うごめき、血管を赤い血が通い続ける生きたトンネルを、少年と少女は走り続けました。ポポロの手を握りしめながら、フルートが言います。
「ここはデセラール山の地下に広がってる迷宮なんだ。ものすごく広い迷路になってる。でも、君ならきっとルルのいる場所がわかるはずなんだ。ルルを見つけてくれ、頼む――!」
ポポロは驚いた顔になりました。
「え、で、でも、あたしにはそんなことは……」
「君にはできるんだよ!」
とフルートは強く繰り返しました。
「君は魔法使いなんだ。たとえ魔法そのものは忘れていても、魔法使いとしての力はなくしていない。それに、ルルはずっと君と生きてきた犬なんだもの。絶対に君にならわかるんだよ!」
二人は立ち止まりました。ポポロはまだとまどった顔をしていましたが、フルートに真剣な目で見つめられて、素直にうなずきました。
「わかったわ。やってみる」
そのまま目を閉じて、心の中でそっと尋ねてみます。ルル、どこにいるの……? と。
とたんに、すさまじい声が心の中に響き渡りました。
「私ヲ呼ブな!! クルナ!!」
ポポロは思わず悲鳴を上げて飛び上がってしまいました。今にもかみつかれそうなほど激しい声です。フルートがしっかり手を握ってくれていなければ、驚きのあまり気を失ってしまうところでした。
「いた?」
とフルートがポポロをのぞき込んできました。少女は震えながらうなずきました。
「呼ぶな、ってどなられたわ……。だけど……」
緑の宝石の瞳が、ふいにうるみました。おどろおどろしいトンネルの向こうへ目を向けながら、切なげに続けます。
「あの人、泣いてる……間違いなく泣いてるわ。来るなって言われたんだけど、あたしには、こっちに来てって言ってるように聞こえたの。こっちへ来て、自分を助けて、って……」
ポポロは涙をこぼしません。それは彼女がまだ記憶を取り戻していない証拠です。それでも、少女はルルを想っていました。忘れてしまった記憶の彼方で、残り続けたルルとの絆をつかみ直しています。
フルートはうなずきました。
「自分の感じるものを信じるんだ。君が行きたいほうへぼくを案内して。きっと、そこにルルがいるよ」
ポポロもうなずきました。そして、もう一度、トンネルの彼方へ目を向けると、すっとひとつの方向を指さしました。
「こっちよ」
そこで、少年と少女はまた走り出しました。複雑に枝分かれし、広く深く広がっている迷宮の中を、迷うことなく走り続けていきます。
すると、ふいに目の前の景色が変わりました。森に囲まれた湖が現れます。リーリス湖ではありません。もっと小さく、もっと静かな湖です。ポポロが驚いていると、フルートが答えました。
「幻だよ。ルルの記憶なんだ。花が咲いてる。ここは天空の国かな……?」
湖の周りに色とりどりの花が咲き乱れていました。地上ではあまり見かけたことのない花です。天空の国に咲く花のように、フルートには見えました。緑の森は深く、湖と同じくらい静かです。
すると、風の音を立てて人がやってきました。風の犬のルルに乗ったポポロです。ルルの体はまだ真っ白でした。
「あたし……!?」
フルートと手をつないだポポロが目を丸くします。フルートはうなずき返しました。
「うん、君だ。そして、君を乗せてるのがルルだ。まだ闇にとらわれていない頃のことなんだね」
幻の中で、ポポロはルルの背中から下りて湖の畔に立ちました。心配そうに風の犬を見ます。
「大丈夫、ルル? 西の大海から戻ってきてから、本当に調子が悪そうよ……。家に帰りましょうか?」
「大丈夫よ」
とルルは答えました。けれども、風の犬は大きく肩で息をしていて、それに合わせて体の中で白い霧のようなものが激しく渦巻いていました。ポポロは涙ぐむと、しゃがみ込んでルルを抱きしめました。
