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第5巻「北の大地の戦い」

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32.悪口

 「ちょっと! ちょっと、ゼンったら!」

 すぐ耳元でメールがわめいていました。甲高い声がきんきんと響き渡ります。

 ゼンは思わず顔をしかめました。ったく、うるせぇなぁ。人がせっかく寝ようとしてるところを邪魔するんじゃねえや。心の中でそう文句を言うと、そのまま寝たふりを続けます。

 メールがわめき続けていました。

「ゼンったら! ねえ、ちょっと、起きとくれよ! ねえったら――!」

 それでもゼンは返事をしませんでした。メールの声を無視して、また眠りに戻ろうとします。

 すると、突然がーんと頭にものすごい痛みと衝撃が走りました。ゼンが仰天して跳ね起きると、目の前にメールが片足を上げて立っていました。その顔は怒りのあまり真っ赤に染まっています。メールが寝ているゼンの頭を蹴飛ばしたのです。

「ってぇな!! 何しやがんだ、いきなり!?」

 とゼンがどなると、メールが負けないほどの勢いでどなり返してきました。

「あんたがすっとこどっこいだからじゃないか!! なに呑気に寝てんのさ! そんなことしてる場合だと思うのかい!?」

 口ではゼンに全然負けないメールです。ゼンは憮然となりました。

「だって、この吹雪だぞ。全然進めねえんだ。ひと休みぐらいさせろよ」

「馬鹿言ってんじゃないよ! ひと休みなんかですむもんか! あんた、絶対に目が覚めなくなるよ!」

 メールは怒りに目をきらきらさせていました。青い瞳が燃えるように輝きながらにらみつけてきます。ゼンはちょっと面食らいました。普段からメールはかなり怒りっぽいたちですが、それにしても、この怒り方は尋常ではありません。思わず舌打ちしてしまいます。

「ちぇ……。なにそんなに怒ってんだよ。俺が何をした?」

「あんたは何もしてない。だから危ないって言ってんじゃないのさ!」

 メールの言うことはさっぱり意味がわかりません。ゼンは苦い顔になりました。

「いいかげんにしろよなぁ。人が寝ようとしてるところを起こしやがって。こっちは疲れてるんだ。寝かせろよ」

 そう言って、またごろりと横になってしまいます。メールが体を揺すぶってきましたが、ゼンはもう断固として起きるつもりはありませんでした。本当に、そのくらい疲れ切っていたのです。

「馬鹿! おたんこなす! ぐうたら! 怠け者! 意気地なし――!」

 メールがありとあらゆる悪口を並べてきました。それでもゼンは無視し続けます。まったく、こんなメールは相手にしていられません。

 メールはどなり続けました。

「間抜け! あほう! 唐変木! わからず屋! ゼンの馬鹿! ばかぁ……!!」

 ゼンは、がばと起き上がりました。驚いてメールを見ます。

 緑の髪の少女は、ゼンのかたわらに座りこんだまま泣き出していました。拳に握った手で、こぼれる大粒の涙をしきりにぬぐっています。

「お、おい……なに泣いてんだよ?」

 ゼンは思わずうろたえました。ゼンは誰かに泣かれるのが苦手です。それが普段気の強いメールの涙となれば、なおさらです。

 すると、メールが泣きじゃくりながら、またどなってきました。

「言ったじゃないか、ゼン! 助けに来てくれる、って。あたいたちのことを、きっと助けに来てくれるって! 忘れちゃったのかい――!?」

 かみつくような勢いでそう言って、涙に濡れた拳でゼンの胸や頭をめちゃくちゃにたたいてきます。

「てて……こら、よせ。よせったらメール」

 ゼンが閉口してメールの手を捕まえると、その腕の中で急に少女の姿が揺らぎ始めました。驚いているゼンの目の前で、あっという間に薄れていきます。

 淡く消えていくその瞬間、メールが涙を浮かべた目でひしとゼンを見つめてきました。唇が、かすかな声を伝えてきます。

「必ず来てよ――あたい――あたい、待ってるからさ――」

 メールは完全に消えました。

 ゼンは空っぽになった自分の両手を見つめました。手のひらにメールの細い腕の感触が残っています。ゼンは、ぎゅっとそれを握りしめました。深い溜息をひとつついてから、思わずぼやきます。

