カミチーノ卿の船は、まだ執拗にフルートたちの船を追い続けていました。大きな船です。いっぱいに張った帆に追い風を受けているので、みるみるうちにまたこちらに迫ってきていました。
「ホントにしつこいねぇ」
とメールが怒った声を出しました。
「だいたい、なんだってあの船はあんなに花を積んでるのさ。水もろくにもらえなくて、花たちが苦しんでるじゃないか」
花使いの姫の怒りの焦点は、普通の人とはちょっと違っています。すると、船長が言いました。
「船の上で花祭りを開いてるんでさ。貴族のお友だちを船に招いてね」
「花祭り? 今頃?」
とフルートは驚きました。本当の花祭りは、もう一週間以上も前に終わっています。船長は舵を握りながら肩をすくめました。
「ハルマスでは五月はずっと花祭りの期間でさ。毎日、どこかしらで誰かが花祭りを開いてます。貴族の方々はお暇ですからね」
フルートたちも思わず心の中で肩をすくめてしまいました。要するに、カミチーノ卿たちがこちらの船に嫌がらせしてくるのも、暇つぶしに過ぎないのです。目障りなゴーリスの連れだった彼らをいたぶることで、退屈と鬱憤を晴らそうとしているのでした。こちらは大事な目的を抱えていて、そんなことに関わっている暇はないというのに――。
フルートはまた船長に言いました。
「振り切れないですか? ぼくたちは急いでいるんです」
「向こうのほうが船足は速いんでさ」
と船長が苦々しく答えました。花の船はすぐ後ろまで近づいています。さすがにもうぶつかってくることはありませんでしたが、いつまでもしつこく追い続けてきます。そのうちに何か物でも投げ込まれてくるのではないか、と思うような近づき方でした。
すると、突然後ろの船からこんな声が上がりました。
「ありゃっ、あれはなんだ――!?」
ひとりの男性が空の一点を眺めて指さしていました。デセラール山のある方角です。船上の人々がいっせいにそちらを見ます。つられて一緒に眺めたフルートたちは、たちまちはっとしました。空の彼方から黒いものがまっしぐらに近づいてきます。それは、みるみるうちに黒い犬の姿に変わっていきます――
「ワン、ルルだ!!」
ポチが叫びました。子どもたちもいっせいに緊張しました。ルルはフルートたちが向かってくるのを知って、自分から先に乗りだして来たのでした。
花の船の上では、人々が不思議そうな声を上げていました。あれはなんだ、鳥か、といぶかる声の間で、誰かが突然金切り声を上げました。
「風の怪物だ! あれがエスタを襲ったという風の犬なんだ――!」
まさしくその通りでした。たちまち船上が大騒ぎになります。人々は甲板を右往左往し始め、口々にわめきながら逃げ場を探します。定員をオーバーしていた船は大きく右へ左へ傾ぎ始め、船長がたまりかねて声を上げました。
「落ちついて! 走らんでください、船が沈む――!」
けれども、それでも船上の騒ぎは収まりません。
「ったく、なにやってんだか」
ゼンはそんな後ろの船の様子に肩をすくめると、すぐに真顔に戻って空を見ました。ルルはどんどんこちらに近づいてきます。異国の竜のような長い体が、湖の上にたなびいています。
ゼンはフルートを振り返りました。
「おい、船室に――」
船室に隠れるんだ、と言おうとして、ゼンはことばを呑みました。フルートは兜の留め具を締め直しながら、ポチの背に手をかけていました。青い瞳でまっすぐゼンを見ながら言います。
「ぼくは行くよ。ルルの狙いはぼくだ。ここにいれば、船が襲われるからね。空に行く」
ゼンは口をギュッとへの字に曲げると、拳を震わせました。馬鹿な真似はするな! とどなりたいのですが、フルートの言うことのほうが正しいとわかってしまったのです。
すると、ワン、とポチが吠えました。
「大丈夫、ぼくがいますよ。フルートをルルに殺させたりはしないから!」
