「フルートたちの様子は見えるか?」
ゼンが船の上から湖上を見渡して言いました。メールが首を振ります。
「ダメだよ。けっこう遠くまで行っちゃったみたいだ。どこにも見あたらないよ」
彼らは、湖に落ちた貴族の少年と少女を救い上げた後、またポチと飛び立っていったフルートの心配を始めたのでした。
すると、ポポロが湖の彼方を見つめながら言いました。
「ポチが戦ってるわ。ルルの攻撃をかわしてる……あっ、血が! ポチが怪我をしたわ――!」
「ポポロ、見えるの!?」
「ポチがやられたのか!?」
メールとゼンは驚きました。ポポロは湖の上のひとつの方角を見つめ続けています。少女は、魔法使いの目で、人には見えないほど遠くの情景を見通しているのでした。
「大丈夫。フルートが金の石で治したわ……あっ、今度はポチがルルにかみついた! 何か叫んでる!」
「あっちに向かってくれ! 全速力だ!」
とゼンは船長にどなりました。船長はただちに舵を切って、ポポロが見つめる方角へ船を走らせ始めました。
すると、後ろから大声が聞こえてきました。ようやく揺れがおさまってきた船の上で、カミチーノ卿が手を振り上げてどなっていました。救い上げた子どもたちをこちらへ返せ、と言うのです。ゼンは振り返ってどなりました。
「うるせえ! 今はそれどころじゃないんだ! 心配ならついてこい!」
灰色の帆の船は、一瞬も船足をゆるめることなく、まっしぐらにフルートたちがいる方角を目ざします。
船の舳先(へさき)に立ちながら、ポポロは青ざめた顔をしていました。
「ルルは他の船を襲ったわよ……大きな船がマストを切られたわ。ポチが立ちふさがって防いでる。ああ、また血が……!」
ポポロの目に涙が浮かびました。横に立つメールを見上げます。
「どうしてなの? どうして、ルルはあんなに乱暴なことばかりするの? 本当にポチやフルートや他の人たちを殺そうとしてるわよ」
メールは頭を振りました。
「そんなの、あたいたちにだってわかんないよ。あたいたちこそ、それが知りたいんだ――」
きりっと彼らの後ろで鋭い音がしました。ゼンがエルフの弓を外して矢をつがえているところでした。
「ゼン」
とメールが驚くと、ゼンは怖いほど冷静な声で言いました。
「ルルがフルートを殺そうとしたら、俺がこれでルルをしとめる。エルフの矢は百発百中だ。ルルの闇の首輪を断ち切ってやる」
ポポロが目を見張って、真っ青になりました。メールがまた泣き出しそうな顔になって叫びます。
「あたいたちはルルを助けに来たんだよ、ゼン!」
「そんなのはわかってる。だが、あいつを助けたがってるのはフルートだ。そのフルートをルルが殺すというなら、その前に俺がルルを殺してやるんだよ。そのために、俺は来ているんだ」
冷静そのものの口調は、どんなことばも強く拒絶していました。少女たちは思わず声を飲み、それ以上は何も言えなくなってしまいました。
ゼンが行く手を見て目を細めました。湖の上に小さな点のように黒いものが見え始めています。みるみるうちにそれは、湖上を飛んでくるルルの姿に変わりました。まっしぐらにこちらに向かってきます。そして、その後を追うようにして、白いポチが飛んでくるのが見えました――。
ゼンは驚きました。予想外の展開です。ポチたちがルルを追いかけています。
ルルが迫ってきました。黒い犬の上半身と竜のような下半身がはっきり見えてきます。
本当にゼンたちについてきていたカミチーノ卿の船が、また大混乱になっていました。風の犬だ、助けてくれ、と甲板を人々が右往左往します。船がまた大きく揺れ出します。
「ああもう、あいつらったら、ホントにうるさい!」
メールはいまいましそうな顔で振り返って、次の瞬間、ぎょっとしました。そこにもう黒く渦巻くルルがやってきていたからです。カミチーノ卿と自分たちの船の周りをぐるぐると飛び回り始めます。
「襲ってくるつもりか?」
ゼンが厳しい顔でルルを見上げながらエルフの弓矢を構えました。