「ったく、わがままなヤツだ。こっちのことなんか、全然考えてねえんだからな……」

 体は相変わらず重い鉛のようでした。体中の細胞が、休ませろ、ここで眠らせろ、と叫び続けています。けれども、ゼンは片膝を立てると、そこに両手をかけました。暖かい雪の毛布が足下に広がっています。その中に倒れ込めば楽々と眠れるとわかっていても、ゼンは歯を食いしばって起き上がっていきました。とたんに膝が崩れそうになって、足下がよろめきます。あわてて踏ん張った瞬間、ゼンは立ち上がっていました。

 

 とたんに、どっと冷たい風が全身をたたきました。雪がまじった激しい風です。顔や耳に刺すような痛みを感じて、ゼンは我に返りました。吹雪の荒れ狂う雪原の真ん中に、ゼンはぽつんと一人で立っていました。

 正気を取り戻して行くにつれて、ゼンの背筋がぞっと冷たくなりました。寒さのせいではありません。自分が幻覚を見ていたことに気がついたからです。

 厳しい寒さの中で体温を奪われていくと、やがて寒さを感じなくなり、幻覚を見始めます。それは、凍死の一歩手前まで来ている証拠です。そこで気がつかなければ、本当に寒さで動けなくなり、凍え死んでしまうのです。

 ゼンは冷や汗をかきました。幻覚の中でメールが叱りつけてくれなかったら、ゼンはあのまま目を覚ましませんでした。メールが言っていたとおり、永遠に目覚めることがなかったでしょう。危機一髪でした。

 相変わらず体は氷のように冷え切っています。重い足取りも変わりません。それでも、ゼンはまた歩き出しました。毛皮のフードが風で脱げているのに気がつくと、あわててそれをかぶり直します。

「あたい、待ってるから」とメールは言いました。幻覚の中でも何でも、とにかく確かにそう言ったのです。それなら、ゼンは行かなくてはなりませんでした。どんなにつらくても苦しくても、メールの元までたどりついて、そしてこう言ってやるのです。

「そぉら見ろ。ちゃんと来てやっただろうが――」

 

 その時、吹雪の中に異質な音が聞こえてきました。

 これまで聞いたことのない、凍った雪をひっかくような音です。

 ゼンは思わず身構えました。これは生き物の気配です。それも、とてつもなく大きな生き物です――。

 あのグリフィンが戻ってきたのかもしれない、とゼンは考えて、腰からショートソードを抜きました。凍えきっていたはずの体に、突然熱い血がめぐり始めます。ゼンは猟師です。獲物を狩っても、自分自身が狩られるわけにはいかないのです。

 すると、吹雪の中に影が見えてきました。ひっかくような足音が迫ってきます。グリフィンじゃない、とゼンは気がつきました。足音も気配も、まったく違います。それは地面をはうようにしながら、吹雪を突いてまっすぐやってきます。

 と、何万本もの風笛を吹き鳴らしたような音が響き渡りました。

 ボァーーーーァァァァーー……!!

 そのすさまじい音に、ゼンは思わず耳をふさぎそうになりました。生き物が吠えたのです。

 突然、風が何かにさえぎられて吹雪がやみました。急にはらはらと上空から降り始めた雪の中に小高い丘がそびえていました。一面雪におおわれて真っ白です。

 と、その丘がゼンに向かって動きました。ザザザッと雪の上を爪が蹴る音がして、はうようにこちらへ迫ってきます。

 ゼンは仰天して、丘を見つめ直しました。それは丘ではありませんでした。見上げるほど巨大な白い生き物だったのです。獰猛な肉食獣の瞳が、舌なめずりするような目つきでゼンを見据えていました。

「くそっ……晩飯にされてたまるか!」

 ゼンは吐き出すようにつぶやくと、ショートソードを握り直して低く身構えました――。

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