フルートは牧場で牛たちにやる餌の準備をしていました。
ロール状になった干し草を荷馬車から下ろし、苦労して柵の中まで転がしていくと、地面の上に広げて三つ叉の熊手でほぐしていきます。フルートは体が小さいので、かなりの重労働です。じりじりと照りつける夏の太陽の下、フルートは頭から水でもかぶったように、びっしょりと汗まみれになっていました。
すると、そばにいた白い子犬がワンワン、と声高に吠え出しました。遠くにいた牛の群れが気がついて移動を始め、干し草に集まって食べ始めます。黒牛、赤牛、白っぽい牛、ブチの仔牛もまじっています。その様子を見て、フルートはホッと笑顔になりました。
「ありがとう、ポチ。牛たちを集めてくれて」
そう話しかけた相手は白い子犬です。子犬は得意そうに尻尾を振りました。
「ワン、どういたしまして。でも、ホントに暑いですね。水が飲みたいな」
子犬は人のことばを話しています。ポチは天空の国の犬の血を引いた、もの言う犬なのです。
フルートはそれを聞くとすぐに荷馬車へ戻り、荷台から水筒を取り上げて馬車の陰に座りこみました。日陰に入ると厳しい暑さが和らぎます。フルートは器に水を注いでポチに差し出すと、自分も水筒に口をつけて飲みました。荒野から風が吹き渡ってきて、ほてった体を冷やしてくれます……。
この少年が、金の石の勇者フルートでした。闇の敵を何度も倒し、自分の国だけでなく、世界中の人々を救ってきた英雄です。
けれども、誰がどんなにひいき目で見ても、フルートはとてもそんな人物には見えません。年は十三歳ですが、小柄で細い体をしているので、もっと年下に感じられます。癖のある金髪と鮮やかな青い瞳をした顔はとても優しくて、まるで少女が男の子の格好をしているようです。態度も本当に穏やかで、戦いや争いごととはまるで無縁に見えます。
ポチが水を飲み終えて地面に腹ばいました。生後半年くらいの大きさの子犬ですが、もう十歳になっています。フルートたちと一緒に何度も冒険に出かけて敵を倒してきた勇者の一員なのですが、ポチもやはりそんなふうには見えません。何も言わずにいれば、本当にどこにでもいるただの子犬のようです。
彼らがデセラール山の上空で死闘を繰り広げた闇の声の戦いから、一カ月半がたっていました。魔法の金の石は灰色に変わって眠りにつき、怪しい出来事も不吉な噂も、このシルの町には聞こえてきません。事件がなければ彼らもただの子どもと子犬です。学校が夏休みに入ったので、フルートとポチはお父さんが働く牧場で毎日手伝いをしていたのでした。
すると、牧場の向こうから馬の蹄の音が聞こえてきました。ポチがぴんと耳を立てて頭を上げます。
「ワン、お父さんですよ、フルート。ブランの足音だ」
フルートが立ち上がったところへ、白い馬に乗ったお父さんがやってきました。背が高くて髪は茶色ですが、フルートそっくりの鮮やかな青い目をしています。穏やかな顔立ちも、フルートとよく似た雰囲気があります。お父さんは干し草を食べる牛を眺めてうなずくと、息子に声をかけました。
「ここの仕事は終わりだな。手伝ってくれないか? 西の柵を修理したいんだ」
フルートはうなずき返すと、すぐに荷車から馬を外しました。フルートの愛馬のコリンです。鞍も置かない背中に飛び乗ると、すぐにお父さんと駆けていきます。その後を子犬のポチが追いかけます。
柵は杭が自然に裂けて、横に渡した板が外れかけていました。お父さんが柵に釘を打ちつける間、フルートは添え木を支え続けました。ポチが地面に腰を下ろし、尻尾を振りながらそれを眺めています。青い夏の空、照りつける日の光を浴びて、牧場も荒野も白っぽく乾いています。空には本当に雲ひとつ見あたりません。
お父さんが顎からしたたる汗をぬぐいながら言いました。
