「それで……ゼン兄ちゃんは?」
とロキが尋ねてきました。
吹雪明けの雪原は、朝の光にまぶしいくらいに輝いています。
フルートはたちまち表情を変えました。
「怪物に襲われて……連れ去られた」
口にするのさえ悔しい思いでやっと答えると、雪原を見渡します。雪の上には青空が広がっています。どこにも怪物の姿は見あたりません。もちろん、ゼンの姿も――。
「怪物? それってどんなヤツさ?」
とロキは驚いたような顔になりました。
「グリフィンだよ」
とフルートは答え、ロキがけげんな顔をしているのを見て続けました。
「前半分がワシで、後ろ半分がライオンの姿をしてる怪物さ。天空の国でも見かけたことがあったけど、ゼンをさらっていったのはそれとは色が違って、全身が真っ黒だった。絶対に魔王がよこした怪物なんだよ――」
すると、ロキは少しの間、黙り込んでから、口を開いて言いました。
「その怪物、おいらたちはグライフって呼んでるよ。それこそ、あのサイカ山脈に棲んでるんだ……」
とはるか北の彼方に浮かぶように見えている、白い山脈へ目を向けます。何とも言えない表情が、幼い横顔に浮かんでいました。
すると、グーリーの背中からポチが頭を上げて吠えました。
「ワン、怪物が飛んでいったのもこっちですよ」
と北の方を見ます。どこまでも広がる雪原の中、そちらの方向にはなだらかな雪の丘がいくつも連なっています。
ロキは、ぴょんとフルートの胸の中から離れると、すぐにグーリーに飛び乗りました。
「探しに行こう! ゼン兄ちゃんも無事かもしれないよ」
そこで、フルートもグーリーの背中へよじ上りました。新雪の中を駆け出したトナカイの背中から、全員であたりに目をこらします。
雪原を駆けながら、ロキが言いました。
「昨日降った雪は、北の大地にしては珍しいくらい柔らかいんだ。だから、フルート兄ちゃんは雪に埋まっても助かったんだよ。いつもなら、降った雪はあっという間に凍りついて、氷みたいになっちゃうんだ。そうしたら、いくら兄ちゃんでも脱出してこられなかったんだぞ」
「ワン。それじゃゼンも雪に穴を掘って隠れてるかもしれませんね」
とポチが期待を込めて言いました。
フルートは、黙ったまま別のことを考えていました。雪が柔らかいのは、おそらく普段より気温が高かったせいです。偶然かもしれません。けれども、フルートには、小さな魔法使いの少女が、魔王に力を奪われながらも、必死でフルートたちを守ろうとしてくれたように感じたのでした。
ポポロ、ゼンのことも守ってやってくれ……! フルートは心の中で祈るようにつぶやきました。
グーリーは北へとまっすぐ駆け続けます。すると、次第に寒さが厳しくなり、足下の雪が固くしまり始めました。グーリーの足が雪に潜らなくなり、やがて、蹄が岩を蹴るような音を立てるようになります。雪が寒さで凍りついてきたのです。
ロキが顔を曇らせました。
「ゼン兄ちゃんは魔法の鎧は着てないんだよね……?」
と心配そうにフルートに確かめてきます。フルートも唇をかんでいました。ロキの言うとおり、ゼンには寒さを防ぐ魔法の守りがありません。どうしようもなく心が焦ります。
すると、シュン、と音がして、巨大な風の犬がトナカイの背中から舞い上がりました。
「ポチ!」
フルートが思わず声を上げると、ポチはうなるように答えました。
「もう大丈夫です、充分暖まりました。ぼくもこの格好で探しますから!」
そう言い残すなり、あっという間に丘を越えて飛んでいきます。青空の中を自由自在に飛び回りながら、ゼンを探し始めます。
グーリーは、その後を追うように駆け続けました。背中の少年たちは、雪の上のどんな小さな変化も見逃すまいと、あたりを見回し続けました。ゼンの痕跡を見つけ出そうと必死になります。
すると、ふいにポチの声が響いてきました。
「ワンワンワン……フルート、来てください!」
大急ぎで駆けつけてみると、ポチが雪原の上に舞い下りていました。風の鼻でひくひくと匂いをかいでいる雪の先に、ちらりと黒っぽい細い物体が見えていました。
それを見たとたん、フルートはグーリーから飛び下りて駆けつけました。夢中で雪をかき分けようとしますが、固く凍りついていて歯が立たないので、背中のロングソードを抜いて突き刺します。二度三度と繰り返すと、氷の破片が飛び散って、雪の中から大きな弓が現れました。ゼンが使っているエルフの弓です。
「ワンワン。こっちには矢筒がありますよ!」
と少し離れたくぼみからポチが呼びました。やはり、ゼン愛用のエルフの矢筒です。こちらは、ほとんど雪に埋もれることもなく転がっていて、三十本近い矢がそっくり入ったままになっていました。
「ゼン……」
フルートは思わず弓と矢筒を抱きしめました。ゼンが自分の命の次に大切にしている魔法の武器です。それがこうして雪の中に投げ出されていたということに、たまらない不安を感じます。
ポチとグーリーがあたりの雪の上をかぎ回っていました。
「ワン、このあたりからゼンの匂いはしませんよ」
