空に浮かぶ天空の国。それは許された人々以外には、目にも映らない魔法の国でした。巨大な岩盤の上に築かれていて、世界の上空を自在に飛び回っています。
天空の国の真ん中には死火山がそびえていて、その頂上に金と銀の天空城がそそり立っています。その城の大広間で、フルートたち勇者の一行とポポロの両親は、天空王と向き合っていました。黒い星空の衣を着た天空王は、光そのもののような髪とひげをしていて、地上で見るときより数倍も神々しく、輝かしい姿に見えます。
王の後ろには、やはり立派な様子の黒い衣の男女が何人も並んでいました。天空の貴族たちの中でも、特に主だった者たちで、何も言わずに、じっと子どもたちに目を向けています。そのまなざしがあまりにもまっすぐで厳しいので、少年たちも少女たちも、自分たちがすっかり見透かされてしまっているような気分になって、とても目を合わせていることができませんでした。王と貴族たちの前にひざまずいて、頭を下げているしかありません。いつもは王ともため口で話してしまうゼンも、今日は、大広間を包む厳粛な雰囲気に気押されて、顔を上げることもできずにいました。
フルートたちより前の場所に、茶色い犬がうずくまるように座っていました。ルルです。何も言わずに、ただ、じっと天空王の前に控えています。フルートたちは、目を伏せながらも、そんなルルから心は離さずにいました。王とルルのやりとり次第では、いつでもルルに駆けつけようと考えます……。
天空王が話し出しました。
「ルルよ、そなたがここに呼ばれたわけはわかっているであろうな?」
天空王は、旅立ちに魔の森の泉で出会った時のように、普段はとても穏やかで優しい王です。世界のすべての空を統べる偉大な王でありながら、フルートたちのような子どもにも少しも偉ぶらずに話しかけ、話を聞いてくれます。なので、子どもたちはついつい天空王が偉い人物だと言うことも忘れて、大好きな頼りになるおじさんのように慕ってしまっていました。
けれども、この時ルルの前に立つ天空王は、そんないつもの様子とはまるで違っていました。厳しい顔、厳しい声、厳しいまなざし――子どもたちに甘えさせ、願い事を聞いてくれるような優しさは、まったく感じられません。ちょっとでもそんなそぶりを見せようものなら、たちどころに王の怒りに触れ、自分たちまで処分の対象にされてしまうのは間違いありませんでした。
王の広間は澄んだ光に充ちています。けれども、強く明るすぎる光には、包み込むような優しさはなく、突き刺すように照り輝いていて、居合わせる者たちを不安な気持ちにします。本当に、厳しいほどにまぶしい光です。
ルルがうなだれたまま、天空王に向かって頭を下げました。低い声で答えます。
「私は……デビルドラゴンの誘惑に負けて、身も心も魔王になりかけました……。地上のすべての人間が憎くて、ジーナの町と人々を襲撃し、私を退治しようとしたエスタの辺境軍を襲って、多くの人たちに怪我をさせました……。リーリス湖では何隻もの船を襲って転覆させようとしました。その時に亡くなった人は……いなかったと思います。でも、その後、傷ついた人たちがどうなったのか……そこまではわかりません……」
ルルの声が震えました。涙がこぼれ落ちて広間の床をぬらします。けれども、天空王は涙になど心動かされることはありませんでした。容赦のない声で言います。
「そなたの罪はそれだけではなかったはずだ。そなたは何故デビルドラゴンに心を売り渡すことになった。いかな闇の象徴の竜であっても、心に闇を持たぬ者に取り憑くことはできない。すべてを語るのだ、ルル」
天空王の声は、まるで鋭い雷のようです。茶色の犬は、びくりと大きく身をすくませると、ぶるぶる震え出しました。子どもたちはそんなルルを見つめました。助け船を出したいのに、あまりにもその場面が厳しくて、とても口をはさむことができません――。
ルルが震えながら答えました。