そう言うなり、シュンと音を立てて、ポチは風の犬に変身しました。白い幻の竜のような姿です。フルートはその背中に飛び乗りました。ポチが風の勢いで空に舞い上がります。
船長は、声もなくぽかんとそれを見送っていました。自分の目が信じられません。他の子どもたちは、心配そうにフルートとポチを見つめ続けました。彼らの姿は湖上の空に遠ざかっていきます。その行く手には、黒い風の犬のルルが近づいていました――。
「二匹だ! 二匹もいるぞ!」
後ろの船でまた大騒ぎが起こっていました。空を飛ぶポチに気がついたのです。空をこちらに向かって迫っているように見えたのか、前以上の大混乱になっていました。
「来る! こっちに来るぞ!」
「助けてくれ!」
「殺されるぞ! 逃げろ!」
逃げろ、といってもここは湖の上です。船室の中に逃げ込むしかありません。ところが、ご親切にも、そこへ逃げ込もうとする人々にこんなことを叫ぶ人がいました。
「ダメだ! 中に逃げ込んでも無駄なんだ! あの怪物は、人でも建物でもなんでも切り裂くんだ! 船だって、ひとたまりもないぞ――!!」
たちまち船上は大パニックに陥りました。逃げ場をなくした人々が、せめて少しでも怪物から遠ざかろうと、いっせいに船尾の方向へ走り出します。その船の船長が、また大声を上げました。
「みんなでそっちへ行かないで! 船が傾きます――!」
ぐらり、と船が大きく傾ぎました。ギシギシと音を立てて船首が高く持ち上がってきたので、船長が死にものぐるいで舵を操ります。
「あーららら」
メールがあきれた声を上げました。傾いた船の甲板から、崩れた花が滝のように湖に落ちていったのです。花は湖面に広がり、船が作る波に大きく揺れました。
「……ま、これで水をもらえたから、花たちもいいかもね」
と花使いの姫は肩をすくめてつぶやきました。
船がひっくり返りそうになって、人々がまたあわてて元の方向へ走り、船は体勢を取り戻しました。船体が大きく揺れます。人々は倒れそうになって、あわてて船べりやマストにつかまりました。
すると、突然悲鳴が上がりました。子どもの声です。続いて、水音が二つ上がりました。
ちょうどそちらを見ていたポポロが、真っ青になって叫びました。
「あの子たちが落ちたわ! あの男の子と女の子!」
ゼンとメールが湖をのぞき込むと、ちょうど二人の子どもたちが水の上に顔を出したところでした。桟橋で彼らに悪口を言ってきた少年と少女です。船が起こした大きな波に押されて流されていきます。けれども、それで良かったのです。波に押されて船から離れなければ、まともに船体にぶつかって、そのまま水底に沈んでしまうところでした。
少年と少女は、水の上であっぷあっぷしながら叫んでいました。
「助けて――!」
「助けて、誰か助けて――!」
ゼンはあきれて頭を振りました。
「あいつら、泳げないんだ。溺れてるぞ」
「泳げない人間がいるくせに、あんな危ない真似してきたわけ? 信じらんないね」
とメールもあきれ返っています。
船上でも、子どもたちが水に落ちたことに気づいていました。カミチーノ卿が大声で船長を呼びつけていますが、船長は船が転覆しないように舵を操ることで手一杯でした。他の者たちは必死で船にしがみついています。それくらい、船はまだ大揺れに揺れていたのです。誰も子どもたちを助けることができません。
「メール、ゼン――!」
ポポロが二人を見ました。緑の宝石の瞳で、訴えるように、ひしと見つめてきます。二人は思わず苦笑いしました。
「もう。ポポロは優しいんだからなぁ。こんなことしてる場合じゃないんだよ」
とメールが言えば、ゼンも肩をすくめます。
「ポポロ、おまえホントに記憶なくしてるのか? なんか、だんだん以前のおまえに戻ってきてるぞ」
けれども、ポポロはとまどったような顔をするだけでした。
