大地最大の生物です。大型の生き物はたいてい草食で、案外とおとなしい場合が多いのですが、気候の厳しい極地に棲む雪クジラは例外でした。肉食で、性格もオオカミに劣らないほど獰猛なのです。ずば抜けた嗅覚で何キロも先にいる獲物を見つけ出すと、短い四本の足で、意外なほど素早く移動してきます。何もさえぎるもののない雪原ならば、全速力のトナカイにも追いつくほどのスピードで走れます。いくらゼンが怪力でも、この怪物相手に戦って勝てるはずがないのは明らかでした。

「ゼン兄ちゃん――食われちゃったんじゃないのか――?」

 とロキが思わず泣き声になりかけると、突然、その後ろでフルートが動きました。すらりと背中からロングソードを引き抜くと、激しく揺れるトナカイの背中で片膝立ちになっていきます。

 ロキは目を見張りました。こんなことをするフルートを見るのは二度目です。普段あれほど優しい顔が、別人のように厳しい表情を作っているのを見て、またとまどいます。

 すると、フルートがちらりとロキを見ました。

「全速力で逃げるんだよ。いいね」

 それだけを言い残すと、グーリーの背中から飛び下ります。ロキが思わず悲鳴を上げそうになると、そんなフルートを、風の犬のポチが拾い上げていきました。雪オオカミと戦ったときと同じです。

 ポチの背に飛び移ったフルートは、剣を構えながら叫びました。

「正面! まずは目を狙うぞ――!」

 

 見上げるように大きな獣に、フルートが切りかかっていきました。風の犬のポチがうなりをあげ、小山のような雪クジラに突っ込み、かすめるようにして急上昇していきます。その瞬間、剣がひらめき、獣の小さな目が血を吹き出しました。

「ボアァァァァ……!!!」

 雪クジラが超特大の風笛のような鳴き声を上げて、一帯をびりびりと震わせました。

 ポチが空中でUターンして、また獣に襲いかかっていきました。フルートがまた剣を振り上げます。

 すると、目を潰されたはずの雪クジラが、突然振り返るように伸び上がってきました。頭がばっくり開き、巨大な口になって、風の犬と少年を一口で飲み込もうとします。

 ポチはとっさに体をひねって急上昇しました。勢いよく閉じてきた歯の隙間から、かろうじて外へ逃れます。

 その時、背中でフルートが鋭く息を飲みました。

「あれ!」

 と閉じていくクジラの口を指さします。何百という三角の歯が立ち並ぶそこに、灰色の毛皮の切れ端のようなものがひっかかっていました。手袋です。

 ポチは、ごうっと音を立てて引き返しました。雪クジラの口に向かって突進します。クジラがまた口を開けた瞬間、フルートは剣を鞘に収め、素早く手袋をつかみました。また急上昇してクジラから離れます。

「ワン、それって……!?」

 焦った声で尋ねるポチに、フルートはすぐには答えませんでした。ただ、毛皮の手袋をじっと見つめ、ふいに固く握りしめます。食いしばった歯の奥から、低く答えます。

「ゼンのだ――」

 ポチも息を飲みました。恐怖に充ちた目で雪クジラを振り返ります。ゼンの手袋がクジラの歯の間にひっかかっていたというのは、ゼンがクジラに食われてしまったという決定的な証拠に思えました。

 フルートは手袋を鎧の胸当ての中に突っ込むと、またロングソードを抜きました。おびえたように空中であとずさるポチに、強く言います。

「行け、ポチ! ゼンを助け出すんだ!」

「無理だよ! 兄ちゃんはもう消化されちゃってるよ!」

 とロキの泣き声が聞こえてきました。いつの間に来ていたのか、フルートとポチのすぐ近くまで、ロキを乗せたグーリーが駆けつけていました。ロキの目は涙でいっぱいになっています。

 けれども、フルートは答えました。

「そんなの、助けてみなくちゃわからない」

 言うなり、またポチと一緒にごうっと突進していきます。

 

 クジラがまた素早く口を開けました。一生のほとんどを吹雪の中で生きる雪クジラは、目はあっても、目の前の物がかろうじて見える程度の視力しかありません。感覚のほとんどを嗅覚と聴覚に頼っているので、目を潰されても獲物の位置は手に取るように知ることができるのでした。

 危なくまた食われそうになって、ポチは身をかわしました。そのままクジラの横を飛びすぎて、尾の方へ向かいます。フルートはロングソードをクジラの横腹に突き立てました。白い雪が積もった毛皮に、長い長い傷が走っていきます。

 ところが、雪クジラにはいっこうに応えた様子がありませんでした。極寒の地で生きる獣です。厚い毛皮の下には、さらに分厚い皮下脂肪の層を蓄えていて、剣の切っ先が本体まで届かないのでした。

「もう一度!」

 とフルートが叫んだとき、行く手で鋭い悲鳴が上がりました。ロキです。雪クジラが、わきを飛ぶフルートたちを無視して、前にいるロキとグーリーに襲いかかっていったのでした。巨体に似合わないスピードで突進して、グーリーに迫っていきます。山のような雪クジラの前では、さすがの大トナカイも虫か何かのようにちっぽけに見えました。

