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第5巻「北の大地の戦い」

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34.目覚め

 フルートは戦っていました。

 目の前に迫ってくるのは、人間の女の上半身と蛇の下半身をしたメデューサです。ザラザラと蛇の体が石の床を滑り、髪の毛の蛇たちがシュウシュウと毒の息を吐く音が聞こえてきます。フルートは、メデューサの顔を見てしまわないように、とっさに目をつぶりました。メデューサと目が合ってしまうと、その瞬間、石に変えられてしまうのです。

 メデューサの気配が近づいてきます。太い蛇の体がフルートの体に絡みつき、女の腕がフルートの兜をはぎ取ってしまいます。フルートは、気配だけを頼りに、右手に握った剣をふるいました。手応えがあってメデューサの悲鳴が上がり、フルートは床の上に振り飛ばされました。

 

 急いで立ち上がって見ると、炎を吹いて燃え上がるメデューサの後ろに、黒い闇の卵がありました。黒よりもなお黒い、底なしの闇が、繭のようにうずくまっています。フルートは胸元から金の石のペンダントを引き出そうとして、はっと気がつきました。ペンダントはありません。バジリスクに奪われてしまったのです。

 闇の卵はみるみるうちに大きくなり、燃えるメデューサも飲み込んで、部屋いっぱいに広がっていきました。その中に、次々と生き物たちが飛び込んでいきます。ありとあらゆる獣や鳥たちです。風が吠えるような闇の卵の呼び声に、自ら身を投げるように卵の中へ飛び込んでいって、卵に吸収されていきます。

 その生き物たちの群れの中には人の姿もありました。皆、何かに取り憑かれたような顔をしながら、次々と卵の中へ消えていきます。その中に見覚えのある顔を見つけて、フルートは愕然としました。

「ゼン――!」

 毛皮の服を着て、エルフの弓矢を背負ったドワーフの少年が、吸い寄せられるように闇の卵へ近づいていました。フルートがいくら呼んでも、まったく気がつきません。闇の卵に魅入られているのです。

「行くな、ゼン!!」

 フルートは叫びながら親友に飛びつくと、思い切り突き飛ばし、闇の卵に向き直りました。渾身の力をこめて、炎の剣で卵に切りつけます。

 すると、一瞬大きな炎が上がって、闇の卵がまっぷたつになりました。その中から、ゆっくりと姿を現したのは、真っ黒なウロコに全身をおおわれたデビルドラゴンでした。大きな四枚の翼が広がります。

 立ちすくむフルートに向かって、デビルドラゴンが笑いました。

「感謝スルゾ、勇者。オカゲデ、実体トシテコノ世界ニ生マレテクルコトガデキタ。コノ世ヲ生キタ地獄ニ変エテヤロウ」

 翼を羽ばたかせて、デビルドラゴンが飛び去ろうとします。フルートはとっさにまたそれに切りつけました。炎が上がり、黒い翼が二枚、ちぎれて飛びます。

 すると、フルートの目の前で、デビルドラゴンが変わっていきました。ワシの体にライオンの体をつないだような、真っ黒な怪物の姿になります。グリフィンです。

 グリフィンは黒い翼を打ち合わせて、どっと吹雪まじりの風を起こすと、ワシそっくりの前足を伸ばして、そばにいたゼンを捕まえました。そのまま、空高く舞い上がっていきます。

「ゼン――!」

 フルートは真っ青になりました。ゼンがまた連れ去られてしまいます。今度こそ、追いついて取り返さなけばなりません。

 フルートは大声で呼びました。

「ポチ!」

「ワン!」

 風の犬になったポチが、フルートの目の前に飛んできました。その背中に飛び乗って、フルートは叫びました。

「今度こそ見失うもんか! 追いかけよう!」

 ごうっとうなりをあげてポチが空に飛び上がりました。グリフィンは、ゼンをつかんだまま彼らの前の方を飛んでいきます。ポチが次第にそれに追いついて、グリフィンとの距離を詰めていきます。