「とても大丈夫そうには見えないわよ……。具合が良くないんでしょう? フルートたちを助けるのに、天空王様に力を送り込まれてからよね。あたしも少しの間、調子が変だったけど、今はもう何でもないのよ。どうしてルルだけがこんなに具合が悪そうなの?」
「大丈夫、なんでもないったら」
とルルは少し怒ったような口調で答えました。無理やり荒い息を押さえ込んだのが、見ているフルートにはわかりました。
「いいから、早く練習を始めなさいよ。ここなら周りに人がいないんだから」
どうやら二人は、ポポロの魔法の練習のために、人里離れた湖までやってきたようでした。
ポポロはルルの首を抱いて泣いていました。しがみついたまま離れようとしません。すると、ルルはふいに優しい目になりました。ポポロの頬の上の涙をなめてやると、そっと話しかけます。
「馬鹿ね、ポポロ。私は大丈夫なんだったら。さ、本当に練習を始めなさいよ。そのために、せっかくここまで来たんでしょう?」
安心させるような暖かい口調です。ポポロに向かって目でほほえんで見せます。ポポロは、うん、とうなずくと立ち上がりました。もう一度、心配そうにルルに言います。
「絶対に元の姿に戻らないでいてね。風の犬の姿なら巻き込まれないから。そのままでいてね……」
そして、ポポロは黒い服に包まれた両腕をまっすぐ湖に差し伸べると、声高く呪文を唱えました。
「レオコー! テーイツリオコーレクツオーチミニミウズミ!」
とたんに、伸ばした指の先から淡い緑の光がほとばしりました。まるでつむじ風のように湖の表面を走っていきます。あっという間に湖の表面が白く変わり、あたりが一気に寒くなってきます。冷凍の魔法を使ったのです。
またたく間に湖が凍りつきました。ポポロの目の前に、まるで道を作るように、二メートルほどの幅でまっすぐ氷の橋ができあがっています。その両脇では、湖の水が冷たく揺れ続けています。ポポロの魔法は強力でコントロールが悪いのが特徴です。湖の上に氷の道を作る形で、自分の魔法を制御する練習をしたのでした。
ルルが歓声を上げました。
「やったわね、ポポロ! 狙ったとおりに魔法が使えたわね!」
嬉しそうな声を上げて、ポポロの周りを飛び回ります。けれども、ポポロはしょんぼりと下を見ました。
「ううん、だめよルル。ほら、花が凍ってる……。やっぱり巻き込んじゃったわ」
と自分の足下で固く凍り付いている花畑を眺めます。湖の上だけを狙ったのに、やっぱり自分の周囲まで魔法の中に巻き込んでしまったのでした。
すると、ルルが強い口調で言いました。
「何言ってるのよ、ポポロ! あなたにしたら、これは大成功じゃないの! 湖の他の部分は凍ってないわよ。すごいじゃないの!」
自分のことのように嬉しそうに言って、ポポロの小柄な体にじゃれつきます。
ポポロも、やっと笑顔になりました。
「うん……ありがとう、ルル。魔法はもうひとつ使えるから、あたし、もう一度やってみるわね。今度はもっともっと力を限定させてみる。フルートたちはいつもあたしのすぐそばにいるから、絶対に巻き込まないようにしないといけないんだもの」
とたんに、ルルが、はっとした顔になりました。また湖に向き直った少女の後ろ姿を見ながら、じりじりと後ずさっていきます。少女は振り向かず、ただ湖を見つめて、自分の魔法を制御することに集中しています。
そんな様子に、ルルは立ち止まり、ふっと淋しそうな目になりました。静かにつぶやきます。
「そうね……ポポロももう一人前なんですもの。私の役目もそろそろ終わりなのよね……」
とても淋しそうな、けれども、何故だかほんの少し嬉しそうにも聞こえる声でした。見守る目でポポロを眺めます。
「あなたには仲間ができたんですものね……。仲間のためになら、がんばれるんですものね。あんなに泣き虫だったあなたが、泣きもしないで……」
