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第5巻「北の大地の戦い」

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33.霜の町

 寒い寒い朝でした。

 明るくなってきた空が、あたりの景色を浮かび上がらせていきます。家々が立ち並ぶ小さな町でした。

 夜明け前の通りに人影はありません。町はただ薄明かりの中でしんと静まりかえって、氷のように冷え切っています。

 一面に霜が降っていました。家の壁も窓も、塀も門柱も通りの石畳も、氷の花でおおわれています。朝日が昇れば、光の中で霜はきらめきながら崩れ溶けていくことでしょう。けれども今はまだ、霜はあたり一面を包み込んで、白く凍りつかせているばかりでした。

 一軒の家の塀際に、一匹の犬がうずくまっていました。痩せた雌犬です。白い毛並みの上にも霜の花は咲き、犬の体を冷たく飾っています。その目は固く閉じたまま、もう二度と見開かれることはありません。雌犬は凍え死んでいたのです。

 雌犬が抱えるようにしていた胸の中から、ポチは立ち上がりました。とっと通りの石畳の上に飛び出すと、静かに雌犬に鼻を押し当てます。冷たく固い感触と冷え切った匂いが伝わってきます。命の匂いはもう全然感じられません。

 ポチは、じいっと雌犬を見つめました。長い長い間、見つめ続け、やがて、そっとまた冷たい体に鼻先をつけました。つぶやくように、こう言います。

「それじゃ行くね、お母さん……」

 雌犬は返事をしませんでした。優しいその黒い瞳も、もうポチを見ることはありません。ポチは想いを込めたまなざしでもう一度母犬を眺めると、そのまま背中を向けて歩き出しました――。

 

 すると、その目の前にルルが立っていました。

 茶色の長い毛並みの中に銀毛を光らせながらポチを見下ろしています。

「ルル――」

 とポチは尻尾を振りました。

「来てくれたんですか? どうして?」

 問いかけられても、犬の少女はすぐには返事をしませんでした。ただ、ひどく意外そうな表情で、ポチの後ろに倒れている雌犬を眺めます。

 ポチはほほえんで答えました。

「ぼくのお母さんですよ……。ぼくがまだうんと小さかった頃に死んでしまったんです。こんな寒い朝でした。ぼくたちには家がなかったから、寒さをしのぐ場所もなくて……。でも、ぼくだけは、お母さんが抱きしめてくれていたから、凍え死ななかったんです」

「綺麗なひとね」

 とルルはつぶやくように言い、それから意外そうな目のままで子犬を見ました。

「私……あなたがこのままお母さんのところから離れないのかと思ったわ。だから、起こしに来てあげたんだけど……その必要はなかったみたいね」

 それを聞いて、ポチはまたほほえみました。優しくて淋しい微笑でした。

「本当は、ずっとお母さんといようかと思ったんですけどね。どこへ行っても、ぼくたちの居場所なんてなかったから。人間は、ことばを話すぼくのことを、いつだって化け物扱いして追いかけてきたし。でも……このとき、ぼくはすごくお腹が空いていたんです。どうしても我慢ができないくらい。だから、お母さんと一緒にいるのをやめて、餌を探すことにしたんです。それからは、ずっと一人で生きてきたんですよ。だから、起きるのだって、自分でやらなくちゃならないんです――」

 ポチは母犬の方を振り返りませんでした。まるで、わざとそうしているように、あくまでも前だけを見ています。

 

 ルルは少しの間黙ってから、こう尋ねてきました。

「どうして――? 生きるのはとてもつらかったんでしょう? それなのに、どうして生きていこうと思ったの? ひとりぼっちだったのに――」

 ポチは犬の少女を見上げました。二回りも小さな体をしているくせに、その黒い瞳は、ずっと年上の大人の犬のようです。

「さあ、どうしてかなぁ……? 自分でもよくわからないです。ただ、死にたくはなかったんですよね。生きていきたかったんだ。ホントに、どうしてかな? なんのあてもなかったんだけど。……ただ」