 すると、グリフィンが突然空中で向きを変え、彼らに向かってまた翼を打ち合わせてきました。猛烈な吹雪が巻き起こって、まともにフルートたちに襲いかかってきます。

 すると、フルートの下でポチが悲鳴を上げました。

「フルート! フルート! ぼく、消えてしまいます――!」

 フルートは、ぎょっと下を見ました。フルートを乗せたポチの体が、吹雪の中でみるみるうちに薄れていきます。風の中の雪が、風の体を粉々にして、むしりとっていくのです。

「ポチ! ポチ!!」

 思わず抱きしめようとしたフルートの腕の中で、ポチは完全に消滅しました。何もなくなった空間に、フルートの体が投げ出されます。そのまま、まっさかさまに地上へ落ちていきます。

 だめだ……とフルートは泣きながら考えました。何もかも、フルートのミスです。ゼンをグリフィンに連れ去られてしまったのも、ポチを風の犬に変身させて消滅させてしまったのも。金の石をバジリスクに奪われてしまったことも。少女たちに迫ってくる危険を教えずにいて、むざむざ魔王にさらわれてしまったことも――。もう届かない後悔に、胸がかきむしられるように痛みます。

 そして、フルートは落ち続けていました。果てしなく続く吹雪の中をどこまで落ちても、地上にはたどりつきませんでした。

 

 すると、優しい声が後ろから聞こえてきました。

「フルート。フルート、目を覚まして。これは夢なのよ……」

 えっ、と振り向くと、そこにポポロがいました。宝石のような緑の瞳で、心配そうにフルートをのぞき込んでいます。気がつけば、そこは落ちていく空の中ではなく、一面に広がる雪原の真ん中でした。

 魔法の鎧兜を装備しているはずなのに、たまらない寒さを感じて、フルートは思わず身震いをしました。特に、左の腕が冷たく感じられます。冷たすぎて、しびれているような感覚です。

 すると、ポポロがその左腕にそっと手を触れてきました。黒い衣の袖から伸びる小さな手は、意外なほど暖かく感じられました。

「フルート」

 とポポロはまた言いました。

「お願い、目を覚ましてちょうだい。これは夢なのよ。あなたは本当は雪の中にいるの。このままでいたら危険だわ」

 フルートはちょっと首をかしげました。夢の中のポポロが、これは夢だというのは、なんだか不思議なような気がします。つい笑顔になると、自分から雪の上に座りました。

「ぼくは心配ないよ。魔法の鎧を着ているんだからね」

 そう、平気です。今、たまらなく寒いような気がするのも、これが夢だからです。フルートの鎧兜は、どんな暑さ寒さも完全に防いでくれるのですから――。

 すると、宝石の瞳が突然うるみ始めました。涙もろいポポロです。ちょっと何かあれば、すぐにこうして泣き出してしまいます。

「フルートは平気でもポチは無理よ。凍え死んじゃうわ。お願い、フルート。目を覚まして……」

 フルートは思わずうつむきました。胸を突かれたような気がします。

「ポチは……消えちゃったんだよ、ポポロ……。ぼくが吹雪の中で変身させたから。風の体を散らされて、消滅して行っちゃったんだ……」

 ポポロはあわてて首を振りました。

「違うわ、フルート。それは夢よ。ポチは消えたりしてないわ」

 けれども、フルートにはわかっていました。冷え切っているのは、ポチを抱きかかえていた左腕です。今見ているこれは、確かに夢かもしれません。でも、腕の中に感じているこの冷ややかさは、雪の中で凍え死んだポチの体の冷たさに違いないのです――。

 ポチを死なせたのはぼくだ、とフルートはうつむきながら考えていました。エルフは決してマントを脱いではいけない、と言っていたのに、フルートはそれを脱いでロキに貸し与えてしまったのです。マントさえあれば、どんな吹雪の中でも、ポチをそこにくるんで寒さから守ってあげることができたのに。

 腕の中の冷たさが、そのまま心に氷のようにふれてきます。いくら悔やんでも悔やみきれない想いに、フルートは唇をかみました。

 

 ポポロが涙ぐみながら必死で言っていました。

「目を覚まして、フルート! ポチは死んでないのよ! でも、このままじゃ本当に死んでしまうわ! お願い、目を覚まして!」

 フルートは目を上げて、小さな少女を見上げました。広がる雪原の中、黒い衣を着た姿はひとしずくの闇のように鮮やかでした。内側に星のきらめきを宿した、美しい闇です。

 フルートは思わず手を伸ばして、両腕の中に少女の体を抱きしめました。兜をかぶったままの頭を、その胸にもたせかけます。

 ポポロは息を飲んで体を固くしましたが、すぐに驚いた声を出しました。

「フルート……?」

 少年は、ポポロの胸の中で静かに泣き出していました。何もかも自分のせいなのだという激しい自責の念に襲われて、ただ涙を流し続けます。

 少女は唖然とそれを眺めていました。泣き虫で、すぐに大泣きしてしまうポポロと、いつもそれを優しく慰めてくれるフルート。なのに、今はその立場が逆転してしまっています。