それはほとんど声にならないつぶやきでした。魔法に夢中になっている少女の耳には、まったく届きません。けれども、その場に居合わせているフルートとポポロには、ルルの声ははっきりと聞こえてくるのでした。それは、優しいあきらめの声でした。自分から妹が巣立っていくことを、淋しがりながらもどこかで喜んでいる、姉の心の声でした。
ポポロはフルートと手をつないだまま、幻の犬の姿を見つめ続けていました。覚えてはいません。ポポロはルルをまったく思い出せません。けれども、ルルが考えていること、ルルの気持ちは、ありありとポポロの胸の中に伝わってくるのでした。
すると、フルートの手が、ぐっと力をこめてポポロの手を握りしめてきました。驚いてそちらを見ると、フルートは食い入るような目でルルを見つめ続けていました。唇をかみしめて、心の中で何かの決意を固めているように見えます――。
すると、その時ふいに、どこからともなく異質な声が聞こえてきました。まるで地の底から這い上がってくるような、深く低い声です。
「ソレデヨイノカ?」
と声は尋ねていました。ルルは、ぎょっとした顔になってあたりを見回しました。
「誰!?」
と叫び返します。ところが、不思議なことに、すぐ目の前で魔法を使っているポポロは振り向きません。地の底からの声もルルの声も聞こえていないのです。ルルは叫び続けました。
「誰なの!? どこにいるの!?」
すると、姿の見えない低い声が答えました。
「私ハ、オマエノ中ニイル。私ハ、オマエノ心ヲ知ル者」
その場面を見ているフルートとポポロは、背筋がぞくぞくしてくるのを止めることができませんでした。闇の声です。魔王に変身しかけているルルの声よりも、もっと深く、もっと暗く、もっとまがまがしいものに充ちた、暗黒の世界から響く声でした。
これがデビルドラゴンなんだ――! とフルートは心の中で叫んでいました。黒い霧の中心で砕けた闇の卵から生まれた、実体のない闇の影。人の心の弱さにつけ込み、ゴブリンやルルを魔王に変えた張本人です。
デビルドラゴンの声は、必死であたりを見回すルルに、ささやくように言いました。
「ぽぽろガオマエカラ去ッタ後、オマエハ、ドウサレルノダロウナ……?」
フルートとポポロは、はっとしました。幻の中のルルも、どきりとした顔になりました。立ちつくしたまま、凍りついたように動かなくなります。それきり、デビルドラゴンの声は聞こえなくなり、あっという間に幻が消えていきました――。
また、少年と少女の目の前に幻が現れてきました。今度はポポロの家の居間の風景です。テーブルを囲んで、ポポロと、ポポロのお父さんとお母さんが話し合っていました。
「絶対にルルは具合が悪いのよ」
ポポロはすでに大粒の涙を流していました。両親に訴えるように言い続けます。
「どうしたらいいの? ルルは病気じゃないって言い張るのよ。お医者様にも行かないって……! どうすればいいの!?」
次第に声が高くなってくる娘を、お母さんがそっとたしなめました。
「落ちついて、ポポロ。ルルが目を覚ましてしまうわよ」
けれども、そう言うお母さん自身も、金の瞳を涙でうるませています。
お父さんが、溜息まじりで口を開きました。
「普通の医者ではどうすることもできないだろう。おそらく、天空王様に力を流し込まれたのが原因なのだろうからな……」
「でも! ルルは最近ずっと何も食べてないのよ! 風の犬にもなれないし、外にも出かけようとしないし……! このままじゃ、ルルが死んじゃうわ!」
とうとうポポロは、わっと声を上げて泣き出してしまいました。
そんな自分自身の姿を驚いたように見ていたポポロが、ふいにフルートの腕を取りました。
「見て……!」
指さした先の、扉の隙間から、ルルが部屋の中をのぞいていました。やつれたような細い姿です。長い茶色の毛並みも、艶がなくなって、白っぽくなっています。ただ、黒い大きな瞳が、部屋の中で話し合っている家族をじっと見つめ続けていました。病的なまでに大きくうるんだ暗い目です。
