雪の丘を越えたとたん、少年たちの耳を激しい水音が打ちました。雪原の中を、雪解け水を集めた川が流れていたのです。川は雪原を深くえぐり、どんどん雪を溶かしながら、やがて雪原の下にもぐり込んでいきます。水が雪の中に飲み込まれていくあたりは、地下に続く深いトンネルのようになっていました。
そのトンネルの上を知らずに踏み抜いてしまったのでしょう。一頭の獣が大きな穴に今に落ち込みそうになっていました。枝分かれした大きな角の、鹿のような生き物です。穴の中からは、激しい水音が聞こえ続けています。川が伏流になって、雪の下を流れ続けているのです。獣は三メートル近い巨体ですが、もしも穴に落ちれば、雪解け水の激流があっという間に獣を飲み込んで、雪の下深くへ運び去ってしまうに違いありませんでした。
その獣の背中に一人の子どもが乗っていました。小柄な少年です。白い毛皮の服を着込んでいて、獣の首にしがみつきながら、死にものぐるいで呼びかけていました。
「がんばれ! がんばれったら、グーリー! 落ちるな――!」
鹿に似た獣の体には大きな荷物がいくつもくくりつけてあります。ちょうどフルートたちが馬に荷物をつけて移動するように、少年はその生き物に乗って雪原を移動していて、伏流の上の雪を踏み抜いてしまったのです。
ザザザッと音をたてて、伏流の上の雪が大きく崩れました。獣とその上の少年が穴の中に落ちていきそうになります。
ヒィホホーン……!
獣がラッパのような鳴き声を上げて雪の塊を蹴り、また雪の壁に飛びつきました。必死で穴からはい上がろうとしますが、雪は脚の下で崩れ続けています。小さな少年は、もう声も出せなくなって、ただただ獣の首に固くしがみついていました。
「ポチ!」
とフルートは即座に呼びかけました。
「ワン!」
ポチが一声吠えて、たちまち風の犬に変身します。その背中にゼンが飛び乗りました。
「こういうのは俺の出番だ。任せろ」
あっという間に雪原の穴まで飛んでいくと、ゼンは両腕を伸ばし、落ち込みそうになっている獣を下からがっしりと受け止めました。風の犬のポチが反動で大きく押されます。
「踏ん張れ、ポチ!」
とゼンがどなりながら、ぐっと腕に力をこめました。ポチも、ごうごうと風の音をたてながら懸命にそれを支えます。
すると、獣の体が穴の上に向かって動き出しました。牛の数倍もある巨大な獣です。その体重もトン単位に違いないのですが、怪力のゼンはじりじりと持ち上げて、穴の縁へと押し戻していきます。
獣の背中の少年が、信じられないようにそれを見ていました。
「だ、誰……?」
灰色の瞳の、まだあどけない顔つきの少年です。ゼンは、にやりと笑い返してみせました。
「正義の味方だよ」
とたんに、少年の目がまん丸になりました。
「そぉらよっ!」
ゼンがかけ声と共に獣を穴の上に押し戻しました。蹄のついた脚がしっかりと雪の上に立ちます。重い荷物を持ち上げたはずのゼンは、息一つ切らしていませんでした。
灰色の瞳の少年は、信じられない顔をしたまま、ゼンや風の犬のポチ、駆け寄ってくるフルートを見回していました。驚きのあまり声も出せないようでした。その様子に、ゼンは、ふふん、と笑うと、ポチと一緒にフルートの方へ飛び戻っていきました。
その時、フルートが叫びました。
「危ないっ!」
穴から離れようと歩き出した獣のすぐ近くで、また雪が崩れたのです。あっという間に雪が落ち込んで、先の穴までつながっていきます。獣は鋭い声を上げて大きく飛びのきました。穴に落ちるより早く、安全な場所へ飛び移ります。ところが、その拍子に背中の少年がバランスを崩し、もんどり打って雪の上へ落ちてしまいました。
「わぁぁっ!」
少年は悲鳴を上げました。小さな体が雪の穴へ滑り落ちていきます。途中で止まろうにも、しがみつく場所がどこにもありません。
とたんに、フルートが飛び出しました。みるみるうちに崩れていく穴に飛び込み、斜面を走って少年まで駆け寄ると、腕の中に抱きかかえます。年齢の割にとても小柄なフルートですが、少年はそれよりもっと小柄です。抱いたまま、また一気に雪の坂を駆け上がろうとします。
すると、今度はフルートの足下で雪が崩れました。二人分の重みが雪を踏み抜いたのです。フルートはとっさに雪を蹴ると、少年ごと横へ飛びました。倒れ込んだ体の下で、さらにぐずぐずと雪が崩れ続けます。フルートたちは、アリ地獄に落ち込んだアリのように、崩れ落ちる雪の穴の中へ滑り落ちていきそうになりました。