「私は……自分がずっと愛されていないと思いこんできました……。ポポロを守るためだけに生まれてきて、それだけが自分の使命だと思いこんできたから……それで、ポポロに仲間ができたとき、私はそれを憎んだのです……。自分の存在の意義を奪われるような気がしたから……。私はフルートを憎みました……ポポロが、私よりもフルートを信頼したからです……。憎んで、憎んで、殺そうとして……そして、私は闇に落ちました――」
ぽたぽたと、涙が石の床をぬらし続けます。うなだれて泣く犬は、本当に小さく弱々しく見えました。
人々は何も言えませんでした。子どもたちも、ポポロの両親も、ただ声を呑み、祈るように天空王を見つめます。どうか恩赦を、と表情で訴え続けます。
その中で、ひとりフルートだけが、まなざしを変えました。天空王を真っ正面から見上げ、声を上げます。
「ぼくは生きています、天空王! ルルはぼくを憎んだけれど、ぼくを殺すことはありませんでした! ルルは、ぼくたちのところへ帰ってきたんです。自分がしたことを心から悔い改めてます。どうか、ルルを許してください!」
仲間たちは、はっとフルートを見ました。一緒になって、それに賛同しようと思うのに、天空王の厳しい目を見ると、声が出なくなります。いつもはあれほど雄弁で屈託のないゼンでさえ、どうしても何も言えません。
天空王がフルートに言いました。
「そなたが命失わずにすんだのは、ただ、仲間たちがそなたを守り続けてくれたおかげだ。仲間たちがいなければ、おまえは今頃もう、この世界には存在しなかった。たとえ悔い改めたとしても、ルルが犯した罪は厳然と残り続ける。罪は罪なのだ。それは決して消えることがないし、消すこともできない。そして、罪を犯した者は罰を受けなくてはならないのだ。――ルルは闇に心を売り渡した。ルルはその罪にふさわしい罰を受けなくてはならない」
それは情け容赦のない宣言でした。ポポロが立ちすくんで涙を流し始めました。ポポロの母親も顔をおおって泣き出します。他の者たちは青ざめて立ちつくすばかりでした。いつもは本当に優しく穏やかで、子どもたちの味方になってくれる天空王。けれども、彼はやはり正義の王なのでした。そして、正義は時に、どんな悪よりも厳しく恐ろしい顔を人に見せつけるのです。
ルルは泣き続けていました。それは自分の罪を自分自身に責められる涙でした。そんなルルを見つめて、また、フルートは口を開きました。今度は声を張り上げるのではなく、静かに話し出します。
「天空王様、ぼくは青い世界の中でデビルドラゴンと向き合いました。あいつは……本当に恐ろしい敵だと思います。ぼくから放たれる金の石のエネルギーを狙って、ぼくの心の中の闇を見せつけて、ぼくを落とそうとしてきました――」
聞いていたゼンが身じろぎをしました。彼自身にも、ものすごく思い当たることでした。天空王は黙って聞いています。そのまなざしは強く厳しいままです。
「――人は、弱いです」
とフルートは話し続けました。
「心の中に、必ず闇を持っています。どんなに自分が正しいつもりでいても、やっぱり心の中には闇があるんです。デビルドラゴンの呼び声は、その闇に誘いかけてきます。ルルでなくても、あいつに本気で襲いかかられたら、勝てない人が大勢いるんだと思います」
「その通りだ、フルート」
と天空王は答えました。
「人というのは、光と闇の両面を持っている。そもそもが、相反するものを自分の内側に抱えている、矛盾した存在なのだ。どんな者も心には闇を抱いている。天空王である、この私でさえ、な――。ただ、その存在に自分で気づいているかいないかの違いだけだ。だが、そうであるからこそ、人は闇に打ち負かされて、その軍門に下ってしまってはならないのだ。それは世界の破滅を招く。多くの人々を不幸に巻き込み、その幸せも生活も、ありとあらゆるものを破壊して、後には何も残さなくなる。人は闇に負けてはならない。闇を抱く者であるからこそ、闇に心売り渡してはならないのだ」
フルートは思わず反論しようとしました。それでも、許しというものはないんですか? と問いただそうとします。
すると、ふいにルルが振りむき、フルートを引き止めるように、服の裾をそっとかみました。