 ポチはふとうつむくように目を下に向けて、小さく笑いました。何かを思い出したような笑いでした。

「そうですね。もしかしたら、期待してたのかもしれない。どこかに、こんなぼくでも受け入れて、好きになってくれる人がいるかもしれない、って」

 ホントに、あてなんて全然なかったんですけどね、とポチはまた言ってから、ルルに笑いかけました。

「でも――本当に見つかっちゃった。フルートやゼンやポポロやメールが。フルートのお父さんやお母さんが。ゼンのお父さんだって、ぼくが人のことばで話しても全然驚かなかったし、シルの町の人たちだって、今ではもう、ぼくがしゃべっていたって平気です。ゴーリスやユギルさんやロムド国王や……ぼくがもの言う犬でも気にしない人たちって、今では本当にたくさんいるなぁ」

 ルルは何も言いませんでした。言えなかったのです。

 同じもの言う犬でも、ルルは生まれたときから天空の国で暮らしてきました。天空の国では、犬が人のことばを話すのはあたりまえのことです。ルルは、自分の知らない世界、自分に想像がつかない人生を生きてきた年下の子犬を、ただものも言えずに見つめてしまいました。

 ポチは続けました。

「だから、ぼくはここにいるわけにはいかないんですよ。フルートたちのところに戻らなくちゃ。ぼくはまだ小さくて、ホントに大した力はないんだけど、でも、こんなぼくでも、いれば少しはフルートたちを助けられるかもしれないでしょう? だからね、ぼくは行くんです。フルートたちが、ぼくを必要にしてくれるから」

 

 ルルは、本当に長い間、ポチを見つめ続けました。心の中で何かを考えるように、ただずっと黙って見つめ続け、やがてようやく口を開くと、こう言いました。

「これは夢なのよ、ポチ」

 ポチはうなずきました。それはとっくにわかっていたのです。

「ワン、ぼくとフルートは吹雪の中を歩いてました。フルートがぼくを抱きしめてくれてた。お母さんがそうしてくれたみたいに。きっと、フルートも寝てるんだ。だから、起こさなくちゃ。ぼくはあのとき、まだ本当に小さくて、お母さんを起こしてあげることができなかったけど、今ならきっとできるんです。お母さんのことは守れなかったけど、フルートだけは、絶対に死なせないで守ってあげるんだ――」

 ルルは驚いてポチを見つめ続けました。小さな小さなポチ。体も小さければ、顔も体つきもまだ本当に幼いのに、その中に宿っている魂は、ルルよりはるかに強くて大人なのです。

 やがて、ルルが言いました。

「ポチ……あなたって本当に十歳? 何かの間違いじゃないの? なんだか、もっとずっと年上みたいな気がするわよ……」

 ポチは、くすりと笑いました。

「本当に十歳ですよ。ぼく、自分の歳はよく覚えてるから。でも……そうですね。ぼくは天空の犬と普通の犬の間に生まれてるから。天空の犬は人間と同じくらいのスピードでゆっくり大人になっていくけど、普通の犬はもっと早く大人になりますからね。もしかしたら、そういうのも関係してるのかもしれないです」

 ってことは、ルルたちほどは長生きできない、ってことなんですけどね、と言って、ポチはまた笑いました。――もうずいぶん前からそんなことを考えていた。そう言いたそうな笑い方でした。

 ルルはまばたきをしました。

 少しも動じた様子のない子犬を見つめ、やがて、そっと顔を寄せて小さな頬をなめました。

「フルートを早く起こしてあげて」

 とルルは言いました。

「ポポロが起こしに行ったけど、きっと、あの子だけじゃ手こずってるわ。心を弱くする魔王の魔法は、この北の大地をおおいつくしてるから――」

 

 その瞬間、ポチの目の前からルルが消えました。

 まるで、何者かが一瞬でルルを奪い去ったような勢いでした。

 ポチは思わず目を丸くして、次の瞬間、全身の毛を逆立てました。あたりに魔の気配が充ちています。

「ルル! ルル――!」

 ポチは大声で呼びましたが、どこからも返事はありません。

「ルル――!!」

 ポチは声を限りに叫んで、あたりに耳を澄ましました。やはり、答えは返ってきません。ポチは思わず短くうなりました。

「待っててくださいね、ルル。助けるから。本当に、必ず助け出しますから……」

 そうつぶやくと、改めて顔を上げ、今度は犬の声で叫び始めました。

「ワンワンワンワンワン……!!」

 ポチの吠える声があたり中に響き渡ります。それはもう、霜に凍った町の風景ではありませんでした。一面白い雪原の中です。遠くにフルートがうずくまっているのが見えていました。

「ワン! フルート! 起きてください、フルート!」

 ポチは叫びながら駆け出しました――。

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