追いついてきたポチの背中では、フルートが叫んでいました。
「よせ、ルル! やめるんだ――!!」
ごおっと風のうなりをあげて、突然ルルがカミチーノ卿の船の帆に体当たりをしました。鋭い音を立てて、白い帆が引き裂かれ、不安定になっていた船が大きく左に傾ぎます。
「ポチ! 支えるんだ!」
とフルートがまた叫びました。ポチが、ワン、と吠えてカミチーノ卿の船の左側に回ります。裂けずに残った帆に向かって風の体をぶつけて、船が転覆しないように押し返します。
すると、そこへまたうなりをあげて、ルルが飛びかかってきました。黒い風の犬が舞い下りた先は、灰色の帆の船の上でした。舳先に立って見上げていた小さな少女を、あっという間に、長い体で巻き取ってしまいます。少女は悲鳴を上げました。
「ポポロ!!」
ゼンとメールが叫びました。ルルは黒衣の少女を抱えたまま湖上に飛び出していきます。
「この――!」
ゼンは弓を引き絞って矢を放とうとしました。狙ったものは絶対に外すことのない魔法の弓矢です。
ところが、その瞬間、こんなつぶやきが聞こえてきました。
「ソラ、やっぱり私をコロソウとする……」
闇のルルの声でした。ひどく弱々しく悲しげに響きます。ゼンとメールは思わず驚きました。ゼンは矢が撃てません――。
突然、フルートの声が響きました。
「ポチ、追って!!」
そして、激しい水音を立てて、ポチの背中から湖へフルートが落ちました。ポチがまっしぐらにルルの後を追い始めます。ポポロをさらったルルが向かっていくのは、デセラール山の方角です。
水に落ちたフルートが浮いてこないので、メールがわめきました。
「やだもう! そういや、フルートも泳げないんじゃないのさ!」
そう言うなり、また渦王の王女は湖の中に飛び込みました。浮上しようと水中でもがいていた少年に、あっという間に泳ぎ寄ると、その手をつかんで水上まで引っ張り上げます。
「ホント、あんたってば無茶苦茶だよね」
とメールは水面でフルートにつくづく言いました。
「ゼンの気持ちがよくわかるよ。危なっかしくて、目が離せないじゃないのさ」
「え、だって、ぼくが乗ってたら遅くなって、ポチが追いかけられないし……それに、ぼくは人魚の涙を飲んでるから溺れないし……」
大まじめで答えるフルートを、メールは本当にあきれた顔で見つめると、後はもう、何も言わずに船まで引っ張っていきました。その表情は「馬鹿につける薬はない」とありありと言っていました。
船長は湖上で舵と帆を操って船を停めていました。フルートは船腹の小さなはしごを伝って、自力で船に上がりました。メールも続いて上がってきます。
船上では、ゼンが青ざめた顔で弓矢を握りしめていました。
「ゼン……」
フルートが声をかけると、ドワーフの少年は歯ぎしりをしました。
「撃てなかったんだ!」
と、どなります。
「ポポロを連れ去られそうになったときに撃とうと思ったのに、あいつの声が聞こえたんだ――! あいつ、本当に泣いてたぞ! 何なんだよ、ホントに! あいつ、いったい何を考えてるんだ!?」
弓矢を握りしめた手が激しく震えます。
メールが静かにうなずきました。
「あたいも聞いたよ。ルルの声。やっぱり私を殺そうとするんだね、って泣いてた……。絶対になんか訳があるんだね。魔王になっちゃうような、深い訳が――」
悲しげなルルのつぶやきは、二人の耳に、泣き声として伝わってきたのでした。
フルートは船べりを強くつかんで、デセラール山の方角を見つめました。ルルやポチの姿は、もうどこにも見えなくなっています――。
やがて、待ち続けていたフルートたちのところへポチが戻ってきました。自分一匹だけでしたが、船の上で白い子犬の姿に戻ると、すぐにこう言いました。
「ワン! ルルたちには追いつけなかったけど、山の中腹に入り口を見つけました! ルルとポポロの匂いがしたから、あそこから山の地下に入ったんだと思いますよ!」
「ユギルさんが言っていた迷宮の入り口だ」