部屋の中の人たちは、そんなルルには気がつきませんでした。ポポロのお父さんが言いました。
「やはり、天空王様にお見せするしかない。明日、天空王様のところへルルを連れて行こう――」
すると、ルルが静かに扉の向こうから消えていきました。
フルートは思わずポポロと一緒に部屋の中に飛び出していきました。幻の中の人々はフルートたちには目も向けません。そのわきを駆け抜けて、フルートはルルを追いました。幻の扉を開けようとすると、手がすり抜け、体がすり抜けて、奥の通路に立っていました。ポポロがそのすぐ後ろに続いて、行く手の部屋を指さします。
「ルルはあそこよ!」
とポポロの部屋を指さします。扉を突き抜けてそこに飛び込むと、ルルが部屋の真ん中にうずくまっていました。茶色い体を震わせながら、涙をこぼしてすすり泣いています。
「ルル……!」
フルートは駆け寄って手を伸ばしました。けれども、やっぱり腕はすり抜けてしまいます。目の前で泣く犬の少女は、過去を映した幻に過ぎないのです――。
すると、またどこからともなく、暗い声が聞こえてきました。前よりもはっきりと、力を持って呼びかけてきます。
「ヤハリ、オマエヲ天空王ノモトヘ連レテ行クと言ッタゾ。オマエノ役目ハ尽キタノダ。オマエハ、天空王ノ魔法カラ生マレテキタ犬。天空王ノ手デ、マタ元ノ、タダノ犬ニ戻サレルゾ。ぽぽろモ家族モ、スベテ忘レテ、わんト吠エルダケノ犬ニナルノダ――」
ルルが、ぶるぶると全身を震わせました。激しく頭を振ります。
「いやよ、いやっ! 自分をなくしてしまうなんていやっ……! ポポロを忘れたくない! お父さんとお母さんを忘れてしまいたくない! 私は――私は、この家の犬よ――!!」
「ダガ、オマエノ使命ハモウ終ワッタノダ。ぽぽろヲ守ル役目ハ、新シイ仲間タチニ委ネラレタ。古クナッタ外套ハ捨テラレルノガ宿命ナノダ」
ルルはすすり泣きました。圧倒的な闇のことばに言い逆らうこともできなくて、ただただ涙を流して泣き続けていました。
そんなルルへ、デビルドラゴンの声がささやきました。そっと、優しいほどの声です――。
「私ガ力ヲ貸シテヤロウ。小サナ犬ヨ。ソウスレバ、マタぽぽろヲ取リ戻スコトガデキルゾ。オマエノ大切ナ、大切ナぽぽろヲ」
ふいにルルの目の前に巨大な黒い影がわき起こりました。それはまるで大きな翼の竜のように見えました。ルルが目を見張ってそれを見上げます――。
フルートは、とっさに背中から炎の剣を抜きました。思い切り竜の影に切りかかります。けれども、刃は影を通り抜けただけで、敵を切り裂くことも炎で包むこともできません。目の前の光景は、本当に、幻に過ぎないのです……。
ルルと黒い竜の影が霧と消えてしまってからも、フルートとポポロは身動きができませんでした。まがまがしい気配が残り続けています。フルートの胸の上で、彼らを守るように金の石が光り続けています。
ポポロがふいに右の手首を押さえて泣き出しました。手首がひどく痛んでいます。何も怪我はしていないようなのに、理由など何もないようなのに――。ルルの幻を見ているうちに、どうしようもなく手首が痛んできて、我慢することができなくなったのでした。
フルートはポポロを見ました。泣いている少女の姿にちょっとつらそうな顔をしますが、それでもきっぱりと尋ねます。
「ポポロ、ルルは――本物のルルは、どこにいる?」
ポポロは泣きながら目を上げました。手首はどうしようもなく痛みます。それをこらえて、ポポロは答えました。
「あっちよ……あっちの、迷宮の一番奥……」
「よし、行こう」
フルートは剣を鞘に収めると、ポポロの肩を抱いて進み始めました。少女が手首を押さえているので、手をつなぐことができなかったからです。
そのとき、少女はふと気がつきました。焼けつくような手首の痛み。それとまったく同じだけの痛みを、自分の心にも感じてしまっていることを――。
血の色のトンネルは、奥へ奥へと続いていました。