フルートは風の犬のポチに乗って、湖の上を飛んでいました。行く手からは黒い風の犬のルルが近づいています。長い竜のような体が、青空にくっきりと浮かび上がって見えます。その日の朝、占いの場に現れた時よりも、ずっとはっきりした姿です。
すると、ポチが口を開きました。
「フルート、ぼくに考えがあるんですけど、聞いてくれますか?」
「なに?」
とフルートは聞き返しました。
「ワン。ぼくたち風の犬は水の中には潜れないんです。だって、風ですからね。それはきっとルルも同じだと思うんです。フルートは人魚の涙をもらって飲んでいるから、水中でも平気でしょう? だから、湖の中に潜って隠れていてほしいんです。ルルにはぼくが話をします。同じ風の犬なんだもの。きっとぼくの話は聞いてもらえると思うんだ――」
いつも控えめなポチには珍しく、口調に強いものをにじませてそんなことを言います。フルートはちょっと目を見張ると、すぐに優しい顔になって、ポチの首を抱きしめました。
「ありがとう、ポチ……。でも、それはだめだよ。もしぼくが湖に隠れてしまったら、ルルは怒り狂って、きっとゼンたちの船を襲うよ。ハルマスの街にも飛んでいくかもしれない。そんなことはさせられないよ」
「フルート――」
思わずことばを失ったポチに、フルートは言い続けました。
「とにかく、ルルに会おう。そして、話ができるなら話そう。でも、ルルの風の刃には気をつけてね……。今朝、ぼくの鎧が少し傷つけられたんだ。魔王になりかけてるだけあって、ルルは以前より強くなっているみたいだから」
やっぱりフルートは他人のことばかり心配します。ポチは思わず泣きそうになりました。けれども、どんなに泣きたくなっても、犬のポチの目は涙を流すことができません。ポチは頭を上げると、近づいてくるルルを見つめました。今はやれることをやるしかありません。とにかく、やってみるしかありませんでした――。
黒い霧の渦のようなルルが、音を立てて迫ってきました。憎しみに染まった目で、ポチとその上のフルートを見据えています。その口からうなり声が上がりました。
「コロス――殺ス――!」
ポチは大きく方向転換をして、襲いかかってくるルルをかわしました。そのまま、たちまち追いつ追われつの飛行になります。ポチは上空はるか高い場所まで駆け上がり、追いついてきたルルをかわすと、今度は湖へ急降下しました。水面すれすれをかすめ、水しぶきを上げながらまた急上昇します。そのすぐ後をルルが追いかけます。その姿は、白い竜を黒い竜が追い、その長い尾に食らいつこうとしているようでした。
フルートはものすごい風圧の中、必死でポチの背中にしがみつきながら、後ろを振り向きました。黒く渦巻くルルに向かって精一杯に叫びます。
「ルル! ルル、話を聞いて! ぼくたちは君を助けに来たんだよ――!!」
ガウン!!
フルートの声をルルの咆哮が打ち消しました。大きく空に飛び上がり、弾丸のような勢いでフルートに飛びかかってきます。
ポチはかろうじてそれをかわすと、渦を巻きながらまた水面に急降下し、激しい水しぶきを立てました。しぶきが霧のように飛び散り、一瞬何も見えなくなります。ルルがとまどった隙に、ポチはしぶきの中を飛び抜け、またルルとの間に距離を取りました。
「ルル――!」
とポチは飛びながら振り返って叫びました。
「やめてください、ルル! ぼくたちがわからないんですか!? あなたを助けに来たんですよ――!」
すると、ふいにルルが答えました。
「わかってイルとも。ポチ、フルート。わざわざ殺されニ来てくれて、アリガトウ」
地の底から響くような低い声ですが、はっきりとルルはそう言いました。ポチとフルートは思わず目を見張りました。背筋をぞっと冷たいものが駆け下りていきます。喜びも悲しみも、何の感情も感じさせない、空虚な声でした。
ルルがまた追いついてきました。
ポチは普段は小さな子犬の姿ですが、風の犬に変身すると、他の大人の風の犬にも負けないほど大きな姿になります。それは、まだ少女の犬のルルも同じです。風の犬になった二頭は、ほぼ同じ体格をしていて、飛行の早さもほとんど同じなのでした。
