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第4巻「闇の声の戦い」

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64.闇の声・1

 「できるだけあいつを湖の上に誘いだそう!」

 とフルートはポチに言っていました。目の前にはデビルドラゴンがどんどん迫っています。影の体が空いっぱいに広がってくるように見えます。

 そこへメールの操る花鳥が追いついてきました。その背中からゼンがどなります。

「どうやって倒す!? あいつに武器は効かないぞ!」

「金の石だ。これを使うしかない」

 とフルートは答えました。デビルドラゴンは闇の生き物です。光の武器、光の攻撃にしかダメージを受けないのでした。

 そこへドラゴンが真っ黒い霧を吐きかけてきました。生き物の命を奪う闇の息です。たちまち金の石が輝いて子どもたちを包みました。黒い霧が地上へ流れ落ちていきます。雨のように降りかかる霧の下で、地面の草がみるみる枯れていきます。それを見て、ポチはフルートが湖に出ようと言った意図を悟りました。ロムド軍やエスタの辺境部隊のそばで戦っていると、彼らが闇の息に巻き込まれてしまうのです。

「ぼくたちが先に行く! そっちは後方支援だ!」

 とフルートが言い残して、ポチと飛び出していきました。ドラゴンの頭をかすめるようにして飛んでいきます。ドラゴンがまた黒い息を吐きかけ、その後を追い始めました。翼が音のない羽ばたきを繰り返し、巨大な体が湖のほうへ向かいます。

 ゼンはまた歯ぎしりをしました。

「ちくしょう! 俺にも何か攻撃できないのかよ! 光の矢さえあれば……!」

 と天空の国にある光の武器を思い浮かべます。闇の敵には絶大な効果のある矢です。と、ゼンは、はっとした顔になりました。

「そうだ……呼びゃあいいんだ。呼べば聞こえるんだからな!」

 ひとりそうつぶやくと、ゼンは天を仰いで大声を上げました。

「天空王! 一大事だ! 助けてくれ!」

 ところが――空は青く静まりかえったままで、どこにも天空の国は現れませんでした。天空王の声も聞こえてきません。ゼンは繰り返し呼びました。

「天空王! 天空王、聞こえないのかよ――!?」

 とたんに、頭の中にあざ笑うような声が響き渡りました。「無駄ダ! コノ場所ハ私の支配下ニアル! 天空王ニオマエノ声ハ届カナイ。助ケナド来ルモノカ!」

 デビルドラゴンの闇の声でした。地の底から這い上がるように響いてきて、ゼンの意識を打ちのめします。とたんにゼンは身動きができなくなりました。目の前が真っ暗になり、メールの声が急速に遠ざかっていきます――

 

 気がつくと、ゼンは薄暗い空間にひとり放り出されていました。

 目の前に見知らぬ男が立っています。高貴そうな顔立ちをした、長い黒髪の人物です。黒い長衣は、天空の民の星空の衣に似ていますが、星のきらめきはありません。ただ闇そのもののような暗さを漂わせています。

 すると、男がゼンを見て目を細めました。笑ったのです。その瞳は、血のように赤い色をしていました。

「ヨク来タナ、どわーふ」

 それは闇の声でした。ゼンは思わず飛び起きて身構えました。全身が総毛立ちます。目の前にいるのはデビルドラゴンなのだと、瞬時に悟ったのです。次の瞬間には、背中から弓を外して矢をつがえていました。

「わざわざ人間の姿になってくれたわけか」

 とゼンは答えました。

「ありがたいな。これでエルフの矢が効いてくれたら最高だぜ」

「ソレハ無理ナ注文ダナ」

 とデビルドラゴンの化身の男は静かに笑いました。ゼンが放ったエルフの矢を避けようともしません。矢は男の顔をまともに貫きましたが、まるでダメージを与えることなく、そのまま向こうへ飛び去っていきました。

