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第5巻「北の大地の戦い」

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31.風と雪

 怪物がゼンを連れ去った空をフルートが呆然と見送っていると、腕の中でポチが苦しそうに言いました。

「ワン、フルート。もう変身しようとしませんから、放してくださいよ……」

 あまりきつく抱きしめていたので、子犬は息が詰まりそうになっていたのです。フルートは、あわててポチを放しました。

 雪の上に降り立つと、ポチは吹雪の続く空を見上げながら言いました。

「後を追いかけましょう。ゼンを助けないと」

 フルートはうなずきました。今は呆けている時ではないのです。握っていた剣を鞘に戻すと、吹雪の中を、怪物の飛び去った方角へ歩き出しました。その足下を子犬のポチがついてきます。

 ところが風はいっそう強まり、雪原の上を吹き渡って、真っ正面から彼らに吹きつけてきました。みるみるうちにフルートもポチも雪にまみれて真っ白になります。目の前は雪の色一色で、先に何があるのかもわかりません。ただ、やっと自分たちの足下が見えるだけです。

 それでも、風に逆らいながら前へ進んでいくと、ふいにひときわ強い風が襲いかかってきました。雪まじりの風に、一瞬息ができなくなります。

「キャン!」

 ポチが風に吹き飛ばされて、地面に転がりました。白い小さな姿が雪の中に見えなくなります。

「ポチ!」

 フルートは青くなって駆け寄りました。雪の中に倒れていた子犬を見つけて、また腕の中に抱き上げます。

 ポチは雪だらけになった体をぶるぶるっと振ると、風が吹いてくる方向へ顔を向けました。

「ワン、こっちですよ。こっちにゼンは連れ去られたんです。行かなくちゃ――」

 フルートは唇をかんでうなずきました。風が強すぎて、小さなポチはまた吹き飛ばされそうです。フルートは腕の中に子犬を抱いたまま、また前へ進み始めました。

 

 吹雪はやむことがありません。

 ゴウゴウ、ヒョウヒョウ、ウルルル……と様々な声で鳴きわめきながら、空と地上を風と雪でいっぱいにしています。上も下も区別がつかない白い世界の中で、フルートはもう、どちらへ進んでいるのかわかりませんでした。ただ、風の吹く方角に向かって歩き続けているだけです。

 やがて、足下に雪が積もり始めました。雪はみるみるうちに深さを増して、足首まで届き、膝まで埋もれてしまいます。その中をこぎ分けるようにしてフルートは進み続けましたが、じきに息が上がり、足が重くなってきました。ひどい寒さの中なのに、鎧の内側で体が暑くなって汗ばんできます。

「ワン、大丈夫ですか?」

 ポチが心配して声をかけました。その子犬の毛皮も真っ白で、まるで雪の塊のようになってしまっています。フルートは返事をする代わりに、いっそうしっかりと子犬を抱くと、左腕の盾で少しでも吹雪から守ろうとしました。

 雪はますます深くなり、ついにフルートのすねまで届くようになりました。いくら足を動かしても、ほとんど前に進めなくなります。

 フルートは、あえぎながら空を見上げました。雪の吹き荒れる空には、何一つ見えるものがありません。ただいたるところが白一色です。白い闇のまっただ中です。

「ゼン……」

 とフルートはつぶやきました。けれども、その声も激しい吹雪が引きちぎっていきます。

 とうとう、フルートは、がくりと雪の中に膝をつきました。もう一歩も進むことができません。腕の中の子犬も、もう何も言いません。寒さに震えている気配が、鎧ごしに伝わってきます。

 フルートはポチを胸の中に抱きしめました。少しでも、ほんの少しでも風からかばおうと、背中を丸めて子犬を抱え込みます。そして、そのままフルートは動かなくなりました。

 雪原にうずくまる少年を、吹雪は容赦もなくたたき続けていました。小柄なその体が、みるみるうちに雪に隠れていきます。やがて、金の鎧は白い雪にすっかりおおわれて、どこにもその色が見えなくなってしまいました――。

 

「この……! 放せっ! 放せったら!!」

 ゼンが、怪物にわしづかみにされて空を飛びながら、わめいていました。吹雪はごうごうとゼンたちの周りを吹きすぎていきます。怪物は風に逆らって飛び続けているのです。まともに行く手を向くと、吹きつける雪に息が詰まりそうになりますが、怪物はいっこうに気にする様子もなく進み続けています。

 ゼンは自分の体をつかむ鳥の指を両手で握ると、必死で引きはがそうとしました。ドワーフの怪力に、指が本当に浮き上がります。とたんに、怪物が足に力をこめなおしたので、ゼンは思わず息が止まりそうになりました。かっと顔に血を上らせます。

「こんちくしょう!」

 とどなって思いっきり怪物の指を押し返すと、前足がゆるみました。たちまちゼンが下に落ちそうになります。

「っとと!」

 ゼンはとっさに怪物の足につかまりました。怪物は地上十数メートルの高さを飛び続けています。ここからまともに落ちたら、いくらゼンでも無事ではいられません。

 怪物が鋭い声を上げて頭を下げてきました。ワシそっくりのくちばしで、暴れる獲物をつつこうとします。とっさにゼンが体をひねると、くちばしの先が胸の上をかすめました。とたんに、胸の上で止めていた弓帯と矢筒の帯が弾けました。弓矢がゼンの背中から滑って落ちていきます――

「あっ!」

 ゼンは真っ青になりました。エルフの弓矢は、ゼンが自分の命の次に大事にしている武器です。それが吹雪の中に落ちて、たちまち見えなくなっていきます。

「こんの野郎……!」

 とまたどなると、ゼンは腰からショートソードを抜いて、怪物に切りつけました。剣の切っ先が怪物の首元をかすめて、黒い羽毛を散らします。

 怪物は鋭く鳴くと、大きなくちばしでまたゼンをつついてきました。ゼンは、片手で鳥の足にぶら下がりながら、もう一方の手のショートソードで応戦します。くちばしと剣とが、激しくぶつかり合います。猛烈な吹雪の中、一頭と一人はまったく譲り合いません。

 すると、ついにまたゼンの剣先が怪物の体をかすめました。大きな翼の羽根を何枚も切り落とします。

 ギァァァ!

