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第4巻「闇の声の戦い」

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66.疾走

 「ギャン!!」

 ポチは突然、全身に激しい衝撃と痛みを感じて声を上げました。目の前が真っ赤になって、気が遠くなります。

 まっさかさまに空から落ちながら、ポチは自分の背中にフルートがいないことに気がつきました。振り落としてしまったのです。気を失いそうになるのを必死でこらえながら目を開け――ポチは驚きました。

 青い空を真っ黒な影のドラゴンがおおっていました。四枚の翼が音のない羽ばたきを繰り返しています。その体から伸びた黒い触手が、フルートに絡みついていました。後ろから彼らを追っていたデビルドラゴンが、突然襲いかかり、フルートを奪ったのです。触手の先が鋭い槍のようにフルートの鎧の左肩を貫いていました。鎧の隙間から血があふれ出しています。ポチは思わず叫びました。

「フルート! フルート……!!」

 もう一度舞い上がり、助けに駆けつけようとするのですが、飛ぶことができません。風でできた体がたたきのめされたように痛みます。まっしぐらに地上へ落ちながら、ポチは遠吠えを上げました。

 

 その声に、ゼンがメールの肩から顔を上げました。はっとしたように振り返ります。ゼンがデビルドラゴンの誘惑を振り切り、震えながらメールにすがりついてから、いくらも時間がたっていません。闇のドラゴンが作り出す世界の中で過ぎる時間は、現実世界では、ほんの一瞬のことでしかないのです。

 空の上で影の竜が黒い触手を伸ばしてフルートをとらえていました。次々と繰り出されてくる触手が、鋭く少年を貫いていきます。そのたびに血が飛び散り、少年が悲鳴を上げます。

「フルート!!」

 ゼンとメールは叫びました。空から地上に向かって、風の犬のポチがものすごいスピードで落ちていくのも見えます。メールは、とっさに花鳥をデビルドラゴンに向かわせました。ゼンが跳ね起きてエルフの弓矢を構えます。たった今まで、闇の竜におびえて震えていた少年です。

「ゼン」

 メールが思わず心配そうな顔をすると、ゼンが苦笑いを見せました。

「もう大丈夫だ。――助かったぜ。ありがとな」

 照れたように言って、すぐにまた敵に目を向けます。その強い横顔は、もういつものゼンでした。

 メールは、あいまいに首をかしげました。ゼンが薄闇の中でデビルドラゴンとどんなやりとりをしてきたか、彼女には知るよしもありません。自分の呼び声がゼンをドラゴンから救い出し、この世界に引き戻してきたことも知りません。ただ、それでも、なにかしら自分はゼンの助けになったようだと思うと、こんな状況なのに、メールはたまらなく嬉しい気持ちになりました。

 その時、宙のデビルドラゴンが花鳥のほうを振り向きました。長い蛇のような首を伸ばして、口を大きく開けます。

「闇の息だ! かわせ、メール!」

 ゼンがどなります。メールはとっさに花鳥を急上昇させました。が、間に合いません。黒い霧のような息が、まともに花鳥に吹きつけられてきました――。

 

 地上では、ポポロが大きな悲鳴を上げていました。リーリス湖の方角の空を見上げて真っ青になっています。フルートが闇のドラゴンにつかまったのは、そこからはもう遠く彼方の場所です。けれども、ポポロの魔法使いの目には、まるで目の前の出来事のように、その場面がありありと見えていたのでした。

 闇の触手が金の鎧を突き抜けて、何度も何度もフルートの体を突き刺します。触手が抜ければ、鎧には何の傷も残っていません。けれども、その下でフルートの体は深く傷ついて、大量の血を流しているのでした。少年が何度も悲鳴を上げ、真っ赤な血が鎧の隙間からしたたっていくのが見えます。

「フルート! フルート!!」

 足下ではルルも叫んでいました。ポポロと心でつながっている彼女も、ポポロが見ているのと同じ光景を目の当たりにしているのです。と、ルルが息を呑みました。

「フルートは金の石をつけてないわ――!」

 触手の一本がペンダントの鎖をつかんで高々と差し上げていました。フルートの首から奪い取ったのです。少年が痛みに顔をゆがめながらも、ペンダントに向かって手を伸ばすのが見えました。けれども、それはとても手の届かない離れた場所です。

