迷宮の最果てに黒い風の犬はいました。
そこは迷宮の行き止まりでした。広い空間が広がり、壁も天井も床も、すっかり肉色の壁におおわれています。ところどころに天井から床に向かって柱がそそり立っていますが、それはまるで、体の内側にある腱や筋のように見えます。壁の内側に張り巡らされた太い血管を、音を立てて赤い液体が流れていきます。
黒い犬は激しく身を震わせていました。近づいてきます。少年と少女が、迷うこともなくまっすぐ近づいてくるのを、ルルは迷宮の奥ではっきりと感じ取っているのでした。
「来るナ!!」
とルルはまた叫びました。ごうごうとうなるような風の声です。彼方で少女がびくりと身をすくませたのを感じました。ルルの声が届いたのです。けれども、立ち止まりそうになった少女の手を、また少年が握りました。力強く少女を引いて走って行きます。ためらうことなく。惑うことなく。
ドウシテ……!? とルルは心の中で叫んでいました。ドウシテ、コッチに来るノ!? 逃ゲなさいヨ! 私は魔王ヨ! 来ナイで! コッチに来ナイデ……!!
最果ての部屋にフルートとポポロが飛び込んできました。顔を真っ赤にほてらせ、息をはずませています。ルルは、思わずすすり泣くような音を立てました。
「クルナと言ッタのに……! 何故ニゲナイ!? オマエたちは私に殺サレルんだゾ!」
と闇の声で叫びます。けれども、それは闇と呼ぶにはあまりにも悲しく響きました。逃げて。私に殺させないで、と懇願してくる泣き声でした。
フルートはポポロの手を離すと、ルルに向かって進みながら答えました。
「逃げないよ。だって、ぼくたちは君を助けに来たんだもの」
と黒い犬に向かって手を差し伸べます。ルルは大きく身震いをしました。
「ダマレ、偽善者! 私を助ケテドウスル!? 私ガ何ノ役に立ツ!? 私はオマエたちの仲間デモナイのに!」
フルートは目を見張りました。泣いているような闇の犬へ、そっと近づきながら話しかけます。
「そんなことを気にしていたの……? 自分が何の役にも立たないって?」
風の犬は何も答えません。ただ、ごうごうとすすり泣くような音を立てるだけです。その姿が、ひときわ黒く染まったように見えました。
フルートは静かに話し続けました。
「そんなこと、関係ないんだよ……。役に立つから助けに来たんじゃないんだ。君を助けたいから来たんだよ」
「ナゼ!?」
とかみつくようにルルが吠えました。
「私ニハ、モウ何の価値もナイ! 私はモウ何ノ役にも立タナイ! そんな私ヲ助けて、ドウスルと言うノダ!? 私は――私ハ、ポポロにサエ忘れられてシマッタノニ!!」
黒衣の少女が、はっとしたように立ちすくみました。青ざめ、また泣き出しそうな顔になって、右の手首を強く握りしめます。
それでもフルートは引きませんでした。
「ポポロは君を助けに来るために魔法と記憶を忘れたんだ。君のためだったんだよ、ルル」
「ダマレ! ダマレダマレ――!!」
ルルは激しく渦を巻くと、突然空に舞い上がりました。真っ黒なつむじ風になって、天井の高い部屋の中を飛び回ります。
「私ニハ、モウ何もナイ! ポポロもナイ! 家もナイ! 何ニもナイ! 私ハ……カラッポ……!」
ふいに、風の犬の姿が崩れました。真っ黒な闇の塊になり、あっという間に巨大な竜のような形に変わっていきます。それは、翼が四枚あるドラゴンの姿でした。黒い影でできた長い首を伸ばし、まっすぐフルートに襲いかかってきます。とっさにフルートは金の石を呼ぼうとしました。
すると、その目の前に突然、小さな少女が飛び出してきました。フルートの前に立ちふさがって、大きく両手を広げます。まるで、闇のドラゴンからフルートを守ろうとするように――。
「だめ、ルル! だめよ!」
と少女が叫んだとたん、黒いドラゴンが消えました。後にはまた、黒い霧が渦巻くような風の犬が現れます。
「邪魔をスルナ!」
とルルが叫ぶと、ごおっと激しい風が巻き起こり、最果ての部屋の中を吹き荒れました。少女の黒い衣の裾がちぎれそうなほどはためきます。それでも少女はどきません。
すると、ルルの声がまた憎しみを帯びました。
「ソラ、そうやってフルートを守ろうとスル。私ハモウ必要がナイんだ。わかってル――ワカッテルトモ!!」
とつぜん、ルルがポポロに襲いかかりました。風の牙ではなく、前足でポポロを押し倒し、大きな頭で跳ね飛ばしてしまいます。ポポロは悲鳴を上げて床に倒れました。
「ポポロ!」
思わず駆け寄ろうとしたフルートに、ルルがかみついてきました。鋭い風の牙が鎧の背中をこすっていきます。魔法で強化されているはずの鎧に、浅い長い傷がつきました。
フルートはルルに向き直りました。剣は抜きません。丸腰のままルルに向かって叫びます。
「落ちつくんだ、ルル! ぼくたちの話を聞いて――!」
