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第5巻「北の大地の戦い」

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5.谷川

 ゼンが仲間たちを案内したのは、山の谷間を流れる川でした。もうだいぶ暗くなった景色の中で、岩にぶつかって泡立ちながら流れていく川の水が、ぼんやりと白く浮かび上がって見えます。岸辺には幅の狭い河原が延びていて、ところどころに藪が黒くうずくまっています。水が岩に当たり、渦巻きながら流れていく音が、谷間に響いていました。

「ここ……?」

 不思議そうにポポロがゼンを見上げました。取り立てて変わったものもなさそうな谷川です。ゼンは薄暗がりの中で笑い返しました。

「そうだ。もうちょっとだけ待てって。完全に暗くなるまでな……そうすりゃわかるから」

 川の両脇には険しい山肌が迫っていました。さっきメールが墜落しかけたのと同じ崖です。下から見上げると、岩壁は真っ黒にそそり立っていて、何十メートルもの高さまで続いています。メールは海の民の血を引いているので、川に落ちても溺れることはありませんが、それでも、この高さから落ちたら絶対無事ではすまなかったでしょう。緑の髪の少女は、黙って崖を見ながら、改めて心の中で冷や汗をかいていました。

 フルートは山の間の狭い空間にのぞく夜空を見上げていました。大小の星がまたたいていますが、月はありません。次第に暗く黒くなっていく空で、次第に星が輝きを増して、谷間に星明かりを投げかけてきます――。

 

 すると、ひときわ明るい金の星が、すうっと横に流れました。

 フルートは目を丸くしました。流れ星にしては妙な動きです。揺れながら光の筋を描いて空を横切ると、ふっと消えていきます。

 と、空のまた別の場所で、同じような金の光が動きました。先の星とは別の方向へ、輝きながら流れていきます――

 とたんに、メールの声が響きました。

「ちょっと! なんなのさ、これ!?」

 川辺のいたるところで、金の星が輝き出していました。空で、対岸で、こちらの岸辺で、川の上で、藪の中で小さな光がわき起こったと思うと、そのまま宙を飛んで、やがてまた見えなくなっていきます。その光り方も、飛んでいく方向も、まるで不規則です。星などではありません。フルートは驚いて、立ちつくしたまま、飛びかう光を見回してしまいました。

 すると、ポチが口を開きました。

「ワン、ホタルだ……! こんなにたくさん!」

「ホタル?」

 メールがびっくりしたように聞き返したので、ゼンが笑いました。

「なんだ、おまえもホタルを見たことがなかったのかよ。フルートは荒野のど真ん中に住んでるから、絶対に知らないだろうと思ったんだけどな。ホタルってのは虫だぜ。森の中の川辺にいて、夏の初めにこうやって光りながら空を飛ぶんだ。おまえの島にも川や森はあるから、ホタルはいるんだろうと思ったのに」

 メールは首を横に振りました。

「初めて見たよ……。川に棲む虫? あたいの島は海の真ん中にあるからね。ホタルには棲みにくいのかもしれないね」

「天空の国にはホタルはいるわよ」

 とルルが言いましたが、その目は、他の仲間たちと同じように、空を飛ぶ光を見上げ続けていました。

「だけど、こんなにたくさんの数を見るのは、やっぱり初めて。すごいわね、ポポロ」

「うん。すごく綺麗!」

 ポポロもきょろきょろと空を見上げながら、嬉しそうな声を上げました。金に輝く虫はますます数を増し、谷川の上は群れ飛ぶ光でいっぱいになってきました。何千何万という金の星が、暗がりの中で光っては吸い込まれるように消えることを繰り返しています。やがて、その点滅が次第にそろい始め、闇のそこここで、何十匹ものホタルがいっせいに光っては消えるようになります。

「すごい……!」

 子どもたちはまた歓声を上げました。

 へへっ、とゼンは得意そうに笑いました。

「この川には毎年ホタルがたくさん飛ぶんだ。北の山脈の中でも、ここくらいホタルの数が多い場所は他にないんだぜ。一度おまえらにも見せたかったんだけど、今年はなかなか暑くならなかったから、数が増えなくてよ。昨日あたりから、やっとまともに飛ぶようになったんだ。涼しくなると、とたんにまた光らなくなるからな。あわてておまえらを呼んだってわけさ」

 なるほど、と仲間たちは納得しました。

 

 ホタルは谷川の上や岸辺を飛び回っていました。金の光が筋を描いて動く様子は、本当に、たくさんの流れ星が地上に迷い込んできたようです。暗闇の中では、意外なくらい強く明るく見えます。