「このところ、ほんとうに暑い日が続いてるからな……。雨が全然降らないから、柵の木が乾燥しすぎて割れたんだ。いくらシルの夏が暑くても、こんなことは初めてだな」
それを聞いて、ワン、とポチが口を開きました。
「風の吹き具合がおかしいんですよ。いつもの年と違う気がします。変な方角から暑い風が吹いてきて、雨雲を追っ払っちゃってるんです」
「草も枯れてきてるよね」
とフルートが気がかりそうに牧場の隣に広がる牧草地を眺めました。いつもの夏なら青々と生い茂っているはずの牧草が、雨不足と暑さで黄色く変わり始めています。
「どこかで何かが起こり始めているのかもしれないな」
とお父さんが言いました。それはなにげないつぶやきでしたが、とたんにフルートとポチは、どきりとしました。どこかで何かが起こり始めているかもしれない――。それは闇がこの世界に手を伸ばし始めたときに、決まって感じられる予兆なのです。
息子と子犬が顔を見合わせたので、お父さんが苦笑いしました。
「世界のどこかで異常気象が起きているのかもしれない、という意味だよ。世界は空と海でひとつにつながっているからね。遠く離れた場所の出来事でも、ここの自然に影響を及ぼすことがあるんだよ」
そして、お父さんはまた柵に長い釘を打ちつけていきました。そんな父親の姿を、フルートは尊敬の目で見つめました。お父さんは普段はあまり口数が多くありませんが、フルートには時々こんなふうにいろいろなことを教えてくれます。自然のこと、国や世界のこと、人と人とのつながりのこと、人としての生き方のこと……。お父さんは博識でとても考え深い人なのです。
すると、お父さんがまた口を開きました。
「こんなに暑いんだ。涼みに行ってきてもいいんだよ。海や山や空の上は、もっと過ごしやすいんじゃないのかい?」
そう意味ありげに言って、笑うように息子を見ます。フルートは一瞬きょとんとして、すぐにその意味に気がつきました。お父さんが言う場所は、フルートの仲間たちが住んでいるところです。西の大海にはメールが、北の峰にはゼンが、天空の国にはポポロともの言う犬のルルがいます。友だちのところへ遊びに行ってきたらどうだい、とお父さんは言ったのでした。
フルートは思わず顔を赤らめました。
「で、でも、牧場の仕事があるじゃない。毎日こんなに忙しいのに……」
そう、夏場の牧場は大忙しです。特に、今年の夏は暑いので、牧場の草の生育が悪くて牛たちへの餌やりが大変になっています。夏の終わりには牧草の刈り取りもあります。お父さんたちは数人のグループで牧場を共同経営していますが、それでも猫の手も借りたいほど忙しかったのです。
ところが、お父さんは言いました。
「子どもは遊ぶのだって仕事のうちだよ。牧場のことなら心配いらない。間もなく手伝いをひとり頼むことになってるしね。父さんたちだけで大丈夫さ。みんなのところへ行っておいで、せっかくの夏休みなんだから」
フルートはますます赤くなりました。ううん、ぼくは牧場を手伝うよ、と言おうとしましたが、抑えようもなく本音の方がわき上がってきてしまいます。みんなに会える――。明るくて頼もしいゼンに、気が強くて元気なメールに、引っ込み思案でかわいいポポロに、しっかり者で淋しがり屋のルルに――みんなに、また会える! フルートの胸が震えました。大好きな大好きな仲間たちです。たった一カ月半離れただけなのに、また会いたくてしかたなくなっていたのです。
フルートは思わず両手を拳に握ると、ひゃっほう! と声を上げました。ポチがびっくりした顔になり、次の瞬間、大きく吹き出しました。その歓声はフルートの親友のゼンにそっくりだったのです。
すると、フルートが子犬を抱き上げて言いました。
「行こう、ポチ! みんなに会いに行こう! ああ、誰のところから回る? 最初は誰のところに行こうか!?」
「ワン! 天空の国ですよ! ルルがいるし――あ、でも、メールのところに行く方が簡単かなぁ? 魔の森の長老に頼めば、泉から海へすぐに行けますしね……!」
