谷川でホタルを見た翌日、ゼンは早朝に目を覚ましました。猟師小屋の中はまだ薄暗く、毛皮を敷いた床の上で仲間たちが毛布にくるまって眠り続けています。夏だというのに小屋の中はいやに冷え込んでいました。少女たちはひとかたまりになって眠っていますし、フルートもポチを腕の中に抱きかかえています。肌寒さに、寝ながら自然と寄り添い合っていったのです。
ゼンは入り口の方へ顔を向けました。外からひそやかな足音が近づいていました。その気配で目が覚めたのです。しばらくじっと聞き耳を立てた後、ゼンは静かに立ち上がって外に出ていきました。弓矢や刀は小屋の中に置きっぱなしです。
外に出たとたん、肌を刺すように冷たい空気がゼンの体を包みました。うっすらと息が白くなります。北の峰は標高が高いので夏でも涼しいのですが、それにしても珍しい冷え込み方です。隣の山の端から顔をのぞかせた太陽が、夜明けの光を森の中へ真横から投げ込んできて、冷えた空気の中に微妙な光の陰影を浮かび上がらせています……。
森の奥から草を踏んで一人のドワーフが姿を現しました。背は低いものの、顔中を茶色のひげでおおわれた、たくましい男です。厚手の布の服の上に毛皮のベストを着込み、背中に弓と矢を入れた矢筒を背負って、猟師の格好をしています。
「親父」
とゼンが言いました。ゼンの父親のビョールだったのです。
ビョールは黙ってゼンの目の前まで来ると、手に下げてきたものをどさりと足下に投げました。死んだ二匹の野ウサギで、内臓をきれいに取り除いて、足のところを細いロープでくくってあります。
「捕って五日目のヤツだから食べ頃だぞ」
とぶっきらぼうに言います。子どもたちに差し入れに来てくれたのでした。
「おっ、すげえ!」
とゼンはウサギにかがみ込みました。よく太って脂がのっています。焼き肉がいいか、それともシチューにしようか、とゼンはさっそく考え始めました。
すると、ビョールは猟師小屋を見ながら息子に尋ねました。
「どうだ?」
たったそれだけですが、ゼンには父親の聞きたいことがわかりました。
「みんな北の峰が気に入ったみたいだぜ。昨夜はホタルに大感激してた。ただ、途中で急に冷たい風が吹いてきて、ホタルがみんないなくなっちまったんだ」
「風が吹いたのはホタル谷だけじゃない」
とゼンの父親は言いました。
「北の山脈全体が、昨日の夜からまるで秋になったようだ。山頂では雪が降り出してるぞ。いくらなんでも、七月に雪が降るなんてことは、ここ百年間一度もなかったことだ」
ゼンは肩をすくめました。立ち上がると、父親よりも少しだけ背が高くなります。
「フルートが言ってたんだけど、シルの町のあたりでは逆に猛暑らしいぜ。雨が全然降らなくて、何もかも日干しになってるって。なのに、北の山脈は今年はやたらと寒いだろ。なんでこんなに違うんだろうな?」
「それこそ風のせいだ。北から、今までなかったような寒い風が吹き込んでくるんだ。いつもなら冷たい海のあたりを吹いているはずなのに、今年に限って、北の山脈まで吹きつけてくる。まったくおかしな夏だ」
とビョールは答えました。ただでさえ低い声がいっそう低くなって、うなり声のようになっていました。
横から差し込む朝日は次第に強くなって、森の中が次第に明るくなってきました。鳥がさえずり出します。ところが、その声もいつもの朝に比べると、ずっと数が少ないのでした。
「鳥たちがふもとへ下りた」
とゼンの父親は続けました。
「隣の赤峰のカエデは一晩で紅葉したぞ。どう考えても普通じゃない。しかも、変な生き物が目撃されている」
「変な生き物?」
ゼンは驚きました。
「黒のガンザが昨日、赤峰の上空を旋回しているのを見かけたんだ。鳥のようだが鳥ではなかったらしい。北の山脈では今まで見かけたこともないような奴だ」
「怪物か?」
「わからん。だが、普通でないことがこう続くのは、どうにも気に食わんな――」
そこまでビョールが言ったとき、突然、猟師小屋から少年の声がしました。
「ゼン! ゼン、見てよ――!」
フルートでした。手に何かを握りしめて入り口から飛び出してきます。が、外にゼンの父親が立っているのを見ると、すぐに立ち止まって目を丸くしました。
「おじさん……!」
