鎧の籠手も魔法のダイヤモンドの盾も投げ捨てて、ただ布の服におおわれただけの、フルートの左腕。そこにルルはかみつきました。がっぷりと風の牙を腕に突き立てます。
たちまち服と皮膚が裂け、鮮血が飛び散りました。フルートの悲鳴が上がります。ポポロは真っ青になりました。その拍子に声が出るようになります。
「やめて、フルート!」
けれども、フルートは引きません。ルルに腕を差し出したまま、そこに立ち続けています。ルルの牙が肉をかみ裂き、激しく血が吹き出してきます。少年の細い腕をかみちぎろうとします。
ポポロはまた悲鳴を上げました。もうことばにはなりません。フルートの左腕が風の犬に食われてしまうのを、ただ大きく目を見張って見つめてしまいます。
すると、フルートが口を開きました。激痛で顔色は青も土気色も通り越して、真っ白になっています。それでも、ルルを見て話しかけます。
「ぼくの……腕は……かみ切れないよ……。金の石が……守ってるから……」
フルートの胸の上で魔法の金の石が光っていました。左の腕に負った傷を、たちどころに癒していきます。かみ裂かれた肉が再生し、血が体内でどんどん作られています。
黒い風の犬のルルは、怒りに目をゆがめながら、顎にいっそう力をこめました。再生されている腕が、また激しく血を吹き出し、牙が肉に食い込んで骨まで達します。フルートはまた悲鳴を上げました。
ポポロが叫び続けていました。泣き声です。記憶をなくしていても、やっぱりこういう場面では泣いちゃうんだね、とフルートは心の中で考えていました。激痛で今にも気を失ってしまいそうです。そうならないためにも、必死で何かを考えていなくてはなりませんでした。
魔法の金の石は驚くほどのスピードで傷を癒していました。それが、腕をかみ切ろうとするルルの力とつり合って、ぎりぎりのところで抵抗し、牙を押し返しているのでした。骨に牙が食い込むのを感じます。痛みは際限なく襲いかかってきます。骨と肉が再生され、牙をじりじりと押し返し、またそこを牙が力をこめて食い破ってくる……その繰り返しなのです。
ルルはフルートの腕を食いきろうと必死になっていました。頭を振り、何度も牙を立て直します。その巨大な頭はフルートの目の前にありました。黒い闇の首輪が頭の付け根に見えています。
フルートは痛みでかすむ目で首輪を見つめ、必死で腕を伸ばしました。首輪をつかんではずそうとします。でも、やっぱり手はすり抜けます。どうしても、こちらからルルに触れることはできません。
「ポポロ……!」
フルートは叫びました。
「ポポロ……! ルルの首輪を……外すんだ……!」
少女がいっそう大きな泣き声を立てました。激しく頭を振っているようでした。できない、と叫んでいるのが聞こえました。
フルートは痛みに耐えながら叫び続けました。
「やるんだ、ポポロ……! きっと、きみになら外せるんだから……! ルルを……助けるんだ!」
少女が大きな声を上げて泣きました。泣きながら近づいてきます。今まさに闇の犬に食われようとしているフルートの腕を見ないように顔をそむけながら、両手を伸ばして犬の首輪に触れようとします。
とたんに、犬が風の体を激しく振りました。フルートの腕の骨が半分以上砕け、フルートは三度目の悲鳴を上げました。ポポロも立ちすくみます。その少女にルルが体当たりをして跳ね飛ばしました。サワルナ! と心で叫んでいるのが、ありありとわかりました。
血は際限なくフルートの腕からほとばしり、足下に大きな血溜まりを作っています。金の石が再生していなければ、とっくに失血死しているところです。一瞬遠ざかった意識を必死でつなぎ止めながら、フルートはまた話し出しました。
「ルル……ルル、聞いて……。ぼくは、迷宮の中で、君の思い出をずっと見ていたよ……。君とぼくは……たぶん、とてもよく似てるんだ……。すごく、そんな気がしたんだよ……」
ルルに何を言おうとしているのか、自分自身でもよくわかりません。ただ、何かを考えて言っていなくては、痛みで気を失ってしまいそうなので、フルートは必死で話し続けていました。思いつくままに、ことばを紡ぎ出していきます。
「相手は違っているけど……君もぼくも、誰かを守りたい……んだよね。君は、ポポロを……ぼくは、世界中の困っている人を……。そんなことできないだろう、って……笑われるんだけど……世界中の人間なんて救えるはずがないだろう、って言われちゃうんだけど……だけど、しょうがないんだ。ぼくは、どうしても、みんなを助けたいって……思ってしまうんだもの……。どうしたって、がまんができないんだ……。泣いてる声や、助けてって言ってる声を……聞かないふりなんか、どうしてもできないんだよ……。それは、ポポロを守ろうとする君も……同じだよね、ルル……」
憎しみの目がフルートを見上げてきました。オマエの話など聞クモノカ、と視線だけで言い返し、のどの奥でうなって、いっそう強く腕をかんできます。激痛がまたフルートを襲います。
少年は激しく身震いをしながら、それでも立ち続けていました。そうやって意識をたもって立っていられるだけでも奇跡的なことです。視界の隅では、ポポロが泣きながら真っ青な顔で立ちすくんでいました。すさまじい光景にすっかりおびえて、身動きすることさえできないようでした。
フルートは痛みの中で二人の少女を同時に見つめました。ポポロを愛して、ポポロを守り続けて、思いあまってついに闇に落ちてしまったルル。そんな彼女を助けようとして、強力すぎる魔法のためにルルのことまで忘れてしまったポポロ。それぞれが、それぞれの場所で立ちすくみ、涙を流し続けている少女たちです。