 ゼンは舌打ちをしました。

「通常攻撃も受けつけろよ。これじゃ決戦にならないだろうが」

 すると、男は今度は声を上げて笑いました。

「ヤハリ、オマエモ面白イナ、銀ノ勇者。ソノシタタカサハ魅力的ダ。ダカラ、アノ魔法使イモ、オマエニ惹カレタノダロウナ」

 ぴくり、とゼンが反応しました。不愉快そうに顔をしかめます。デビルドラゴンがポポロのことを言ったのだとわかったのです。

「余計なお世話だ。おまえには関係ないだろう」

 と言い返すと、男は静かに答えました。

「ソレガ、ソウイウワケデモナイ」

 ゼンはいぶかしそうに相手を見ました。デビルドラゴンが変身した男は、話をするばかりで、いっこうに攻撃をしかけてきません。これも不思議なことでした。

 男は話し続けていました。

「私ニハ、人ノ本当ノ願イヲ叶エル『力』ガアル。オマエノ願イモ叶エテヤレルノダ、どわーふ。私ニハぽぽろノ記憶ヲヨミガエラセルコトガデキル。ぽぽろニ、オマエヲ思イ出サセルコトガ、デキルノダゾ――」

 

 ゼンは立ちすくみました。ポポロにゼンを思い出させることができる――デビルドラゴンのことばが頭の中を駆けめぐります。そして、その瞬間、ゼンはいやというほど思い知らされてしまいました。自分が本当はそれをずっと望み続けていたことを。ポポロがまたゼンを思い出し、以前のように自分にほほえんでくれることを、心の底から願い続けていたことを。

 いやおうなしに過去の場面が呼び起こされ、ポポロが記憶を失って、恐ろしいものを見る目で自分を見た瞬間の衝撃がよみがえってきます。優しくほほえみかけ、親しく話しかけてくれていた少女の顔が、冷たくゼンを拒否したとき、ゼンは身を引きちぎられそうなほどの痛みを感じたのです。激しすぎる心の痛みは、本当に体の痛みとして感じられたほどでした。

 つらすぎて、泣くことさえできなくて、ゼンはただポポロを避けました。それがまたポポロとの間に距離を作り、絶対に渡したくないと思っていたフルートに彼女を近づけることになっても、それでも、ゼンにはどうすることもできませんでした。

 ポポロが記憶を取り戻せば。自分のことを思い出してさえくれれば……。寝ても覚めても、ゼンはずっとそれを願い続けていたのです。ただひたすらに、それだけを願い続けてきたのです。

 立ちすくんでしまったゼンに、デビルドラゴンは静かに話し続けていました。押しつけの響きはありません。ただ話しているだけです。けれども、その声は忍びやかにゼンの意識の中に入りこみ、静かに静かにゼンの心を絡め取っていきました。

「私ノ魔力ハ、継続ノ石ヨリモ強イ。オマエサエ望メバ、私ガ石ヲ打チ砕キ、ぽぽろヲ石ノ呪イカラ解放シテヤロウ。ぽぽろハオマエヲ思イ出ス。オマエニマタ好意ヲ抱ク。――気ガツイテイタカ、どわーふ。ぽぽろハオマエヲ好キニナリカケテイタノダゾ。ソノ続キカラ、マタ始メサセテヤロウ」

 ゼンは声を出せませんでした。ただ呆然と、ドラゴンの化身の男を見つめてしまいます。男の目がじっとゼンをのぞき込んできました。血のように赤い目の中に、ゼンのすべての意識を飲み込んでいこうとします――。

 

 ゼンは、ようやくのことで声を振り絞りました。

「馬鹿……言え。でたらめ抜かすな……」

 それだけを言い返すのがやっとでした。男はまた目を細めて笑いました。

「私ハ嘘ハ言ワナイ。タダ……ソウダナ。彼女ノ心ニハ、モウ一人ノ少年ガイル。オマエモ承知ノ通リダ。彼女ハふるーとモ想ッテイル。ソレハ事実ダ」

 ゼンは絶句しました。わかっていたことなのに、充分すぎるくらい承知していたことなのに、こうしてことばにして突きつけられると、どうしようもなく心が乱れます。握りしめた拳も全身も激しく震えます。自分でも情けないほどです――。

 男はまったく同じ場所に立ちながら、変わらない口調で話し続けていました。

「望ムガイイ、ぜん。タダ、ぽぽろガ自分ヲ思イ出スヨウニト願エバ、ソノ願イハ叶エラレル。私ニハ強イ『力』ガアル。彼女ニ、オマエダケヲ思イ出サセ、ふるーとヲ永久ニ思イ出サナイヨウニスルコトダッテ、可能ナノダ。――オマエガ望ミサエスレバ」

 ゼンは目を見張りました。まったく身動きができなくなります。ポポロがゼンだけを思い出す。フルートのことは永久に忘れたまま、ゼンひとりだけを記憶の中に取り戻す……。その様子がありありと脳裏に浮かび、そのまま、頭の芯がしびれたようになります。そうできたら――本当にそうなったなら――