ポチは尻尾をちぎれるほど振りながら答えました。仲間たちに会えるのが、やっぱり嬉しくてたまりません。
そんな子どもたちを、フルートのお父さんは笑顔で眺めていました。思いやりがある子と言えば聞こえがいいのですが、あまりにも自分の想いを抑えてしまいがちな、おとなしい息子です。それがこんなふうに素直に気持ちを表すようになってきたことに、親として、なんとなくほっとしていたのでした。
フルートとポチは興奮しながら仲間を訪ねる順番を話し合っていました。それぞれが遠く離れた場所に住んでいるので、どうやったら一番効率よく回ることができるか、よく検討する必要があります。
ところが、そんな話の最中に、ふいにポチが耳をぴんと立てました。
「あれ……?」
何かが聞こえた気がしました。人の声のようです。どうしたの? とフルートが尋ねようとした瞬間、少年の耳にも声が聞こえてきました。澄んだ少女の呼び声です。
「フルート、ポチ、聞こえる!? 大変よ!」
「ポポロ!!」
少年と子犬は思わず声を上げました。見回してもどこにも声の主の姿はありません。ポポロは魔法使いです。遠い天空の国から、彼らの頭の中に直接話しかけてきているのでした。
「ゼンが呼んでるのよ! 一大事だって! 今すぐ北の峰に来て――!」
ポポロの声はせっぱ詰まっていました。今にも泣き出しそうな顔が思い浮かぶほどです。たちまち少年たちは真剣になりました。フルートが叫び返します。
「わかった、すぐに行くよ!」
「ワン! ぼくが風の犬になって飛んでいきます! 心配しないで!」
とポチも答えます。遠い彼方で少女が涙ぐみながらうなずく気配がして、それっきり声は聞こえなくなりました。
お父さんは顔色を変えて息子たちを見ていました。
「どうしたんだ? また何か起きたのかい?」
お父さんにはポポロの声は聞こえなかったのです。フルートは首を振って見せました。
「わからない。でも、ゼンが呼んでるってポポロが伝えてくれたんだ。一大事だって。ぼくたち、行ってくるよ」
「ワン、一度家に戻って装備を整えましょう。そしたらすぐにぼくが北の峰まで飛びますから」
とポチが荒野の彼方へ目を向けます。夏でも頂に雪を抱く山脈が、青く横たわっています。その中でも一番高くそびえているのが、ゼンたちドワーフの住む北の峰です。
たった今まで大はしゃぎで遊びに行く相談をしていた子どもたちが、大人のような表情に変わっていました。彼らは金の石の勇者の一行です。世界に闇の魔の手が迫り始めたら、いつでも駆けつけて敵と戦わなくてはならないのです。
そんな息子たちを、お父さんは胸がつぶれるような思いで見つめ続けました。危険だ、と引き止めたいのは山々です。けれども、そんなことはできるはずがないのです……。
「おまえたちの上に、神様と金の石の守りがあるように」
お父さんはただ息子たちの無事を祈ってやりました。それがやっとでした。
子どもたちはうなずき、たちまちポチが変身しました。音をたてて子犬の姿がふくれあがり、風の犬に変わります。白い幻のような犬の頭、犬の前足……異国の竜のような体がくねって渦を巻き、目の前に長々と延びます。全長十メートルあまりもある巨体です。その背中にフルートは飛び乗りました。
「行くよ!」
「ワン!」
短い声を残して、子どもたちはあっという間に空に駆け上がり、家のある方角を目ざして飛んでいきました。みるみるうちに、その姿が遠ざかります。
お父さんは牧場の中に立ちつくしていました。親はただ見送るしかありません。いつだって、子どもたちを信じて見送ってやることだけしかできないのです――。
子どもたちが消えた空はどこまでも青く晴れ渡り、その真ん中で太陽が輝き続けていました。どこかで異変が起きていることを告げるような、暑すぎる太陽でした。