「久しぶりだな、フルート。大きくなった」
ビョールは余計なことばはいっさい言いません。けれども、ひげだらけの顔の奥からフルートを見つめる目は、意外なくらい暖かい光を浮かべていました。少年もにっこり笑い返しました。フルートは、黒い霧の沼の戦いの時にゼンたち父子と出会い、ゼンの父親にもいろいろと助けてもらったのです。
「ご無沙汰してました。でも、ぼくに『大きくなった』って言ってくれるのは、おじさんくらいですよ。ぼくは学校の同級生の中では一番小さいんです」
と苦笑いして見せます。すると、ゼンがにやりとしてその肩に肘を置きました。
「かまわないから、ずっとそのままでいろ。俺が追い抜いてやるからさ」
「ゼン!」
フルートは思わずムッとしました。しばらく前から、この二人は互いの身長を抜いた抜かないで競い合っているのです。人間の血を引いていて、ドワーフの中では群を抜いて背が高いゼンと、人間の少年にしてはとても小柄なフルート。二人の身長は、今、本当にまったく同じになっています。人間のフルートとしては、あまり心穏やかではないのでした。
すると、ゼンがひとしきり笑ってから、真面目な顔と声に変わりました。
「で、どうした? 何かあったのか?」
とたんにフルートも真顔に戻りました。
「これさ。見てよ」
と握りしめていた右手を開いて見せます。そこにはフルートのペンダントがありました。花と草をすかし彫りにした真ん中に、魔法の石がはめ込まれています。その石は金色に輝いていました――。
ゼンはびっくりしました。
「石が目覚めてる? まさか!」
昨日、フルートが到着したとき、ゼンはペンダントを見せてもらっていました。あのときには、石は眠っていて、何の変哲もない灰色の石ころのようだったのです。
「昨夜、ホタルが集まってきたときに、一度だけ石が鳴ったのを聞いたような気がしたんだ……。たぶん、あのときに目覚めて呼んでいたんだと思う」
そう言うフルートの顔は、驚くほど厳しい表情になっていました。魔法の金の石が目覚めて金色に変わったとき、石は勇者を呼ぶのです。世界に迫ってくる闇の敵と戦うために――。
すると、ビョールが子どもたちと一緒に石をのぞき込んで言いました。
「ここにもまた凶兆か。何かが起きるな。用心しろよ」
すると、ゼンが急に吹き出しました。
「親父、そりゃ無理ってもんだぜ。用心なんかしてられるか。フルートは金の石の勇者だし、俺たちはその仲間だもんな。俺たちの方で、闇をぶっ飛ばしに駆けつけなくちゃならないんだよ」
な? とのぞき込んできたゼンに、フルートは思わず笑い返しました。どんなに危険が迫っても、絶対に陽気さを失わない友人が、何より頼もしく感じられます……。
すると、そこへ小屋の扉がまた開いて、ポチと少女たちが顔をのぞかせました。実は、ポチはフルートがゼンを連れてくるのを小屋の中で待っていたのですが、外に少年たち以外の人の声を聞きつけたので、少女たちを起こして扉を開けてもらったのでした。
ビョールの顔を一目見たとたん、ポチが声を上げました。
「ワン! ゼンのお父さんですね!?」
えっ、と少女たちが驚いて、まじまじとビョールとゼンを見比べました。彼らがゼンの父親に会うのは初めてのことです。ポチは尻尾を振りながら外に飛び出してきて頭を下げました。
「初めまして。ぼく、ポチといいます! お会いできて嬉しいです!」
さすがにゼンの父親は、犬が人のことばを話しても少しも驚きませんでした。子どもたちに向かってうなずき返します。
「俺の方では全員がわかっているぞ。ポチ、メール、ポポロ、ルルだ。ゼンから、いやというほど話は聞かされているからな」
相変わらず、そっけないほどの口調ですが、ひげと眉毛の奥の瞳が優しく子どもたちを見つめていました。
メールが小屋の外に出ながら、あきれたような声を上げました。
「ふわぁ、びっくり……! ゼンってお父さんにそっくりなんじゃないのさ!」
ドワーフの父子はちょっと驚いた顔になりました。
「そんなに似てるか? 俺の方が髪の色も目の色も黒いし、似てるなんて滅多に言われたことがないんだけどなぁ」
とゼンが言えば、ビョールもうなずきました。
「海の王女はドワーフをあまり見たことがないからだろう。ドワーフはみんな、こんな感じだぞ」
