北の大地の短い夜が明けました。ロキが言っていたとおり、たった二時間程度で太陽がまた地平線に姿を現してきます。
けれども、子どもたちは日の出には気がつきませんでした。トナカイのグーリーの背中の上で、ぐっすり眠っていたからです。トナカイは頭を上げて明るくなってきた大地を見渡すと、自分からまた北を目ざして進み始めました。始めは静かに、やがてスピードに乗ってくると蹄の音を高らかに響かせながら、グーリーは北へ北へと駆けていきます。子どもたちがやっと目を覚ましたとき、彼らはもう、ずいぶん先まで進んでいました。
グーリーに乗ったまま朝食をすませていると、ロキが行く手を見ながら言いました。
「変な雲が出てる。遠回りしてくよ」
言いながら、ちらっとゼンの方を振り返ります。また何か文句を言われるのではないかと考えたのです。
ところが、ゼンも進行方向を見ながら言いました。
「あれは雨雲だ。あの下は雨だな。迂回した方がいい」
ロキが意外そうにまともに振り返ってきました。
「反対しないの、ゼン兄ちゃん?」
とたんに、ゼンがじろりとにらみ返しました。
「馬鹿、俺は猟師だぞ。雲ぐらい読めるし、天候の変化を甘く見たら命取りになることだって充分わかってる。そら、とっととグーリーに進行方向を変えさせろ。また雪の下の川に落ちるのはごめんなんだろう?」
ひどくぶっきらぼうな言い方でしたが、それでも前日とは口調が全然違います。ロキは急いでグーリーに方向を変えさせましたが、けげんそうな顔で、またゼンを振り返ってきました。ゼンがそれに顔をしかめてみせると、ロキは目を丸くして、すぐに、イーッと顔をしかめ返します。
そんな二人の様子に、フルートとポチは密かに顔を見合わせていました。何がきっかけなのか、彼らにはわかりません。ゼンがロキに喧嘩腰なのも同じです。けれども、ゼンは確かに昨日までと態度が変わってきているようでした。
雪原を大きく迂回して走る彼らの右に、黒雲が近づいてきました。雲の下は真っ暗で、雪原が沈んだ灰色に染まっています。ポチがくんくんと空気の中をかいで言いました。
「ワン、雨の匂いがしますね。湿った風も吹いてきます。雲がこっちに流れてきそうですよ」
それを聞いてロキはさらに雲から遠ざかるようにグーリーを走らせました。やがて、雲が後ろに離れていきます。ほっとそれを振り返りながら、ロキが言いました。
「ホントに、北の大地はどうなっちゃうのかなぁ……。あっちこっちで雨が降ったり、暑い風が吹いたりして。こんなこと、今まで一度だってなかったのに。真夏に雪の表面が少し溶けることはあっても、こんなに地面の奥から根こそぎ溶けるようなことなんて、絶対になかったんだよ……」
心配そうな、困惑した顔でした。そんなロキは、本当に、年相応の頼りなげな少年に見えていました。
フルートは、ちょっと迷ってから、思い切って言いました。
「魔王の仕業なんだよ。そいつが北の大地を溶かそうとしてるんだ」
ロキは驚いたようにフルートを見ました。
「魔王? ……何、それ?」
「人間やすべてのものを憎んでいて、世界中の命を滅ぼして、世界を自分のものにしようと考えてる、悪魔みたいなやつさ。そいつは、北の大地の雪や氷を全部溶かして、津波や異常気象を起こして、世界中の命を奪おうとしてるんだ」
ロキはさらに驚いた顔になりました。
「なんでそんなことするのさ? そいつは誰なの?」
「魔王の正体はぼくらも知らない。ただ、本体はわかってる。デビルドラゴンっていう、悪そのものの怪物だよ。翼が四枚ある竜の姿をしているけど、本当の実体はない。影みたいな存在なんだ。そいつは、人の心の弱みにつけ込んで取り憑いてくる。そうすると、その人は魔王になって、世界を破滅させることだけを考えるようになるんだ――」
言いながら、フルートは背筋が思わず冷たくなってくるのを感じていました。フルートたちの心の奥深くに隠されていた醜いものを引きずり出し、闇の声で誘いかけて支配しようとしたデビルドラゴン。あそこで奴に屈したら、フルートたち自身が魔王にされたのは間違いありません。実体のない影の竜こそが、今まで戦ってきた中で一番恐ろしい敵だったと、フルートたちは感じているのでした。
ロキはしばらくの間、何も言いませんでした。つくづくとフルートたちを見つめると、やがて、口を開いて言いました。
「そいつが兄ちゃんたちの友だちをさらったわけ? そんなものすごいヤツに、兄ちゃんたちは向かっていってるの? 反対にやられちゃうんじゃないの?」
フルートは首を振って見せました。
「やられないよ。ぼくたちがやられてしまったら、魔王を止められる人がいなくなっちゃうからね」
「だけど、そんなこと言ったって……」
ロキはとまどったように口ごもり、考えながらことばを続けました。
「そいつって、すごく強いんだろう? それにかなうと思ってるの? 兄ちゃんたちはまだ子どもなのに――」
「うるせえな! 倒してみせるさ! 俺たちは金の石の勇者の一行なんだからな!」
とゼンが我慢できなくなって口をはさんできました。ロキはいっそう不思議そうな顔をしました。
「金の石の勇者の一行?」
そこで、フルートたちはこれまでのことをすべてロキに話しました。フルートが魔の森へ金の石を取りに行って、金の石の勇者に選ばれたところから始まって、ゼンやポチ、今はさらわれている女の子たちが仲間になり、数え切れないほどの敵やゴブリン魔王を倒し、さらに、魔王の本体であるデビルドラゴンと直接対決して、かろうじて生還した闇の声の戦いのことまで、延々と話して聞かせます。それは本当に長い物語でしたが、ロキはほとんど何も言わずに、ただずっと聞き続けていました。