「助けて――!」
少年がまた悲鳴を上げてフルートにしがみついてきました。フルートは、それを強く抱き直すと、もう一方の手で背中のロングソードを抜きました。力任せに刀身を雪の斜面に突き立てると、そのまま剣にしがみつきます。
とたんに、彼らの体の下の雪が完全に崩れ落ちました。フルートは少年を抱いたまま、穴の中に宙ぶらりんになりました。彼らの下には暗がりが広がっていて、ごうごうと激しく流れる水音が聞こえてきます。剣は崩れ残った雪の壁に深く突き刺さっていますが、それが抜け落ちれば、フルートも少年も流れに飲み込まれて一巻の終わりです。
フルートは顔を上げると、穴の外に向かって声を張り上げました。
「ゼン! ポチ――!」
「おう!」
「ワン!」
すぐ近くから返事があって、穴の中にポチに乗ったゼンが飛び込んできました。あっという間にゼンがフルートの腕をつかみ、少年ごとポチの背中に引き上げてしまいます。ついでに、雪の壁からフルートの剣も引き抜きます。
とたんに、雪の壁が一気に崩れ落ちました。
雪原が音と雪煙を上げて次々に陥没していき、その後に深く長い川が現れます。川は雪原の低い場所をくねりながら走り、川岸の雪の壁をさらに崩していきます。雪が崩れ落ちるたびに川は激しい音と水しぶきを立て、あっという間に、雪の塊を川下に押し流してしまいます。
その光景に、フルートとゼンは思わず冷や汗をかきました。雪と氷で作られた北の大地。そこが暖かくなって雪が溶け出すというのがどういうことなのかを、目の当たりにしたのです。この中を歩いて渡っていくことなど、できるはずがありませんでした。
すると、フルートの後ろで呆然としていた少年が、ふいに我に返ったように身を乗り出しました。
「グーリー! グーリーは……!?」
と、自分が乗っていた獣の名前を呼びます。
フルートは、川から少し離れた丘の上を指さしました。
「きみの鹿はあそこさ。無事だよ」
と少年を振り返ったとたん、二本の長いものに顔が当たりそうになります。それが、茶色い毛が生えたウサギの耳だったので、フルートはびっくりしました。長い耳は、毛皮のフードをかぶった少年の頭の両側から、にょっきり突き出しています。フードの飾りなどではありません。本物の、生きた耳です。
少年の方も、フルートの顔を間近で見て驚いていました。灰色の目をまん丸にして、まじまじと見つめてきます。
「耳がない……! あんたたち、ムジラか!」
ムジラ、ということばの響きが、フルートには「よそ者」と言っているように聞こえました。フルートがとまどってゼンを振り返ると、ゼンが肩をすくめて言いました。
「トジー族のトジーってのは、ウサギの耳の民っていう意味なんだ。ウサギみたいに長い耳をして、どんな遠くの敵や吹雪の音も聞き逃さないんだとよ。じいちゃんが言ってた」
すると、少年がわめき出しました。
「なんでムジラがおいらを助けるんだよ!? そんなの変じゃないか!」
まるで、フルートたちが助けたことを責めるような口調です。ゼンがあきれた顔になりました。
「どこが変だよ。ほっときゃ川に落ちて死ぬとこだったんだ。助けるのはあたりまえだろうが」
「危ないときには、人間もトジー族も関係ないよ。無事でよかったね」
とフルートも少年にほほえみかけました。言いながら、北の大地のはずれの滝から海へ落ちていったトジー族の人影を思い出します。助けられなかった、見知らぬ誰か。けれども、今度はフルートたちも間に合ったのです。
トジー族の少年は、面食らったように口をつぐむと、じろじろとフルートたちを見つめてきました。どう見てもフルートたちより幼いのですが、まるで疑い深い大人のような顔つきをしています。
その様子に、ゼンが不機嫌な顔になりました。
「ったく、ガキのくせにひねくれたヤツだな。こういう時に言うことは決まってるだろうが。素直に言ったらどうだ」
すると、少年は、ああ、とうなずきました。相変わらず探るような目でフルートたちを見ながら、こう言います。
「それで――? 助けたお礼にいくらほしいのさ?」
少年の声は大真面目でした。フルートもゼンも、彼らを乗せているポチも、思わずぽかんとウサギの耳の少年を見つめてしまいました。