「なんだ、なにがどうしたんだ?」

 デビルドラゴンの姿を見ることができないオーダが、真っ青になって叫ぶ少女と犬を、驚いて眺めていました。二人の見る先の空を見て、首をかしげます。

「なんだ? 空から落ちてくるものがあるぞ……?」

 とたんに、魔法使いと犬の少女はまた悲鳴を上げました。小石のようにまっすぐ地上へ落ちてくるのが、風の犬のポチだとわかったからです。ポチは落ちながら、大量の青い霧の血を吹き出していました。

「ポチ!!」

 ルルが鋭く叫んで駆け出しました。ポチが落ちていく方向へ、全速力で駆けていきます。その後を白いライオンの吹雪が追いかけ始めました。

「おい、なんだ、本当に……? 吹雪、おまえまで行くのか!?」

 あっけにとられている黒い鎧の戦士に、ポポロは飛びつき、すがりついて叫びました。

「お願い! あたしをあの下まで連れて行って!」

 駆けつけても、今の自分には何の力もありません。何もできないとわかってはいるのですが、それでも、行かずにはいられませんでした。右の手首がまたうずくように痛み出します――。

 すると、オーダが突然、じいっとポポロを見つめてきました。けげんそうな声を出します。

「ゼンはお嬢ちゃんが記憶喪失だと言ってたよな? だが……見たところ、お嬢ちゃんは前と全然変わってないぞ。言ってることもなにもかも、まったく前と同じだ」

 ポポロは思わず驚きました。何も覚えてはいないのに、それでも以前と変わっていないと言われることが、なんだかひどく不思議に感じられます。迷宮の中で見た、ルルの記憶の中の自分を思い出します。そこにいた自分は、見た目は小さくとも、大きな魔力を持った、れっきとした魔法使いでした。自分は変わらないのでしょうか? 本当に、何も変わっていないのでしょうか――?

「なんだかわからんが、とにかく来い、お嬢ちゃん。吹雪たちを追いかけるぞ」

 オーダがポポロをひょいと抱えて馬に飛び乗りました。そのまま、ロムド軍やエスタの辺境部隊を後に残して、吹雪とルルの後を追って駆け出します――

 

 ルルは必死で走り続けていました。ポポロとつながった心に、デビルドラゴンにつかまったフルートと、空から落ちてくるポチが映っています。ルルは今はもう首輪をつけていません。風の犬に変身して、助けに駆けつけることはできないのです。それはわかっているのですが……気持ちはポポロと同じでした。何もできなくても、自分に何の力もなくても、それでも駆けつけたいのです。仲間たちのところへ――。

 すると、行く手の地面がふいに次々と盛り上がり、そこから怪物が現れました。牙の長い猫のような姿をしていますが、その顔には大きな目玉がひとつしかありません。それが何十匹も現れてルルに飛びかかってきます。デビルドラゴンが呼び出した怪物でした。

 ルルは戦いませんでした。そんなことをしている暇はありません。怪物たちの間をすり抜け、かわして、落ちてくるポチの元へ駆けつけようとします。すると、その背中に一つ目の猫が飛びついて、鋭い牙を突き立ててきました。

「キャン!」

 ルルは悲鳴を上げました。思わず立ち止まりそうになったところへ、他の猫たちも次々に飛びかかってきます。ルルはうなりを上げ、食らいついている猫にかみついて引きはがしました。牙を立てられた場所のルルの毛と皮膚がちぎれて、赤い血が飛び散ります。けれども、猫は次々に襲いかかってきます。いくら引きはがしても、きりがありません。

 すると、突然すさまじい咆哮が上がり、ルルの隣に大きな獣が飛び込んできました。白いライオンの吹雪でした。うなりをあげて一つ目の猫に飛びかかり、あっという間に爪で引き裂き、かみ殺していきます。ルルにかみついている猫も、たちまち全部倒してしまいます。

「あ、ありがとう……」

 ルルは驚きながら吹雪に礼を言いました。なんだかひどくとまどった気持ちがします。考えてみれば、今までずっと自分はポポロを助けてばかりで、誰かから助けられた経験がほとんどなかったのです。それは、なんだか本当に面食らうような体験で――そして、何故だかとても嬉しい気持ちのすることでした。

 行く手の地面からは、まだ次々と猫の怪物が生み出されてきます。ルルたちに飛びかかろうと身構えます。すると、吹雪がまた吠えました。すさまじい声が一帯に響き渡り、猫たちが思わず立ちすくみます。そこへ、後ろから強い風がどっと吹いてきて、猫たちをたちまち吹き飛ばしてしまいました。馬で駆けつけてきたオーダが、疾風の剣を振ったのでした。