 ポポロの瞳がふいにまた新しい涙を浮かべました。すすり泣く少年を優しく見つめると、その頭に腕を回して、そっと胸に抱き寄せます。

「自分を責めないで、フルート……。これは魔王の魔法のせいよ。心の弱さにつけ込まれないで。ポチは生きてるわ。みんな、生きてるの。だから負けないで、フルート……」

 涙ぐんだ声で、そう話しかけてきます。

 黒い衣の下の胸のふくらみが頬にふれて、フルートは思わずどきりとしました。泣いているのに――たまらなく悲しい気持ちでいるはずなのに――急に胸の鼓動が速くなってしまいます。ふっくらと柔らかくて暖かい感触が頬に伝わってきます……。

 すると、ポポロが消えました。一瞬のうちに、フルートの腕の中がからっぽになります。そうです。これは夢なのです。

 けれども、フルートの胸は高鳴ったままでした。我知らず真っ赤になった顔で、とまどいながらあたりを見回します。

 ポポロはもういません。雪原も、もう見えません。フルートを包んでいるのは、ただ白い闇でした。少女が着ていた星空の衣のように、きらきらと小さな輝きを宿した、白い広がりでした。

 すると、空っぽのはずのフルートの腕の中で、何かがうごめく気配がしました。突然、犬の吠える声が響き始めます。

「ワンワンワンワンワン……!!」

 それは、ポチの声でした。フルートは信じられないように手の中を見ました。やっぱりそこには何もいません。けれども、感じます。ポチの毛並みを、体を、そのぬくもりを、左の手のひらにはっきりと感じます。

「ポチ!」

 と歓声を上げたとたん、フルートは目を覚ましました。

 

 そこは雪の中でした。

 フルートの体の周りを、降り積もった雪がすっぽりと取り囲んでしまっています。どのくらい上にのしかかっているのか、雪が重くて身動きが取れません。雪の中は薄暗く、ただすぐ目の前に見える雪の壁の、上の方がわずかに明るく光っているのが感じられました。

「ポチ! ポチ――!」

 フルートは下の方へ呼びかけました。すると、雪の奥からすぐに返事が返ってきます。

「ワン、ここにいますよ、フルート!」

 ポチの声です。元気そうですが、それでもフルートは聞かずにいられませんでした。

「大丈夫? 怪我はない?」

「ワン、心配ないですよ。フルートの盾が雪から守ってくれてました」

 フルートは涙が出るほどほっとしました。フルートの腕と盾と鎧の間にできた狭い空間で、ポチは無事でいたのです。

 とはいえ、このままでいるわけにはいきません。フルートはしゃにむに右腕を動かしてみました。動きます。必死で背中に回すと、指先に剣の柄が触れてきます。フルートは降り積もった雪をかきのけながら、少しずつ鞘から剣を引き抜いていきました。

 すると、ふいに背中の後ろの雪が崩れました。シュウッと言う音が響きます。フルートが引き抜いていたのは炎の剣です。剣の刃先にふれた雪が、一瞬で蒸発して溶け落ちたのでした。

 突然できあがった雪洞にフルートは後ろ向きに倒れ込みました。どさん、と背中が雪の壁にぶつかって止まります。

 すると、左腕の中にいた子犬と目が合いました。ポチが伸び上がってきて、夢中でフルートの顔をなめ始めます。フルートはそれをしっかりと抱きしめました。子犬の体のぬくもりが、たまらなく嬉しく感じられます。

 

 やがて、フルートは子犬を放すと、また剣に手をかけて言いました。

「さあ、ここから脱出するよ。ポチ、上はどっちだい?」

 四方八方を雪に取り囲まれた中、フルートは上下の感覚さえなくしてしまっていたのでした。

 ポチは、雪の壁の、ほの白く光り輝く方向をくっと見上げて言いました。

「ワン、こっちが上ですよ!」

 フルートはうなずくと、炎の剣を一気に鞘から引き抜きました――。

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