 

 ドンナニ素晴ラシイダロウ。

 

 遠いどこかで闇の声が言っていました。

 ゼンはしびれる頭でその声を聞いていました。地の底から這い上がってくるそれは、デビルドラゴンのささやき声ではありません。他の誰でもない、ゼン自身の心の声でした。

 

 目の前を色鮮やかな記憶が通り過ぎていきます。春、夏、秋、冬、様々な季節の景色が次々と現れ、一瞬の泡のように消えていきます。その中に次第にはっきりとひとりの少女の姿が見え始めます。笑っているポポロ、泣いているポポロ、はにかんでいるポポロ、話しかけてくるポポロ……あらゆる表情を見せながら、少女はゼンの目の前で踊り回り、やがて、じっと見つめているゼンを振り返って、にっこりほほえんできました。優しい笑顔です。ゼンがずっともう一度見たいと望んできた、優しい優しい笑顔です――。

 すると、ポポロがゼンに向かって腕を伸ばしてきました。黒い衣の袖から、白い華奢な手を差し伸べます。ゼン、と少女は話しかけて、またにっこりと笑いました。手を取って、と言っているのが、心に直接響いてきます。

 ゼンは立ちすくんだままでした。頭がしびれていて、もう何も考えられません。ポポロ以外にはもう何も見えません。少女は目の前にいます。ゼンだけにほほえみかけて、手を差し伸べています。ゼンは、誘われるようにその手を取ろうとしました――。

 

 その時、ポポロの後ろに小さく少年の姿が見えました。金の鎧兜に身を包んだフルートでした。少年は、ゼンとポポロをじっと見ていました。二人が今まさに手を取り合おうとしているのを、ただ見つめています。そして――

 少年はほほえみました。遠く離れているはずなのに、ゼンにはフルートの青い瞳が優しく細められたのが見えました。少年は何も語りません。怒ることもなく、泣くこともなく、ただ静かにほほえみます。そのまなざしが、はっきりとひとつのことばをゼンに伝えてきました。

 ――幸せにね。

 フルートは、確かにそう言っていました。

 

 突然、ゼンの体から呪縛が解けました。また身動きができるようになります。ゼンは大きく飛びのくと、手を差し伸べているポポロから離れました。とたんに、膝の力が抜けてその場にしゃがみ込んでしまいます。まるで猛烈な力で何かと組み合ってきたように息が上がり、全身が汗まみれになっていました。

 激しくあえぎながら、ゼンはまた目を上げました。ポポロが驚いたような顔をして自分を見ていました。手は差し伸べられたままです。その向こうに、もうフルートの姿はありませんでした。

 ポポロが不思議そうに尋ねてきます。

「どうしたの、ゼン……? 何かあったの?」

 変わらない声。ほんの少しためらうような、優しい声です。けれども、ゼンは激しく頭を振りました。

「で――できるか!」

 と、あえぎながらわめきます。

「あ――あいつにだって自由はある! あいつにだって、権利はあるんだ!」

 ポポロはますます驚いた顔になりました。

「何のこと、ゼン……? わからないわ」

 ゼンは立ち上がりました。今にもまた崩れそうになる膝を両手でつかみ、必死で体を支えながらどなり返します。

「そうだ! あいつなら本当に許すかもしれないさ! 俺たちのために身をひこうとするかもしれない! でもな――あいつにだって、自分のことを考える自由はあるんだ! あいつにだって――あいつにだって、自分だけのことを考えて、幸せになりたいと望む権利はあるんだ――!」

 フルートが心に抱く、自分だけの望み。それはポポロという少女のことです。彼女を大事にしたい、彼女を守り大切にしたい。それだけは、金の石の勇者でもなんでもない、フルートという少年自身の願いでした。

 ゼンにはそれがわかっていました。だからこそ、ゼンは悔しくて――どうしても、そんなフルートにポポロを渡してしまいたくなくて、むきになって張り合ったのです。だけど――だけど――

 だけど――。

 

 ゼンはどなり続けていました。目の前でポポロがおびえたような顔をしていますが、そんなことを気にする余裕もありません。

「あいつはな、もっと自分のことを考えていいんだ! 自分の好きなヤツのことを想っていていいんだ! ポ――ポポロに俺のことだけを思い出させて、フルートを忘れさせるだと!? 冗談じゃねえや! 誰にそんな権利がある! あいつだって、ポポロを好きでいていいんだ! 本気でポポロを想っていて、かまわないんだよ――!!」