すると、メールは首を振りました。
「顔や姿のことじゃないよ。雰囲気さ。なんか、二人とも本当にそっくりだよ」
そして、メールはまだ戸口のところに半分隠れるようにしていた黒衣の少女を振り返りました。
「出といでよ、ポポロ。大丈夫、心配ない。怖そうに見えるけど優しい人なんだよ」
あまりにもあけすけな言い方に、ドワーフの父子は同時に吹き出してしまいました。
「なるほど、ゼンの話していたとおりだ。海の王女は本当に物怖じせんな!」
「ってことは、俺も親父と同じで、怖そうに見えるけど本当は優しいヤツだ、ってことかぁ?」
とゼンが笑いながらメールに聞き返します。メールは肩をすくめて見せました。
「あたいはそう思ってるけど? 違う?」
てっきり悪口を返されると思っていたゼンは、思いがけず真っ正面から肯定されて、笑いを飲み込みました。うろたえて赤くなってしまいます。
「ば、馬鹿やろ、なにマジで言ってやがんだよ……」
と口の中でつぶやきます。
そんな息子を、ビョールは面白そうに横目で眺めました。
「ねえ、さっき、あなたたち『用心しろ』って話していたわよね。なんのこと?」
とルルがフルートの足下に歩み寄って尋ねてきました。耳の良い犬は、小屋の外でのやりとりを聞きつけていたのです。
すると、フルートはなんでもなさそうな顔と声になって答えました。
「寒くなってるからね。風邪をひかないように用心しろ、って言われてたんだよ」
とたんにゼンと父親が目を丸くしましたが、フルートはすましたまま、そっとペンダントを上着の内側へすべり込ませてしまいました。あまりに静かで自然な動きだったので、少女たちは誰ひとりとしてペンダントの石が目覚めていることに気がつきませんでした。
ゼンが、まったくこいつは、という顔をして肩をすくめました。なんとなく要領を得ない顔をしている少女たちに呼びかけます。
「来いよ。朝食の支度にかかろう。親父がウサギを持ってきてくれたんだ。朝からまたご馳走だぜ――」
片手にウサギをぶら下げて、先に立って猟師小屋に戻っていきます。少女たちはあわててその後についていきましたが、ポポロとメールは、最後にゼンの父親に一礼してから小屋に入っていきました。後にはフルートとポチ、そしてゼンの父親だけが残ります。
すると、ポチがフルートを見上げました。
「ワン、金の石が目覚めたことを、メールやポポロたちには教えないんですか?」
教えた方がいいのに、という子犬の気持ちが暗に伝わってきます。フルートは苦笑いしてうなずきました。
「言うよ……何が起きてくるのか、もう少しはっきりしたらね」
それを聞いて、ゼンの父親が腕組みしました。
「何故だ? 早く教えて準備を整えた方がいいだろう。それとも、女には心配させたくないとでも考えているのか?」
すると、フルートはまた笑いました。今度は少し恥ずかしそうなほほえみでした。たった今まで大人びていた顔が、急に少年の表情に戻ります。
「そういうのも、ないことはないんですけど……本当のところは、ただわがままを言ってるだけなんです。ぼくが」
「わがまま?」
ゼンの父親が意外そうに聞き返します。フルートはうなずいて、仲間たちが入っていった猟師小屋を眺めました。
「金の石が目覚めたからには、もうすぐまた闇との戦いが始まります。きっとまた、激しい戦いになるんだ……。せっかくこうしてみんなで集まったのに。だから……せめて、闇が姿を現すまでは、ほんのちょっとだけでもみんなと楽しみたいなぁ、って……」
そして、フルートは目を伏せました。横顔にはかない微笑が漂い続けています。それはひどく淋しげな笑顔でした。
そんな少年を見て、ゼンの父親は重々しく口を開きました。
「死ぬなよ、フルート」
フルートは驚いたように顔を上げると、すぐにもっと明るい笑顔になりました。
「もちろん、死ぬ気なんてありません。ゼンたちのことだって、絶対に死なせたりしません。ただ、せっかくの夏休みが惜しいだけなんです」
ゼンの父親は声を上げて笑うと、ばん、とフルートの背中をたたきました。ドワーフの怪力に、フルートは思わず息が詰まりそうになりました。
「おまえらに、山の神と大地の女神の守護があらんことを!」
ゼンの父親は、太い声でそう祈ってくれました。