これでいいわけがないよ……とフルートは心の中でつぶやきました。こんな形で終わりにしていいはずがないんだよ……と。
フルートは、超人的な意志の力で、また話し始めました。激痛に震える声は、あえぎに切れ切れになっていますが、それでも優しくルルに話しかけます。
「そんなぼくをね……ゼンはいつも叱るんだよ……。人のことばかり考える、大馬鹿野郎だ、って……。自分のことも考えろ、って……。ねえ、ルル……それってさ……守ることをやめろってことじゃ、ないんだよ……。ぼくも君も、守っていいんだ……。自分の守りたい人を、守ってかまわないんだよ……」
ルルが、意外なことを聞いたように、フルートを見つめ返してきました。ほんの少しですが、腕をかむ力がゆるみました。金の石がたちどころに傷を癒して、かすかに痛みが薄らぎます……。
フルートは話し続けました。
「ぼくたちはさ……守るなって言われるほうが、つらいんだよね……そんなこと、できるわけがないから……。ただ、ゼンが言ったんだ……。その十分の一でいいから、自分のことも守れ、って。自分自身のことも考えてやれ、って……」
ルルが、こいつは何を言おうとしているのだろう、という目で見上げ続けていました。フルートはルルにほほえんで見せました。血の気の失せた、青ざめた微笑です。
「ルル……本当に、ぼくたちは守ってかまわないんだよ……。役目とか、使命とか、そんなのは関係ないんだ。守りたいと思ったら、その人を守ってかまわない。ただ……ねえ、ルル……きっと、ぼくたちはさ……もうちょっとだけ、自分のことを考えてあげてもいいんだと……思うんだ……」
ルルはフルートを見つめていました。その牙はまだフルートの腕をかみ続けています。けれども、その力はみるみるうちに弱くなっていきました。ルルの口の中でフルートの腕がたちまち再生していきます――。
フルートは、呆然としている犬の少女に、またほほえんで見せました。静かに優しく話しかけ続けます。
「ルル……ぼくたちは、自分のことも考えていいんだよ……もう少しだけ、自分のことを幸せにすることも考えていいんだ……ポポロのことだけじゃなく、他の人たちのことだけじゃなく、自分自身のことだって……やっぱり守って、幸せにしてあげていいんだよ……きっと」
ルルは信じられない話を聞いたように、ただただフルートを見つめていました。その牙からは、すっかり力が抜け落ちています。フルートは右手を差し伸べました。やっぱり、手はルルの体をすり抜けてしまいます。そんな犬の少女に、フルートは優しくほほえみかけました。
「幸せを探してみようよ……ぼくたちも。みんなと一緒に幸せになれる方法を、考えてみよう……。そうすれば、ゼンもポポロも、みんな喜んで、みんなでもっと幸せになれるような……そんな気がしてるんだよ……」
ルルの瞳から、ふいに涙がこぼれました。黒い風の犬が泣き出しています。大粒の涙が転がり落ち、霧となって消えていきます。それは透き通った青白い霧でした。ルルとフルートの姿を、たちまち柔らかく包んでいきます。
フルートは、そっと話しかけました。
「首輪を外すよ、ルル。いいね……?」
犬がかすかにうなずきました。その目からは、涙が止めどなくこぼれ続けています。その牙は、ただフルートの腕を軽くくわえているだけでした。まるですがりつくように、そばにいてもらいたい相手を引き止めているように。
フルートは黒衣の少女を振り返りました。
「外してあげて、ポポロ」
少女が前に出てきました。まだ泣き続けています。けれども、震える手を黒い風の犬に伸ばし、闇の色の首輪に触れました。――フルートが言っていたとおり、ポポロには首輪をつかむことができます。少女は夢中になって首輪の留め具をまさぐると、黒い石がついたそれを外して、遠くの床の上に投げ捨てました。
とたんに、ルルの姿が淡い光に包まれました。白く輝く光の中で、風の犬は小さく縮んで、一瞬翼のような形になり――一匹の犬の姿に変わりました。茶色の長い毛並みに銀毛が光る、優しい目をした犬です。犬は涙をこぼし続けていました。最後の最後までくわえ続けていたフルートの左手を、そっと口から放します。かすかに残っていた牙の痕が、あっという間に石に癒されて消えていきます。
「フルート……」
ルルが泣きながら少年を見上げてきました。フルートはうなずきながら、かがみ込んでルルに両腕を伸ばしました。触れることができます。今度こそ、ルルの体にさわることができます。フルートは、ルルをしっかり抱きしめて言いました。
「おかえり、ルル。おかえり……」
茶色の犬は泣きました。激しく泣きながらフルートに頭を押しつけ、体をすり寄せ、そうして声を上げて泣き出しました。泣きながら、少女は何度も繰り返しました。
「ごめんなさい、フルート……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
そんなルルを、フルートは強く抱きしめ続けました。
目の前で抱き合う少年と犬の少女を、ポポロは立ちすくんで見つめていました。何故だか、どうしようもなく心が痛みます。嬉しいはずなのに、とても嬉しい場面のはずなのに、ぽっかりとうつろなものが心の中に口を開けています。
ポポロはやっぱり思い出せないのです。泣いているルルのことも、優しく勇敢なフルートのことも、どうしても思い出すことができないのです。
ポポロはまた泣き出しそうになりました。涙ぐみながら、心の中で繰り返します。どうして? どうして、あたしはこの人たちを忘れてしまったの? こんなに優しくて素敵な人たちを、どうしてあたしは思い出せないの……?