 メールが、はぁ、と溜息をつきました。

「ホントに綺麗だねぇ……。この森といい、北の峰ってすっごくいいとこだ」

 それを聞きつけて、ゼンがまた得意そうな声になりました。

「わかるか、メール? そうとも、北の峰は最高なんだぜ」

 メールは、そんなゼンを見て、にっこりしました。星明かりとホタルの光の中で、お互いの表情がぼんやりと見えています。

「感じるよ。この森はすごく力強い。父上の島の森ともまた違うね。ここは強くて厳しくて――そして、すごく深いんだ。奥深いところに、こんな綺麗なものや素敵なものを隠してる。優しい顔は見せないかもしれないけど、本当は、ものすごく優しくて暖かいんだね」

 ゼンは面食らったようにメールを見つめました。北の峰の森をそんなふうに言ってくれた人は初めてでした。まるで自分自身を誉められたように、思わず暗がりの中で赤くなってしまいます。

 けれども、メールはそれには気がつかないまま、またホタルを見て、そっと手を差し伸べました。普段はあれほどおてんばで元気な彼女が、自然に対してはひそやかに動きます。その手の周りをホタルが飛び回っていきます。

 メールは、ふふっと小さな笑いをもらして、またゼンを見ました。

「今度はあたいがあんたたちを招待しようか。海には夜光虫ってのがいて、波の上で光るんだよ。まだ見たことなかっただろ? あれも幻想的で綺麗なんだ」

「波の上のホタルか」

 とゼンはうなずきました。その眺めを見てみたい、と素直に考えます。

 飛び回るホタルの群れの中、二人の自然児たちは、飽きることなくそれぞれの故郷の話を続けました……。

 

 フルートは一人でホタルを見上げていました。入り乱れるように光が飛び回り、点滅する様は、本当に不思議な眺めです。美しくて華やかで、同時に、どこか淋しげな光景にも見えます。

 すると、唐突に、昔聞いたホタルの話が記憶の中に甦ってきました。ゼンが言ったとおり、故郷のシルの町にホタルはいません。けれども、雨宿りのために一晩泊まっていった通りすがりの旅人が、こんな話を聞かせてくれたことがあったのです。

「水の綺麗な川辺にはな、夏になると、ホタルという虫が飛ぶことがあるんだ……。こいつは不思議な虫で、自分で光ったり消えたりしながら空を飛ぶ。本当に、一晩中、光り続けるんだ……」

「どうしてホタルは光るの?」

 まだ幼かったフルートは旅人に尋ねました。光を放つ虫、というものを見たことがなかったので、強く興味を引かれていました。

「それはな、罪の許しのためよ」

 と旅人が答えました。何故だか、声を潜めて、大事な話をするような口調になります。

「ホタルというのはな、罪を犯して天国に行けなかったヤツらの魂が、虫になったものなんだ……。そいつらは、自分の罪を消してからでなければ天国には入れない。でな……一千万回の一万倍だけ、自分の体を光らせると、ホタルの体は燃え出して、それと一緒に罪も燃えるんだな。すると、晴れて魂は天国に行けるようになる。それで、ホタルたちは必死で光るんだ。早く罪を燃やしてしまいたくてな……」

 名前も覚えていない旅人は、ひどく厳かな声でそう言ったのです。

 今となっては、フルートにも、それが単なる言い伝えだとわかっていました。飛びかうホタルたちは、近くの仲間とほとんど同じ周期で光を放っています。お互いの存在を確かめて、光で呼び合っているのでしょう。決して、自分の罪を悔い改めているわけではありません。けれども、一瞬強く輝くと、闇の中に溶けて消えていく小さな虫たちは、自分自身の命を闇の中に光で刻みつけているようにも見えました。はかない光の乱舞は、美しければ美しいほど、同時にとても淋しく感じられます。

 すると――じっと立ちつくす少年を立木か何かと勘違いしたのか、一匹のホタルがフルートの手の甲にとまりって光り出しました。まったく熱を感じない澄んだ光です。フルートは身じろぎもせず、息さえこらして、ただそれを見つめ続けました。

 

 フルートから少し離れたところには、ポポロが立っていました。暗い夜の中で、少女の黒い衣は星明かりとホタルの光を返して、星のようなまたたきを放っています。星空の衣と呼ばれる魔法の服なのです。おさげに結った髪も、ほのかに赤く光り輝いています。闇の中にあってもなお、不思議な存在感のある少女でした。

 ポポロがさっきからずっと見つめていたのは、ホタルではなくフルートでした。久しぶりに再会して、積もる話もあったような気がするのに、どうしてだか、話しかける勇気が出ないのです。