「いいのよ、フルート……もういいの……。天空王様のおっしゃるとおりなのよ。私は罪を犯したの。ねえ、フルート……そうしたらね、やっぱり、それ相応の罰は受けなくちゃいけないのよ。だって、理由はどうであったって、悪いことは、やっぱり悪いことなのだもの」
「ルル――」
フルートは思わず声が出なくなりました。ことばにならなくて、かがみ込んでルルを抱きしめてしまいます。何故だか、涙が出てきました。
確かに、ルルがしたことは悪いことです。フルートも本当に何度も殺されかけました。けれども――その罪の後ろ側にあったのは、どうしようもない淋しさでした。自分の存在の意義を、自分自身が愛されていることを、どうしても実感することができなくて、ひとりぼっちで泣き続けていた、淋しい犬の少女の姿でした。
フルートは叫びました。
「淋しいって思う気持ちに罪はありません! 淋しかったら、友だちを見つければいいんだ! 天空王、ぼくたちはルルと友だちになりたいんです! これから、もっともっと友だちになっていきたいんです! ルルを許してやってください――!!」
そのまま固くルルを抱きしめて、涙をこぼし始めます。
人々は何も言えませんでした。メールが涙ぐんで、となりのゼンにすがります。ひとりぼっちの淋しさ、その孤独のつらさは、メールにもよくわかったからです。ポポロは顔をおおってわっと泣き出し、ポポロの父親は今にも泣き伏しそうな妻を抱き寄せます。ポチは、くいいるようにルルを見つめ続けていました。正真正銘自分の仲間の、もの言う犬の少女を見つめます――。
すると、天空王が言いました。その声は低く、厳かでした。
「いかに金の石の勇者であろうと、罪が罰を受けることを変えることはできない。ルルに裁きを言い渡す。――ルルは己の心の闇に負けて、闇の竜に一度心を譲り渡し、多くの人々を傷つけ、フルートを幾度も殺そうとした。また、人々を深く憎み、己の作る迷宮の中で、助けに来た者たちを殺そうとした。この罪は決して消えない。罪の記憶を一生涯、背負って生きるが良い、ルル。そなたは死ぬまで自分の罪を忘れることができない。それがそなたへの罰だ――」
人々は驚きました。ルルも、フルートも、信じられないように天空王の顔を見上げます。
ルルがおそるおそる口を開きました。
「あの……天空王様……それだけ、ですか? 自分の罪を忘れないこと。それが私の受ける罰なんですか……?」
すると、天空王が深いまなざしになって茶色の犬を見ました。
「軽い罰だと思っているか? あまりにも軽すぎる罰だと? それは浅はかであるぞ、ルル。思いだしてみるがいい。そなたが最初にゴブリン魔王に操られ、闇の首輪につながれて、他の風の犬たちと地上を襲ったときのことを。思い出せるか?」
ルルは意外なことを言われて思わず首をひねりました。それでも、思い出す顔になり……懸命に思い出そうとする顔つきになり……やがて、愕然とした表情に変わりました。
「思い出せない! 全然思い出せないわ……!」
天空の国を支配したゴブリン魔王。その闇の首輪に操られて、自分は風の犬になって地上を襲いました。そのこと自体は覚えています。それなのに、詳しい場面が一つも浮かんでこないのです。自分が風の犬になって、地上で何をしたのか、誰にどんなことをしたのか、本当に何一つ記憶によみがえってこないのでした。
天空王は静かに言いました。
「当然のことだ。そなたたちが操られて地上を襲った記憶は、この私が消していたのだからな。そなたたちもの言う犬は、そもそも心正しく優しい生き物だ。たとえ魔王に操られていたせいであっても、罪もない地上の人間を襲い、傷つけ殺してきたことを覚えていれば、その罪の意識に心が耐えられなくなって、自ら死んでいくか、心が壊れていくしかなくなるのだ」
人々はまた、何も言えずに天空王の話を聞き続けていました。
フルートは、デセラール山の地下で見た、ルルの記憶の数々を思い出していました。迷宮には様々な時代、様々な場面の記憶が映し出されましたが、確かに、ルルがゴブリン魔王に操られて、風の犬の群れのリーダーとして地上を襲っていた記憶は、ただの一度も現れてこなかったのです。