とフルートは言いました。銀髪の占者は、ルルはデセラール山の地下に迷宮を作って潜んでいる、と占ったのです。
すると、ポチは必死に言い続けました。
「ワン、一刻も早く行きましょう! ルルがものすごく変なんです! ものすごく怒りながら――泣いてるんだ! ずっとずっと、泣き続けてるんです!」
子どもたちは思わず顔を見合わせました。
フルートは仲間たちに言いました。
「行こう――助けに!」
子どもたちはいっせいにうなずくと、即座に動き出しました。ゼンは矢を背中の矢筒に戻し弓を背負い直します。ポチはまた白い幻のような風の犬に変身し、その背中にフルートとゼンがまたがります。
メールは、貴族の少年を助け上げたときに一緒に甲板に引き上げられた花たちに呼びかけました。
「おいで、花たち! あたいと一緒に来ておくれ!」
とたんに、ザーッと水が流れるような音を立てて花が寄り集まり、花鳥の姿になりました。その上に花使いの姫が飛び乗ります。
「行くぞ!」
とフルートが叫び、風の犬と花鳥は子どもたちを背に船を飛び立ちました。みるみるうちに、デセラール山に向かって湖上を遠ざかっていきます――。
湖の上に、灰色の帆の船と貴族たちを大勢乗せた船の二隻が揺れていました。貴族たちが乗った船は、メインマストの大きな帆は裂けたものの、ポチがとっさに支えたおかげで、転覆はまぬがれていました。
灰色の帆の船の甲板で、貴族の少年と少女は呆然と座り続けていました。目の前で繰り広げられた出来事とやりとりを、夢の中のことのように眺めるだけです。けれども、武器や防具を身につけた奇妙な少年や少女たちが、空飛ぶ生き物の背に乗って遠ざかっていくと、ようやく二人の子どもたちは息を吹き返したような気持ちになりました。
湖の上を風が吹き渡ってきました。全身ずぶ濡れになった子どもたちは、寒さに思わず身震いをすると、腹をたてたようにあたりを見回しました。この不可解な状況を説明してくれる人を探したのです。
船長が、舵のそばに立って、遠ざかっていく者たちを見送っていました。貴族の少年は横柄に呼びかけました。
「おい、あいつらはいったい何者なんだ?」
まだ子どもでも、特権階級ならではの、いっぱしの口調をしています。すると、船長は少年たちを見ました。少し考えてから、こう答えます。
「坊ちゃん方。いくら貴族でも、命の恩人のことを『あいつら』なんて呼んじゃいけないってことくらい、教わってきていないんですかい?」
静かですが、奥に迫力を秘めた言い方でした。貴族の子どもたちは思わずたじろいで、甲板の上で身を寄せ合いました。
船長は、空を見上げながら続けました。
「あの人たちは、金の石の勇者の一行ですよ。噂くらいは聞いたことがあんなさるでしょう? あんなに小さくても間違いはない。あの人たちこそ正真正銘の勇者の一行なんでさあ――」
かたわらの大きな船からどなり声が響いてきました。カミチーノ卿が、灰色の帆の船の船長に向かって、さっさと子どもたちをこっちに連れてこないか、無礼者め、とわめきたてていました。他の貴族たちは、自分たちの船の船長に向かって、風の犬のいる湖上に乗り出すとは何事だ、我々を殺すつもりだったのか、と詰め寄っていました。それこそ、まったくの言いがかりです。かわいそうに、船を転覆させないように必死で舵を操った船長は、客からつるし上げられて目を白黒させていました。
それを見た灰色の帆の船の船長は、頭を振って、子どもたちにまた言いました。
「見習っていい人たちと見習っちゃいけない人たちを、しっかりと見極めなせえ、坊ちゃん嬢ちゃん。命を助けてもらったら、まず、ありがとう。これはね、貴族だろうが何だろうが、絶対に言わなくちゃならねえことばなんですよ――」
そして、船長はまた空の彼方に目を向けました。子どもたちも、何も言えないまま、つられてそちらを見ました。
湖の上には、もう風の犬や花鳥の姿はなく、ただ青空の中にくっきりとデセラール山がそびえ立っていました。