出発の準備を整えると、トジー族の少年はフルートたちに呼びかけました。
「さ、グーリーに乗っていいよ。荷物を移して、座れるようにしたからさ」
キタオオトナカイは、背中までの高さが二メートルもある巨体です。さすがにそのままでは乗れなくてフルートたちがとまどっていると、少年が笑いました。
「こうやるんだよ」
トナカイの長い毛をつかみながら、ポンと後足の上のあたりをたたくと、トナカイが足を曲げて持ち上げます。そこを足がかりにして、少年は軽々と背中によじ上っていきました。そこで、フルート、ゼンも同じようにトナカイに上がりました。ポチはフルートの肩にしがみついて、一緒に上がっていきます。
トナカイの背中は、意外なほど大きくて広い場所でした。全体が五十センチ以上もある長い毛でおおわれています。羊毛のように柔らかな手触りの毛です。
「毛につかまっていいよ。グーリーは丈夫だから、しがみついても痛がらないから」
とロキが話します。トナカイの首の付け根に座っていて、手には赤い手綱を握りしめていました。
フルートたちはそれぞれにトナカイの背中に座りました。背中が広いので、またがるというより、本当に「座る」という感じです。暗い灰色の長い毛の中に下半身を埋め、目の前の毛につかまると、意外なくらい体が安定しました。長い毛が乗っている者たちを支えるのです。ポチでさえ、フルートたちに支えてもらわなくても、毛の中にもぐり込んで楽々と乗っていることができました。
「ワン、毛の中は暖かいですねぇ」
とポチが嬉しそうな声を上げました。トナカイの体温が伝わってきて、まるで暖炉を炊いた部屋の中にいるような心地よさでした。
「寒くなったらグーリーの毛の中に潜るといいよ。眠っても大丈夫だから」
とロキがまた言いました。自分のトナカイの話をするときには、何故だかとても得意そうな表情になります。そんな時のロキは、ひねた大人のようではなく、年相応の素直な子どもらしく見えました。
「さあ、行くよ」
と言って、ロキが手綱を振りました。とたんに、トナカイは走り出しました。蹄の音が雪原の上に響き始めます――。
フルートたちはびっくりしました。牛の何倍もある巨大なトナカイですが、意外なくらい速いのです。冷たい風が彼らの耳元でうなり、景色が飛ぶように後ろへ過ぎていきます。雪がゆるんでできたくぼみを次々に飛び越えて、どんどん前へ進んでいきます。
「行け、グーリー! もう穴に落ちるなよ!」
とロキがトナカイに声をかけていました。いかにも楽しそうな、笑うような声です。ふと、その声にフルートは懐かしい響きを聞きました。
フルートが住むシルの町は、郊外に牧場がいくつもあって、馬や牛がたくさん飼われています。牧場の子どもたちは小さな頃から馬の世話をしてきていて、自分の馬に話しかけるときには、本当の友達に話すような口調になります。フルート自身もそうです。ロキがトナカイに話しかける声は、そんなシルの町の子どもたちの口調によく似ていたのでした。
「グーリーって何歳なの? ずっと飼ってるのかい?」
とフルートが話しかけると、ロキが振り返りました。
「十五歳だよ。おいらが生まれる前からいるんだ。力は強いし、足は速いし、最高のヤツなんだぜ」
やっぱり、ロキは自分のトナカイの話をするときには得意そうな様子になります。それがいかにも子どもらしく素直に感じられて、フルートは思わずにっこりしました。
「頼りになるね、グーリーは」
と言うと、とたんに、ヒホーン、とトナカイが鳴きました。
ロキが笑いました。
「グーリーが、ありがとうってさ」
フルートは思わず目を丸くしました。
「グーリーって、人のことばがわかるの?」
「全部じゃないけど、簡単なことなら理解するよ。おいらの言うことなら、かなりわかる。誉めことばは特によくわかるのさ」
と言って、ロキはまた笑いました。本当に子どもらしい、無邪気な笑顔でした。
けれども、楽しそうに話すロキとフルートの後ろで、ゼンはむっつりと黙っているだけでした。その目は油断なくトジー族の少年を眺め続けています。やがて、ゼンは体をかがめると、トナカイの毛の中にぬくぬくと収まっている子犬に話しかけました。
「おいポチ、おまえは匂いでそいつが何を考えてるかわかるだろう? あいつからはどんな匂いがしてる?」
子犬は首をかしげるようにしてゼンを見上げました。ちょっととまどったような顔をしています。
「ワン、ぼくもさっきからずっと様子を探ってるんですけどね……全然怪しい匂いがしないんですよ。確かに、フルートやゼンほど気持ちのいい匂いはしないんだけど、でも、悪いことを考えているような匂いが全然してこないんです」
それを聞いて、ゼンは不満そうに口をとがらせました。絶対にあの少年は怪しいと思うのに尻尾がつかめない。そんな感じです。
すると、ポチが黒い目を少年に向けて続けました。
「悪い匂いはしてこないんだけど、でも、あの子、何か隠しているような気はしますね。それが何かはわからないんだけど、きっと、何かあるんだと思いますよ……」
ちっ、とゼンは短く舌打ちしました。いまいましくてたまりません。どうにも信用のならないトジー族の少年。なのに、フルートは全面的に信じてしまっているのです。それがなんとも危険に思えて、ゼンは腹が立ってなりませんでした。本当に、自分自身の危険には無頓着な親友なのです。
それってぇのも、おまえらのせいなんだぞ! とゼンは心の中で少女たちに文句を言いました。おまえらが魔王にさらわれたりしやがるから……!
ところが、とたんに、鋭い少女の声が言い返してきました。
「あたいたちだって、好きでさらわれたりしたわけじゃないよ! だいたい、あんたたちが状況を甘く見てたから、こんな羽目になったんじゃないのさ! あんたたちのせいだよ!」
メールの声です。ゼンはびっくりしてあたりを見回しました。
――誰もいません。
自分たち以外には人影もない雪原を、キタオオトナカイが風のように走っています。耳の良い子犬も、また毛の中にもぐり込んで目を閉じていて、メールの声が聞こえた様子はありません。空耳だったのです。
ゼンは苦笑いをして空を見上げました。俺たちのせいかぁ……と心でつぶやきます。まったくその通りで、反論の余地はありませんでした。
無事でいろよ、とゼンは願いました。フルートが言っていたとおり、彼らは一刻も早く少女たちの元へ駆けつけなくてはならないのです。どんなに気にくわなくても、今はこのトジー族の少年を信用して、サイカ山脈まで連れて行ってもらわなくてはならないのでした。
雪原はどこまでも続いていました。いつしか風はまた冷え切って、雪の大地がトナカイの蹄の下で固い音をたてています。地平線から地吹雪が近づいてくるのが見えます。
目ざす最果ての山脈は、地吹雪の遠い彼方でした――。