天空王は話し続けました。
「あのとき、そなたたちが魔王に操られたのは、自分ではどうしようもない、不可抗力の出来事だった。だから、私はそなたたち風の犬から、罪の記憶を消した。だが、今回のルルは違う。ルルは自分の心の闇に負けて、自分自身で闇の竜を招き入れて魔王となった。これはルル自身の罪だ。だから、ルルはその罪を忘れてはならない。――よく聞くがいい、子どもたち。心正しいことを求める者たちにとって、罪の記憶というのは、他のどんなものよりも深く恐ろしい罰なのだ。時がたてば、他の者たちの記憶から、罪の思い出は薄れていくかもしれない。人によっては、そんなことはもう罪ではない、と許してくれる者もあるかもしれない。だが、自分自身はそれが罪であることを覚え続けているのだ。他の誰が許したとしても、己自身が、決して自分を許さない。罪を忘れられない、ということは、一生涯、その自責の念に堪えなければならない、ということなのだ。忘れてしまうことは決してできない。罪の記憶を耐えやすい形に変えていくこともできない。ルルは、死ぬその時まで、自分が自分でいる最後の瞬間まで、自分の罪を背負い続け、その痛みを常に心に感じ続けなければならないのだ。――それが、ルルの受ける罰なのだ」
天空王の声は厳かでした。深く静かで――そして、限りない悲しみに充ちていました。天空王は正義の王。けれども、その天空王自身にも、正義を自分の意志で作り変えることは決してできないのでした。
天空王は静かにかがみ込んで、ルルに手を差し伸べました。
「そなたは優しい犬だ。罪の意識はきっと、そなたを日ごと夜ごと苦しめるだろう。だが、耐えるのだ。フルートの言うとおり、人は弱い。それは、そなたたちもの言う犬も同じことだ。だからこそ、強くなれ。闇に負けることなく生き続けるのだ。そなたには仲間たちがいる。その仲間たちと生きていくのだ。たとえひとりでは歩くのにつらい道のりでも、仲間と一緒ならば、少しは歩きやすくなることだろう――。それがそなたの受ける罰だ。わかったな」
ルルは天空王に歩み寄り、伸ばされた手に、そっと頭を押し当てました。震える声で答えます。
「わかりました……天空王様。私は決して忘れません。自分が自分の中の闇の声に負けたことも、魔王になってしまったことも、フルートたちを殺そうとしたことも――そのフルートたちが、命がけで、そんな私を助け出しに来てくれたことも――死ぬまで、決して忘れません」
天空王はうなずきました。
すると、王がルルに触れていた手から、ふいに淡い光があふれ、ルルの首により集まっていきました。光はきらめきながら細くなり、きらめきが消えたとき、銀糸を寄り合わせ、美しい石をはめ込んだ首輪に変わっていました。
「ワン、風の首輪だ!」
とポチが思わず声を上げました。先にルルに貸した風の首輪は、今はポチの首に戻っています。ポチの首輪についた石は緑色ですが、ルルの首に新しく現れた首輪の石は、美しい青い色をしていました。
天空王がルルに言いました。
「そなたに改めて使命を与える。風の犬としてポポロを助け、金の石の勇者とその仲間たちを助けるのだ。闇の敵はひとまず去ったが、いつかまた、必ず世界を狙って襲いかかってくる。その時には、そなたも勇者の一員として、仲間たちと共に戦うのだ。良いな」
ルルは耳と尻尾をぴんと立て、頭を高く持ち上げて天空王を見上げました。黒い瞳が喜びに輝き、首の回りでは風の首輪が銀に光ります。ルルは誇らしげな声で答えました。
「わかりました、天空王様!」
「よろしい。では行け、ルル」
天空王が命じました。
ルルは振り返りました。すると、フルートが、ゼンが、ポポロが、メールが――同じもの言う犬で風の犬のポチが――両手を広げ、尻尾を振りながら走ってくるのが見えました。子どもたちは歓声を上げ、ルルに駆け寄り、飛びつき抱きしめました。
「一緒に行こう、ルル。君も、ぼくたちと一緒に行こう。どこまでも、ずっと一緒に――!」
フルートは、ルルを固く抱きしめながら何度もそう繰り返しました。