「ロキ! グーリー!」

 フルートは叫び、ポチは大あわてで身をひるがえしました。彼らの元へ引き返します。

 その間にも雪クジラはトナカイに迫り、背中の少年ごと一口で飲み込もうと口を開きました。ナイフのように鋭い歯が近づいてくるのを見て、ロキがまた大きな悲鳴を上げました。

 

 その時です。

 雪クジラが宙に飛びました。

 巨体が一瞬数メートルの高さまで舞い上がり、地響きを立ててまた凍った大地に落ちてきます。地面が大揺れに揺れ、グーリーは走りながら思わずよろめきました。トナカイに襲いかかったのではありません。まるで驚いたように、その場で飛び上がったのです。

「な、なに……?」

 驚いてまた振り返ったロキの目の前で、雪クジラがすさまじい声を上げました。凍った雪をかきむしってのたうち、何度も空に向かって吠えます。そのたびに体に凍りついた雪が砕け、雪崩のように落ちて行きます。

 フルートとポチは、ロキたちと雪クジラの間に飛び込むと、そのまま、ロキと同じように驚きの目で獣を見ました。雪クジラは雪原の上でのたうちつづけています。かきむしった雪が、大きな白い岩のように後ろへ飛び、地面に落ちて砕けます。

「ワン、苦しんでますよ。どうしたんだろう……?」

 ポチが目を丸くして言いました。本当に突然のことで、何が起きているのか、さっぱりわかりません。

 すると、いきなり雪クジラが牙をむいて、フルートとポチ目がけて襲いかかってきました。ポチの声を聞きつけて、苦し紛れに食いついてきたのです。

 彼らの後ろで、またロキが悲鳴を上げました。

「逃げろ!」

 とそれへどなりながら、フルートは逆にポチを雪クジラの方へ突進させました。牙の間をすり抜け、上空へと飛びます。山のような白い巨体が、その後を追って空へ伸び上がっていきました。何メートルもポチを追いかけ、風の尾に食らいつこうとします。

 そのとたん、クジラの横腹から大量の血が吹き出しました。最初に血を流していた刀傷から、真っ赤な血がほとばしり、宙に飛び散ったのです。

 獣がすさまじい鳴き声を上げました。絶叫です。北の大地の空と雪原が、またびりびりと震えます。

 と、吹き出す血の中にまじって、傷口から何かが飛び出してきました。激しい血しぶきと共に雪の上へ落ちていきます。

 それを見たとたん、ポチが叫びました。

「ワン、ゼン!」

 急降下して、血まみれになったゼンの下に回り、落ちていく体をすくい上げます。とっさにフルートがそれを受け止めました。

「ゼン! ゼン……!」

 フルートは真っ青になって少年を揺すぶりました。雪クジラの体から飛び出してきたゼンは、頭の先から爪先まで血で赤く染まっています。けれども、それでも右手には自分のショートソードをしっかり握っていて放しません。

「ゼン……!!」

 フルートが思わず泣きそうになりながら揺すぶり続けていると、ふいにゼンが目を開けました。友人を見て、にやりと笑い返します。

「よう」

 その声はいつもとまったく変わりありませんでした。

 

 ぽかんとしてしまったフルートに代わって、ポチが尋ねました。

「ワンワン、ゼン、怪我はないんですか?」

「何でもないぜ。これはあいつの血だ」

 とゼンは答えて、眼下の雪クジラを指さして見せました。クジラはゆっくりと地面に倒れていくところでした。氷のかけらを飛ばしながら、どうと横倒しになり、地震のように大地を揺らします。体の奥から低くうめくような声がわき起こり……それっきり静かになりました。

「ふん。さすがのあいつも心臓を突き刺されれば一巻の終わりだな」

 とゼンが満足そうに笑いました。それは獣と一対一で戦い、勝ち抜いた猟師の顔でした。

 すると、突然フルートがゼンに抱きつきました。血にまみれた親友の体を固く抱きしめてしまいます。ゼンは面食らいました。

「お、な、なんだ……?」

 フルートは腕も体も震わせながら親友を抱きしめ続けていました。低い声で、やっとこう言います。

「ゼン……無事で良かった……」

 ドワーフの少年は「よせよ、大げさだぞ!」と文句を言おうとしていましたが、突然胸にぐっと迫るものを感じて、ことばが出なくなりました。フルートは泣いてはいません。それでも、その気持ちがありありとこちらまで伝わってきました。

 ゼンは思わず親友を抱き返すと、力をこめてこう言いました。

「あったりまえだ。この俺がそんなに簡単にくたばってたまるかよ!」

 そう言うゼンの声は、本当にいつもとまったく変わらず陽気で元気です。フルートは泣く代わりに思わず吹き出すと、そのまま笑い出してしまいました。ゼンも声を上げて笑います。ワンワン、とポチも嬉しそうに吠え出しました。

 

 朝の光が降りそそぐ中、雪原はまぶしいくらいにきらめき続けていました。

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