 ゼンの目の前で立ちすくんでいた少女が、いきなり薄れて消えていきました。黒い霧のようにちぎれて消えていった後に姿を現したのは、長い黒髪の男でした。男は驚いたようにゼンを見つめていました。

「意外。断チ切ルトハナ――。自信ガアッタノニ」

 ゼンはさらに大きく飛びのき、腰からショートソードを抜きました。もとより剣が効く相手とは思っていませんが、何か構えていなければ、立ち続けていることができませんでした。

「おまえなんかの思い通りになるか! あっちへ行け!」

 とゼンはわめき続けました。そう叫び続ける自分の声だけが、自分自身の体と心を支えていました。

「見てろ、俺はいつか必ずポポロに思い出させてみせるさ! もう一度、俺にほほえませてみせる! でもな、誰かの力でそれをやってもらうなんてのは、俺は、まっぴらごめんなんだよ!!」

 すると、その声に打ちのめされたように、黒い男の姿も崩れ落ちました。黒より暗い闇が渦巻きます。その闇の奥から声が聞こえてきました。

「モウ遅イ。オマエハ心ヲ開イテシマッタ。道ハ通ジタ。私ヲ招キ入レロ、どわーふ」

 闇が蛇のように長い触手を伸ばしてきました。ゼンの体に絡みつき、心の中にねじ込んでこようとします。ゼンは必死で触手をつかみ、引きはがして投げ捨てようとしました。すると、触手は突然また男の姿に戻り、ゼンとつかみ合いになりました。手と手を握り合い、力任せの押し合いになります。

 とたんに、ゼンは驚きました。力自慢の彼が、あっという間に押されていくのです。黒髪の男は、信じられないほどの力でゼンをねじ伏せ、仰向けに押し倒しました。その男の胸から、また蛇の触手が伸び始めます。するするとゼンの胸目がけて伸びてきます。

 ゼンは渾身の力でもがきました。もがきながらわめき続けます。

「やめろ! やめろ、やめろ――!!」

 

 すると、突然薄暗がりに声が響きました。

「ねえ……ねえったら、ゼン。どうしたのさ……!?」

 ぴんと張った弓弦のような、強い少女の声です。

 とたんに、必死で抵抗するゼンの腕の上で、男がどっと崩れました。黒い闇の塊になり、ゼンの上に落ちかかり、そのまま黒い水のように流れていきます――

 

 ゼンは我に返りました。

 空を飛ぶ花鳥の上です。すぐ目の前にメールがいて、心配そうな表情をしていました。

「ねえ、大丈夫かい? 青い顔してるよ、ゼン」

 ゼンはとっさにあたりを見回しました。リーリス湖に近い空の上を彼らは飛び続けていました。行く手にデビルドラゴンが見えます。長い黒髪の男ではなく、四枚翼の影の竜の姿です。その先を、闇の息をかわしながらフルートとポチが飛んでいきます――。

 メールがゼンをのぞき込んできました。

「ホント、どうしたのさ。急に何も言わなくなって、真っ青になっちゃうんだもん。心配したよ」

 ゼンはメールを見直しました。花のような色とりどりのシャツにうろこ模様の半ズボン、緑の髪をひとつに結った花使いの姫を、改めてまじまじと見つめてしまいます。

 とたんに、全身から、どっと冷や汗が吹き出してきました。ゼンは思わず崩れそうになって、目の前の少女にすがりつきました。細い体を腕の中に抱きしめて、その肩に顔を埋めてしまいます。

「いたっ――痛いったら! ちょっとゼン! いったいどうしたって――」

 悲鳴を上げて抗議しようとしたメールは、ふいに声を飲みました。ゼンがメールを抱いたまま震え出したからです。おびえるように、傷ついた子どものように、激しく震え続けています。あれほどおしゃべりな彼が、一言も口をききません。いえ、口をきけないのです。

 メールはあわててゼンの体に自分の腕を回しました。それは細く華奢な少女の腕です。それでも、メールは守るようにゼンの体を抱きしめました。何から少年を守っているのか自分でもわかりません。けれども――

 メールは目を上げて、先を行くデビルドラゴンを見ました。

 何がゼンをこんなにおびえさせたのか、なんとなく、メールにはわかった気がしたのでした。

 

 デビルドラゴンは闇の竜。人が隠す心を暴き、弱みを見せつけて虜にするのが、その怪物の戦い方なのでした――。

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