けれども、ルルはごうごうと風の音が立て、狂ったように部屋の中を飛び回るばかりです。憎しみに充ちた目が、またフルートを見据えました。うなりを立てて襲いかかり、風の刃の体をひらめかせます。鎧にまた鋭い傷が走りました。
「ルル!」
ポポロが悲鳴のように叫んで起き上がってきました。黒い風の目が、今度は少女を見据えます。怒りと憎しみに狂って、まともに見ることができなくなっている目です。
「いけない!」
フルートはとっさにポポロの前に飛び出して、ダイヤモンドの盾を構えました。風の刃が盾に跳ね返され、フルートは反動で後ろのポポロと一緒にひっくり返りました。一瞬遅ければ、ポポロが切り刻まれて血に染まっていたところです。
フルートは跳ね起きると、ルルを見上げてまた叫びました。
「やめるんだ、ルル! ポポロを殺す気か――!?」
すると、風の犬はまた渦を巻き、ふいに部屋の空間の一点に止まって静かになりました。正気に返った目で、苦しそうにフルートを見下ろします。
「私ハ、もうすぐ完全ニ闇ニナル」
と犬の少女は言いました。
「そうしたら、モウ何もワカラナイ。ポポロも、あなたたちも、何モワカラナクナル。私は、魔王ニナッテシマウ――」
風のすすり泣きが響きました。
「剣を抜イテ、フルート。炎の剣デ、私ノ首輪を切ッテ。私が魔王ニナッテシマウ前に――私がポポロヲ殺シテしまう前ニ――私を殺して、フルート――!」
フルートは立ちすくみました。その後ろではポポロが座りこんで目を見張っています。その左手は右の手首を強く握りしめたままです。
フルートは首を振りました。
「できない……そんなこと、できるわけないよ!」
「私ヲ殺しなさい!」
ルルが鋭く叫びました。昔、年下の仲間の少年や少女たちを叱りつけたときのように、お姉さんの口調そのままで命じてきます。
「それシカ、道はないノ! 魔王を復活させてはイケナイのよ! ポポロを死なせナイで! お願いよ、フルート――私ガ意識を失ッテシマウ前に――私ヲ殺して!」
黒い風の犬が、ずいとフルートに迫ってきました。咽を上げて首の周りの首輪を差し出してきます。それは黒い体の中でもひときわ濃く黒く沈んだ、闇の首輪でした。首輪の正面で、黒い石をはめ込んだ金具が鈍く光っています。首輪の留め具です。
それを見たとたん、フルートは思わず手を伸ばしました。留め具があるならば、首輪をはずすことができるかもしれない――そう考えたのです。けれども、フルートの指先はルルの風の体をすり抜けてしまって、首輪をつかむことも、留め具に触れることもできません。
ルルがまた叫びました。
「急いで、フルート! 闇がマタ追いついて来ルワ! 私は私ヲ押さえられなくナル!早く――!!」
フルートは剣を抜きませんでした。必死で手を伸ばし、ルルを首輪から解放しようとします。それでも、やっぱり首輪はつかめません――。
ごおおっと風がすすり泣きました。つむじ風がフルートを跳ね飛ばし、黒い犬はまた天井まで駆け上りました。闇の声でどなります。
「憎イ、憎イ! オマエたちはミンナ憎イ! 殺ス! 一人残らずコロシテヤル!!」
憎しみの闇の目でフルートを見据え、猛烈な勢いで襲いかかってきます。フルートの鎧の胸に、また風の牙の傷がつきました――。
その傷を見つめたフルートが、ふいに、はっとした顔つきになりました。青ざめながら後ろのポポロを振り返り、何かを言いたそうに唇を震わせます。
「なに、フルート!?」
ポポロは必死で聞き返しました。フルートの言うことは、一言も逃さず聞き取ろうとします。
フルートは、一瞬のうちに迷いを振り切ると、ポポロに言いました。
「ぼくがルルの動きを止める。その間に君がルルの首輪を外すんだ。君はルルにさわれる。きっと、君ならさわれるんだ――!」
ポポロはこれ以上ないというほど真っ青な顔になりました。あのルルにさわる? あんなに怒りくるって、押さえようもなく暴れ回っている闇の犬に?
「で、でも、フルート……! 動きを止めるって、どうやって……!?」
すると、フルートは上空のルルの動きをにらみながら、大急ぎで左の腕から装備を外し始めました。ダイヤモンドの盾も金の籠手も床の上に投げ捨ててしまいます。
「フルート!?」
ポポロがまた仰天すると、フルートは言いました。
「ぼくはルルにはさわれない。だけど、風の犬は攻撃する相手には触れることができるんだ。だから、こうするんだよ――!」
フルートは風の犬に向かって駆け出すと、何の装備もない左の腕を高くかざしながら呼びかけました。
「来い、ルル! ぼくの腕をかみきれるもんなら、やってみろ!!」
ポポロが息を呑みました。思わず、やめて! と叫ぼうとしますが声が出ません。
ごごぅ、と上空で風の音が上がりました。真っ黒な霧の渦が突進してきて、フルートのむき出しの腕に襲いかかります。とたんに、真っ赤な血が飛び散りました――。