 優しい優しいフルートです。ポポロが話しかけても迷惑がったりしないのはわかっていましたが、なんとなく――そう、なんとなく、さっきフルートがメールを崖の上で助けた場面が目の前をちらついて、そのたびにポポロはためらってしまっていました。たった一言、フルートの名を呼べば、こちらを振り向いて「なに?」と聞いてくれるのに違いないのに、その一言がどうしても声になりません。フルートからほんのふた足くらいのところで、ポポロは泣きそうな目になって立ちつくしていました……。

 

 そして、そんな少年と少女を、さらに少し離れた場所から、二匹の犬が眺めていました。

「ほんとにもう、ポポロったら! じれったいったらありゃしないわ!」

 とルルが言っていました。いらいらした口調ですが、他の子たちに聞こえないように、ささやき声になっています。

「迷ってる暇があったら、さっさと話しかけなさいってば! フルートもフルートだわ。ぼーっとホタルなんか見てないで、気がつきなさいよ! あんなに近くでポポロが待ってるじゃないの!」

 そう言って本当に足踏みをするルルに、ポチは笑って首をかしげました。

「ワン。なんだか二人をけしかけてるみたいですね。ルルはフルートを応援してるんですか?」

「あたりまえじゃない!」

 と犬の少女はきっぱりと答えました。

「フルートはすごく男らしいわよ。強くて心優しい勇者ってのは、ああいう人を言うのよね。最高にかっこいいわ。……フルートが好きなのがポポロだったから、私はあきらめたんだもの。もし、私が人間だったら、絶対に私がフルートの恋人に立候補したのよ」

 これを聞いて、ポチは思わず目を白黒させてしまいました。とっさには声が出せなくなります。

 ルルは先の戦いでフルートに闇の中から救い出されています。それ以来、ルルがすっかりフルートを気に入っているのはわかっていたのですが――天空の国のもの言う犬は、普通の犬の血が混じったポチよりも、もう少しだけ人間に近い心を持っているのかもしれませんでした。ポチの耳と尻尾がしょんぼりと下がります……。

 

 その時、闇の中でポポロが鋭く息を飲みました。

 その声に、ゼンとメールが、ルルとポチが、いっせいに振り向きます。そして、一同は思わず、あっと驚きました。

 宙を乱舞していたホタルが、吸い寄せられるように次々と一箇所に集まっていました。集まっていく先はフルートです。先にホタルがとまった手の上だけでなく、腕に肩に体に足に頭に……全身いたるところにホタルたちが群がっていきます。みるみるうちに、フルートの体が金の光の群れに包まれていきます――。

「フルート!」

 ゼンは思わず刀を抜いて駆けつけようとしました。すると、その腕をメールが押さえて首を振りました。

「大丈夫だよ。危険はない、って岸辺の木が言ってる……」

 ゼンは思わず振り返り、森の声を聞くことができる少女を見つめてしまいました。

 フルートは突然たくさんのホタルが寄ってきたので、とてもびっくりしていましたが、それでもじっと動かずにいました。怖い気はしません。ただ、ホタルが増えるにつれて、自分を取り巻く光が強くなっていくのを、不思議な思いで眺め続けていました。

 すると、フルートの上でホタルたちがいっせいに光の点滅を始めました。金の光が闇の中に少年の姿を鮮やかに描き出します。仲間たちは、またいっせいに息を飲みました。金の光に包まれたフルートは、金の鎧兜を身にまとった時の姿にそっくりだったのです。

 その時、光の奥で、かすかに音がしました。シリリリーン……と鈴を振るような音が一度だけ鳴り響き、それっきり止んでしまいます。子どもたちは誰もその音に気がつきませんでした。谷を流れる川の音にかき消されてしまっていたからです。

 

 すると、突然山の木々がいっせいに揺れ、一陣の風が谷川を渡ってきました。夏だというのに、身を切るように冷たい風です。風はうなり声を上げ、木々の梢を鳴らし、まともに子どもたちに吹きつけてきました。たちまちホタルの群れがフルートを離れ、ちりぢりに飛ばされていきます。

 そして――

 あたりは暗闇になりました。

 

 ホタルはもうどこにも光っていません。暗い谷川をただ星明かりが照らし、水が流れる音だけが続いています。あたりの空気が一気に冷えてきたのが、肌で感じられます。

 子どもたちは思わず顔を見合わせました。

 急に冷たい風が吹いてきて、ホタルが光るのをやめただけのことです。ただそれだけのことだとはわかっているのに、なんとなく、かすかな胸騒ぎがします。

 袖無しのシャツを着ていたメールが、ふいにぶるっと震えて自分の肩を抱きました。

「寒いね……」

 とつぶやいた声が、闇の中にうつろに響きました――。

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