フルートたちが北の峰で再会し、女の子たちを魔王の手に奪われて、この北の大地まで取り返しに来たところまで話して、長い長い思い出話はようやく終わりました。
ロキはまた、しばらくの間黙っていましたが、やがて、顔を上げると、こう尋ねてきました。
「それで……兄ちゃんたちは本当に魔王に勝つつもりでいるの? その金の石ってのは、敵に奪われて今はなくなってるんだろう? それでも大丈夫なの?」
「確かに、金の石はぼくたちをいつも守ってくれていた」
とフルートは答えました。
「でもね、魔王と戦うのは、ぼくたち自身なんだ。金の石がなくても、ぼくたちはやっぱり金の石の勇者の一行さ。魔王と対決して倒すのが、ぼくたちの役目なんだ」
ロキはまばたきをしました。なんとなく、フルートのことばに心の底から驚いているように見えます。少しの間、また考えてから、こう言います。
「魔王に勝つ自信はあるの? 兄ちゃんたち」
「ったく、くどいガキだな! 俺たちが勝つって言ってるだろうが! 勝つって言ったら、勝つに決まってんだよ。自信なんか関係ねえ!」
とまたゼンが乱暴に口をはさんできます。
すると、ロキがあきれた顔になりました。
「勝つって思っただけで勝てるんなら、誰も苦労しないじゃないか。兄ちゃんたちって、ものすごい自信過剰だなぁ」
「うるせえ! やっぱりくそ生意気なガキだな! 俺たちが自信過剰かどうか、そのうちに見せてやるよ!」
ゼンは腹を立てながら、背負っている弓と矢をちょっと揺すぶって見せました。フルートの方は、相変わらず穏やかな表情のまま答えます。
「どんなに無謀に見えたって、やるしかないんだよ。だって、魔王を倒さなかったら、ポポロたちも北の大地のトジー族も助けられないんだからね」
静かですが、きっぱりした口調でした。
ロキはまた、ひどく驚いた顔をしました。
「トジー族も? 本気で、おいらたちのことまで助けようと思ってるわけ?」
フルートはほほえんだままうなずきました。ゼンとポチも、一緒にうなずいています。
ロキは面食らったようにフルートたちを見つめ続けると、やがて目をそらして、つぶやくように言いました。
「兄ちゃんたちって、やっぱり変なヤツらだ……」
けれども、その口調は、あきれるというのともまた違った響きを帯びているようでした。
キタオオトナカイのグーリーは、雪原を走り続けていました。
どこまで行っても雪と氷と地平線の風景は変わりません。なだらかな丘と谷間が続き、時折、小高い山がかたわらを通り過ぎていきます。北の大地はもともとの岩の地面の上に雪が降り積もって、氷床と呼ばれる氷の地面を作っているので、下の地形がそのまま地表に現れているのです。
昼ご飯もとっくに食べ終わった子どもたちは、トナカイの背の上でまたうとうとしていました。今日は薄雲のかかった空が頭上に広がっています。雲を通して降りそそぐ日の光は弱くて、暖かいとまでは行きませんが、それでも、長い時間光を浴びていると、背中にほんのりとぬくもりを感じました。
すると、ふいにポチが頭を上げて、トナカイの蹄の音の中に何かを聞き分けるようなしぐさをしました。少しの間、じっと聞き耳を立ててから、寝ている子どもたちに声をかけます。
「ワン、何かが追いかけてきますよ。生き物です」
子どもたちはたちまち起き上がりました。緊張しながら後ろを振り返ります。
やがて、白一色の雪原に、いくつもの生き物が姿を現しました。雪と同じ白い色をしていますが、雪の上に落ちる影がその居場所を浮き上がらせます。
とたんに、後ろから風が吹いてきて、グーリーがピイ! と鋭い声を上げました。今までも充分速かったのですが、いっそう速度を増して走り出します。ポチが声を上げました。
「ワン、この匂いはオオカミだ! オオカミが後を追ってきますよ!」
「雪オオカミの群れだ!」
とロキが悲鳴を上げました。
「逃げろ、グーリー! 振り切るんだ!」
ロキの顔は真っ青でした。それを見て、ゼンが言いました。
「なんだ。全速力で走ってるグーリーに追いつけるような敵は、いないんじゃなかったのか?」
からかうような口調ですが、ロキはそれに憤慨する余裕もないようでした。青ざめたまま、しきりにグーリーを急がせます。
「あいつらだけは別なんだよ……! 雪オオカミはトナカイたちの天敵なんだ。追いつかれちゃうよ!」
その間にも、白いオオカミの群れはトナカイの後を追ってきました。雪原のあちらこちらから飛び出してきたオオカミが合流して、二十頭近い群れになります。ロキが言うとおり、本当に、グーリーとの間の距離を詰めてきます。ロキは手綱を握ったまま、必死でトナカイに叫び続けていました。
「走れ、グーリー! もっと早く走れ!」
けれども、オオカミたちはみるみるうちに追いついてきます。オオカミたちの走る速度の方が、全速力のトナカイより速いのです。鋭い目やひらめく牙が見えるようになり、犬のようなうなり声が聞こえ始めます。
フルートが黙ったまま、すらりと剣を抜きました。ゼンが背中から弓を下ろして矢をつがえ、ポチはトナカイの上に立ち上がって身構えます。オオカミたちはますます近づいてきます。
フルートたちは目を見合わせてうなずき合いました。ことばはいりません。自分がするべきことは、皆が充分承知していました。
「いくぞ!」
フルートが叫んだとたん、ポチが風の犬に変身し、ゼンの矢が音を立てて弓弦を飛び立ちました――。