とポチが言えば、ロキもトナカイの様子を見て言いました。
「グーリーもそう言ってるよ。このへんにゼン兄ちゃんはいないってさ。別の場所にいるんだよ」
そこで、フルートはゼンの弓矢を抱えてまたグーリーの背に乗りました。
高い場所から眺める雪原は、本当に、どこまでも果てしなく続いています。いくら駆けていっても、なだらかな起伏が続くだけで、まったく景色が変わりません。きらめく雪、刻まれた風紋、光が作り出す青い陰影、それよりも鮮やかに青く頭上に広がる空。北の大地は広大で――あまりにも広大すぎて、その中からゼンひとりを見つけ出すことは、一面の雪の中から一粒の砂を見つけ出すことと同じくらい困難なことのように感じられてきます……。
「ワン、フルート!」
飛びながらわきに並んできたポチに突然声をかけられて、フルートは我に返りました。不安から、絶望的な気分に陥りかけていたのです。心をとらえる魔王の魔法に、いつの間にかまた、つかまりかけていたのでした。
フルートは頭を振りました。
「ごめん、大丈夫だよ。ゼンを見つけよう」
とまた前に向き直ります。
本当に、ちょっと油断しただけで、すぐに気持ちが弱くなってきます。何の変化もなく続く白い風景そのものが、人の心に漠然とした恐怖を呼び起こすのかもしれませんでした。
やがて、また丘をひとつ越えたとき、ポチが激しく鳴き出しました。
「フルート、フルート! 来てください!」
さっきよりずっと緊迫した声で呼びます。大あわてで丘を越えていったフルートたちは、そのまま息を飲んで立ちつくしてしまいました。
一面の雪原のそこここに、真紅の花が咲いていました。
いえ……花ではありません。血です。真っ赤な血しぶきが雪の中に飛び散っていたのです。
フルートもロキも真っ青になりました。かすかですが、雪の上には踏み荒らされた跡も残っています。何かがここで戦いを繰り広げたのです。
「ゼン……」
とフルートはつぶやきました。目の前が真っ暗になるような思いに襲われます。
すると、フルートの前で、小さなトジー族の少年が声を上げました。
「血の跡が続いてる! グーリー、追うんだ! ゼン兄ちゃんが怪我してるかもしれないぞ!」
たちまちトナカイが駆け出しました。風の犬のポチも並んで飛び、すぐにトナカイを追い抜いて先に出ました。雪の上に点々と続いている赤い血を追いかけていきます。
フルートは血が示す行く手を見つめながら、気がつかないうちに、ゼンの弓矢を強く抱えていました。凍りつくほど冷たい北の大地の空気の中で、弓を握りしめた手がじっとり汗ばんでいます。
すると、行く手の丘を越えたポチが、突然大声を上げました。
「うわっ!?」
後を追って丘を越えたフルートたちも、思わず立ちすくみました。向こうにあった次の丘に、もう少しでぶつかりそうになったのです。それまで越えてきたなだらかな丘と違って、まったく唐突に現れて、目の前にそびえたっています。雪におおわれた稜線が丸いカーブを描いています。
すると、グーリーが突然ぶるぶるっと身震いをしました。二歩三歩と後ずさりを始めます。
風の犬のポチが丘のわきを飛びすぎながらまた叫びました。
「ワン、変ですよ! この丘、なんだか動いてるみたいだ! まるで――」
その時、突然丘が大きく動きました。丸い斜面から、積もった雪が崩れ落ちてきます。それに巻き込まれないようにさらに下がったフルートたちは、次の瞬間ぎょっとなりました。丘の正面で崩れた雪の中から、黄色く光る二つの目が現れたからです。
ポチが激しく吠え立てました。
「ワンワンワン……こいつ、生きてます! 生き物ですよ!」
「雪クジラだ!」
とロキも叫びました。ほとんど悲鳴に近い声です。
「逃げろ、グーリー! 食われるぞ!!」
ザザザッと音を立てて、巨大な生き物が迫ってきました。雪が積もった丘にしか見えない体の下から、鋭い爪が生えた短い足がちらりとのぞいていました。凍った雪をひっかきながら、驚くほどのスピードで近づいてきます。
「逃げろ、グーリー! 逃げろ!」
ロキは叫び続けました。トナカイが飛び上がり、風のような勢いで逃げ出します。すると、一瞬前までグーリーがいた場所に、もう生き物がやってきていました。
「あれは!?」
とフルートは後ろを振り返りながら尋ねました。怪物にしか見えない生き物です。ロキは真っ青な顔で手綱を繰りながら答えました。
「雪クジラ。北の大地で――一番でかい生き物だよ。こんな――こんな南の方まで下りてきてるなんて――まさか――」
グーリーが雪原の上を飛び移るように駆け続けるので、その背中で激しく揺られて、ロキの声は切れ切れです。フルートも背中から振り落とされないように、しっかりつかまっていなければなりませんでした。
すると、そこへポチが空を飛んで追いついてきました。
「ワン、あいつは横腹に怪我してます。雪の上のはあいつの血だったんですよ!」
そして、一瞬ほっとしたフルートたちに、こう続けました。
「怪我は刀傷です。きっと、ゼンが傷つけたんです――!」