「おい、ルルもこっちに乗れ! 自分で走るよりこっちのほうが速いぞ!」

 とオーダが言います。彼には相変わらずデビルドラゴンの姿は見えません。空でとらえられているフルートも、雲の中に隠されているように、彼の目には見えなくなっています。それでも、オーダは少女たちと吹雪の様子を信じていました。嘘をつけない子どもたちと獣が、これほど真剣に急ぐのです。きっと何かが起きているのに違いない、と黒い戦士は考えていたのでした。

 ルルはまた驚いてオーダを見上げました。その前に乗っていたポポロが両手を広げます。

「来て、ルル!」

 ルルは思い切り地面を蹴ると、ポポロの腕の中に飛び込みました――。

 

 ポチは空を落ち続けました。何とかもう一度舞い上がろうとします。フルートはデビルドラゴンにとらえられ、激しい攻撃を受けています。何とか助けに行かなくちゃ、と思うのに、どうしても体が言うことを聞きません。どんどん気が遠くなっていきます――

 ついに、ポチは地面に落ちました。風の体が草を引きちぎり、土を深くえぐりながら大地をすべって、ようやく止まります。そのまま、淡い緑の光に包まれたと思うと、ポチは子犬の姿に戻ってしまいました。背中に深い傷があって、そこから血が流れ続けています。

 そこへ、蹄の音をたててオーダたちが駆けつけてきました。

「ポチ!」

「ポチ……!」

 ポポロとルルが馬から飛び下りて駆け寄ってきます。オーダも来て眉をひそめます。

「ひどい怪我だな。止血をせんと」

 と、どこからか布切れを引っ張り出します。

 ポチはよろめきながら立ち上がろうとしました。

「ワン……そんな暇はありません……フルートを助けに行かないと。デビルドラゴンにつかまったんです……」

 けれども、ポチはどうしても立ち上がることができませんでした。足に力が入りません。風の犬に変身しようとしても、姿も変わりません。

「無茶するな。その怪我じゃ動けんぞ。死ぬ気か?」

 とオーダがあきれたような声を出します。ポチは首を振りました。

「ワン……だって、フルートが……フルートが……」

 必死に見上げる空の上から、急に霧雨のようなものが降ってきました。それは、彼らの服や鎧や毛並みの上で、紅い血の色に変わります。オーダは、ぎょっとなって上空を見直しました。

「な――なんだ、これは!?」

 血の雨は上空をおおう黒雲から降ってきたように見えました。その実体は影のドラゴンです。降ってきた紅い雨は、フルートが流している血のしたたりなのでした。

 ポポロが泣き声を上げました。ルルも悲鳴を上げそうになります。ポチが懸命に立ち上がろうとしていました。

「フルート……フルート……」

 泣きそうになりながら繰り返しています。その首には、風の首輪が光っています。けれども、ポチにはもう、風の犬に変身して飛んでいく力が残っていないのでした。

 

 すると、ふいにルルがポチの隣に駆け寄りました。ばっと身をかがめ、倒れている子犬をのぞき込むようにして言います。

「ポチ、あなたの首輪を私に貸して!」

 ポチは、驚いたようにルルを見ました。長い毛並みの茶色の犬は、銀毛を体のところどころで光らせながら、真剣な目でポチを見つめていました。

 ポチはうなずきました。

「ワン……いいですよ、ルル……」

 ルルはポポロを振り返りました。

「ポチの首輪を私につけて! 急いで! 私がフルートのところへ行くわ――!」

 ポポロは驚き、次の瞬間、ポチに飛びつくようにして風の首輪を外しました。銀の糸を編み上げたそれを、ルルの首に移します。ルルは立ち上がり、笑うような目と声でポチに言いました。

「借りるわね、ポチ」

 ごおっと風が渦を巻き、一頭の風の犬が姿を現しました。白い幻のような体のあちこちで、銀色の毛が光っています。ルルはそのまま頭上の黒雲を見上げると、まっしぐらに空を駆け上っていきました――

「ワン……ルル、お願いします……」

 ポチはあえぎながらつぶやくと、そのまま目を閉じて、ぐったりとなりました。痛みと出血で、とうとう気を失ったのです。オーダがあわてて手当を始めます。

 

 空を駆ける風の犬とデビルドラゴンを見上げながら、ポポロは立ちすくんでいました。右の手首がどうしようもなく痛みます。自分に何もできないのが、ふがいなくて――こんな状況なのに、何をすることもできないのが本当に情けなくて、ポポロは思わず涙を流していました。

 手首は痛み続けます。そして、それと同じだけ、少女の心も痛み続けていたのでした――。

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