 怪物はすさまじい声を上げると、もう一方の足でゼンの体をつかみました。そのまま、しがみついているゼンを引きはがすと、いきなり空中にゼンを放り出します。

「うわぁっ……!」

 ゼンは悲鳴を上げて、まっさかさまに落ちていきました。が、その体がたちまち地面にぶつかって、雪の上を転がります。怪物は地上のすぐ近くまで下がっていたのでした。

 ゼンはすぐに跳ね起きると、ショートソードを握り直しました。空から舞い下りてきた怪物に向かって身構えます。

 黒い怪物は、大きな翼を吹雪の中に羽ばたかせて、少しの間ゼンとにらみ合いました。ワシそっくりの金の目が獲物を見据えてきます。ゼンはそれに負けないほどの強さをこめて怪物をにらみ返しました。また一太刀浴びせようと身を沈めます。

 とたんに、激しい羽ばたきと共に、翼が起こした風が吹きつけてきました。ゼンは立っていられなくなって、思わず二歩三歩とよろめきました。すると、その隙に怪物が上空に舞い上がりました。地上にゼンを残したまま、あっという間に空の彼方へ飛び去ってしまいます。逃げていったのでした――。

 

 ゼンは、ほうっと溜息をつきました。さすがに息が上がって、体中がじっとり汗ばんでいます。ショートソードを鞘に収めると、しばらくは身動きもできませんでした。膝に両手を当てたまま、うつむいて息を整えます。

 そして、ゼンはまた頭を上げました。周囲に目を向けます。

 そこは雪原のただ中のはずでした。足下には雪の大地が続いています。けれども、吹きすさぶ雪と風のために、視界がまったく効きません。雪が空間を充たして、白い闇のように広がっているばかりです。

 それでも、ドワーフの彼は方角をつかむことができました。自分がどちらの方向からやってきたのか見当をつけると、そちらへ向かって歩き出しました。途中にエルフの弓矢が落ちているはずなので、それも回収するつもりでした。

 厳しい寒さでした。吹きつけてくる風が、ゼンの毛皮の服の隙間から忍び込んで、体温を奪い去っていきます。ゼンは震えながら手で両腕や体をこすってみましたが、そんなことは少しも役に立ちませんでした。汗ばんだ体が冷えるにつれて、寒さはつのるばかりです。ゼンは歯の根を鳴らしながら、必死で歩き続けました。

 吹雪は少しも衰えません。後ろから前から激しく吹きかかってきて、ゼンを引き倒そうとします。そのうちに、ついに、ゼンはよろめいて地面に膝をつきました。そのまま、ぜいぜいと荒い息をします。

 全身がひどく重たく感じられました。手足は冷え切っていて、まるで鉛でできているようです。懸命に起き上がって、また歩き出しますが、風にどっと吹かれると、また膝をついてしまいました。

「ちきしょう……きついぞ」

 ゼンはあえぎながらつぶやきました。どうしようもなく寒くて、体全体が凍りつきそうに感じられます。

 それでも、ゼンはまた立ち上がりました。死にものぐるいで、また前に進みます。感じられるのはただ、自分の足が凍った雪を踏んでいく感触だけ。聞こえてくるのは、吠え狂う吹雪の音ばかりです。

 ひときわ強い風がゼンのフードをあおって、頭の後ろへ押しのけました。痛いほど冷たい風が、ゼンの髪を吹き乱し、顔と頭にまともに吹きつけてきます。けれども、ゼンはかまわずに歩き続けました。疲れ切って、フードをかぶり直すことさえ面倒な気分になっていたのです。

 やがて、ふと何か暖かいものが体に触れました。柔らかなものが、ふんわりとゼンの体を包んでいます。

 驚いて周りを見回すと、ゼンはいつの間にか雪の中に倒れていました。降り積もる雪が、まるで白い毛布のように、柔らかく暖かくゼンの体を包んでいます。

 なぁんだ、とゼンは考えました。雪の中ってのは、けっこう暖かいものなんじゃないか。これなら、吹雪がやむまで、こうしてじっとしているほうが利口だぞ。気持ちがいいな、最高だ!

 ゼンは雪の中で楽々と手足を伸ばしました。――伸ばしたつもりになりました。実際には、雪の中に倒れた体は、ほんのわずかも動きませんでした。

 風がうなり、雪は降り続きます。倒れたゼンの上に降り積もり、吹いてきた強い風にまたそれが吹き飛ばされていきます。雪は寒さに針のように鋭く凍りつき、風の中でこすれて砂嵐のような音を立てています。けれども、その音ももう、ゼンの耳には届きませんでした。

 幻のぬくもりの中で、ゼンは眠りに落ちていきました――。

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