もどかしさと悲しさに、心がひどく痛みます。そして、それと同じだけの痛みで、右の手首がうずいていました。目には見えないものが、手首の中で激しく震え、もがき苦しんでいるようでした。ポポロは手首を押さえて涙をこぼしました。ごめんなさい、と繰り返すルルの声が、自分自身のもののように聞こえてきます――。
その時、異質な気配がしました。
抱き合って喜んでいる少年と犬は気がつきません。ただ、魔法使いの力を持つポポロだけが、一瞬でそれに気がつきました。はっと振り返ると、床の上に投げ捨てた闇の首輪が、黒い霧に包まれていました。溶けるようにその形が失われていって、黒くよどむ闇の影に変わっていきます……
「フルート!!」
ポポロは鋭く叫び、首輪を指さしました。少年と犬が振り向いたとき、闇の首輪は大きな影に変わり、ふくれあがって部屋中に広がっていくところでした。みるみるうちにひとつの形をとっていきます。長い蛇のような首と頭、四本の脚を持つ太い胴体、大きく広がる四枚の翼――それは影だけで作られた巨大な竜の姿でした。
「デビルドラゴン!」
フルートは思わず叫びました。ルルが激しく震えます。ついさっきまで彼女に取り憑いていた闇のドラゴンが、巨大な影の姿を現したのでした。
フルートは素早く床の上から自分の籠手と盾を拾い上げると、後ろに立ちすくむ少女たちに叫びました。
「ここから逃げるんだ! 早く!!」
フルートにはわかっていました。これは光の武器でしか戦えない闇の敵です。炎の剣も、このドラゴンには効果がありません。フルートたちは、ただ逃げるしかないのでした。
影の竜が長い首を振って叫び声を上げました。つんざくような咆哮が迷宮に響き渡ります。
とたんに迷宮が変化しました。
むき出しの肉のような真っ赤な壁が、どす黒く変わり始めたのです。血管に似たパイプの中の血流が止まり、壁があっという間に黒く腐り始めます。赤黒いどろどろした液体と共に、天井や壁が崩れ落ちてきます。その下から現れたのは、真っ黒な溶岩の岩肌でした。
すると、またデビルドラゴンが吠えました。迷宮が激しく震えます。
と、溶岩の壁に音を立ててひびが走りました。天井から、ぱらぱらとかけらが落ちてきます。
ルルが叫びました。
「迷宮が崩れるわ!」
ここは魔王だったルルが作った迷宮です。彼女が元の姿に戻ってしまったとき、迷宮を維持する魔力が失われたのでした。それに追い打ちをかけるように、デビルドラゴンが吠え続けます。何度も迷宮が揺れ、そのたびにひびが広がって、洞窟が崩れ始めます。
「ルル、ポポロ――!」
フルートは大急ぎで籠手と盾を装備し直しながら言いました。
「どっちでもいい! 出口を見つけて逃げるんだ! 急いで!」
ポポロは真っ青な顔のまま立ちすくんでいました。今にも崩れそうになっている洞窟を、恐怖の目で見上げるばかりです。 すると、ルルがそれに飛びつき、黒い衣の裾をくわえて、ぐいと引っ張りました。
「こっちよ、ポポロ! ついてらっしゃい!」
これは自分が作った迷宮です。ルルには出口の場所がわかっていました。首輪を失ってもう風の犬には変身できないので、四本の足で、先に立って走り出します。その後を、ポポロの手をつかんでフルートが追いかけます。
デビルドラゴンの叫び声がまた迷宮を揺るがしました。
「急げ!!」
フルートは叫ぶと、崩れ始めた洞窟の中を、少女たちと共に全速力で走り出しました――。