ふいにルルがポチに体を寄せてきました。すばやくかたわらを飛びすぎて下へ落ちます。とたんに、ポチの風の体から、ばっと青い霧の血が吹き出しました。ルルの風の刃で切り裂かれたのです。
「ポチ!」
フルートはあわてて首のペンダントをポチに押し当てました。みるみるうちに血が止まり、傷がふさがっていきます。
今度は下からルルが飛びかかってきました。ポチの背中のフルートを、ポチごと風の刃で切り裂こうとします。ポチは空中で突然向きを変えると、いきなり真っ正面からルルにかみつきました。顔にがっぷり風の歯を立てます。今度は、ばっと黒い霧のような血が飛び散りました。
ポチを払い飛ばしたルルが激しく頭を振りました。まるでフルートが金の石を押し当てたように、ルルの傷も見る間にふさがって治っていきます。魔王の魔力で傷を癒しているのです。
ポチがまた叫びました。
「もうやめて、ルル! お願いですから、やめてください――! どうしてフルートを狙うんですか!? フルートが、いったい何をしたって言うの!?」
すると、ルルが一瞬、ポチをまともに見ました。黒い憎しみの目が、ほんの少し細められました。
「……トッタ……」
闇の声が、そうつぶやいたようでした。ポチとフルートは思わず驚きました。
「取った――? 何を、ルル!?」
とポチは必死で尋ねましたが、ルルはもう答えず、ふいに身をひるがえすと、まっすぐに湖の真ん中目ざして飛び始めました。そちらには白い帆を張った船が何隻も浮かんでいました。
「ルル!」
「やめて、ルル!」
フルートとポチは叫びました。ルルが船を狙って襲いかかろうとしているのがわかったからです。
船に乗った人々が、驚愕の顔で空を見上げていました。近づいてくる二頭の風の犬を見つめています。綺麗に着飾った貴族の男女です。
一番手前の船に、ルルが急降下しました。帆を広げたメインマストが半ばからすっぱりと切れ、甲板の上に倒れていきます。人々が下敷きになりそうになって逃げまどいます。そこへ、ルルがまた襲いかかっていこうとします。
「やめろ!!」
フルートは叫んで背中の剣に思わず手をかけました。鞘の中から引き抜いて、ルルに切りつけそうになります。首輪を切れば、風の犬は消えます。そして、ルルは――ルルは、首輪から血を吹き出して、あっという間に死んでしまいます――。
フルートは唇をかんで剣から手を離しました。できません。そんなことは、どうしてもできません。
「ルル!」
ポチがルルの前に飛び出して、自分の体で攻撃を防ぎました。風の刃に白い幻の体が切り裂かれ、また青い霧の血が飛び散ります。フルートは思わず泣きそうになりながら、必死で金の石をポチに押し当てました。他にどうすることもできませんでした。
ルルがまた船の上の人々に襲いかかろうとしました。フルートはポチをその前にまた飛び込ませて叫びました。
「やめろ、ルル! 君の狙いはぼくのはずだ! 関係ない人まで傷つけるんじゃない!」
すると、ルルがぎらりと目を光らせました。怒りと憎しみの目です。
「ダカラ、おまえは嫌イなのダ。立派なヤツ! 金の石の勇者! 正義ノ味方! 人々を助ケテみせるがイイ! 私がひとり残らずコロしてみせるから!!」
「ルル――」
フルートとポチは一瞬絶句しました。息が詰まるほどの怒りが伝わってきます。黒いルルの姿が、いっそう真っ黒に激しく渦巻きます。けれども、そんなルルが、今にも泣き出しそうな悲しい表情をしているように、少年たちには見えたのです……。
「ぼくたちは君を助けに来たんだよ!!」
フルートは必死で叫び続けました。そう言わずにはいられませんでした。
「ぼくたちのところに戻ってきて、ルル! みんな来てるんだよ! みんなで君を助けに来たんだ! ポポロもいるんだよ――!」
「ポポロ」
黒いルルがひとつの名前に反応しました。空中に浮かんだまま、呪文のように繰り返します。
「ポポロ、ポポロ……私ノ、ポポロ……」
いきなり、ルルが向きを変えました。すぐ目の前に浮かんでいる船や人々にはもう目もくれず、突然また空を飛び始めます。その行く手遠くには、ゼンやポポロたちが乗った、灰色の帆の小さな船が浮かんでいました――。