メールは、しょうがないなぁ、と笑いながらつぶやくと、船べりに立ち上がって両手を高く差し上げました。りんとした声で呼びかけます。
「花たち! 水の上の花たち! あの子どもたちを助けとくれ――!」
とたんに、船の上から湖面にこぼれ落ちて浮いていた花たちが、いっせいに動き始めました。滑るように水の上を移動すると、緑の茎を長く伸ばし始めます。茎と茎が絡み合い、色とりどりの花をつないで、あっという間に巨大な花の網ができあがりました。水の上にふんわりと浮きながら、その上に貴族の少年と少女を受け止めます。二人は不思議ないかだの上にちょこなんと座って、信じられないような目で周りを見回しました。
「ま、こんなとこでいいだろ? あとはあいつらが自分たちで助けるさ」
とメールはまた苦笑いしました。
ところが、とたんにまた子どもの悲鳴が上がりました。
ゼンとメールとポポロが、はっと湖上を見ると、花のいかだの上には少年の姿しかありません。少年は真っ青な顔で横を見つめていました。
「どうした!?」
とゼンは船から身を乗り出して尋ねました。少年が振り返って叫びます。
「妹が――妹が沈んだんだ――!」
花の茎が絡み合った網が、一箇所大きく切れて揺れていました。たちまちメールが舌打ちしました。
「あの子が着てたドレスのせいだよ!」
貴族の少女は大人の女性のように、厚い布地をたっぷり使った重たいドレスを着込んでいました。それが水を吸ってさらに重くなり、ついに花の網が耐えきれなくなって切れてしまったのでした。
メールはためらうことなく身を躍らせて、船から湖に飛び込みました。魚のように巧みに泳いで、あっという間に少女に追いつきます。少女は小石のような勢いで沈んでいました。それを捕まえて、湖面を目ざします。
がぼり、と水の上に現れたメールと少女を見て、ゼンとポポロが歓声を上げました。
「えらいぞ、メール!」
とゼンが叫びます。すると、むせて咳をする少女を必死で抱きながら、メールが叫び返しました。
「引き上げとくれよ! この子のドレス、ものすごく重いんだ!」
「そんなもん脱がせちまえよ」
他意もなくゼンが言うと、メールがまたどなり返しました。
「無理言わないでよ! こうやって支えて浮いてるのがやっとなんだよ!」
ゼンは思わず頭を振りました。しょうがねえなぁ、とぼやきながら、船長に言います。
「あいつらに船を寄せてくれ。で、ちっと揺れるから、しっかりつかまっててくれるかな。ポポロもだ。ちゃんとつかまってろよ」
ポポロは目を丸くしましたが、言われたとおり、素直に船べりにしがみつきました。船長が船を方向転換させてメールと少女に向かわせます。ゼンは立ってそれを見ていましたが、ふいに船べりを乗り越えると、勢いよく船の外側にぶら下がりました。
「ゼン!?」
ポポロが驚きます。
ゼンは大きなうなり声を上げると、ぶら下がったままの格好で腕を曲げて、力一杯船べりを引き寄せました。とたんに、船が大きくぐらりと傾きます。ポポロが悲鳴を上げました。
「しっかりつかまってろって言ったぞ――!」
と、どなりながら、ゼンはさらにもう一度船を大きく引き寄せ、大きく横揺れする船にしがみついたまま、船長に言いました。
「もうちょい左! もうちょっとだけ左だ――! メール、手を伸ばせ!」
メールが片腕に少女を抱えたまま、もう一方の腕を伸ばしました。ゼンは片手で船からぶら下がると、ちょうど船が大きく傾いた瞬間に、空いている方の手でメールの手をつかまえ、そのまま勢いよく二人の少女を船の上に放り上げました。
「そらよっと!」
少女たちはポポロの乗る船の上に落ちて転がりました。特にドレスの少女は、甲板をごろごろと転がっていき、濡れた布地にすっかり絡みつかれて、船べりで身動きがとれなくなってしまいました。
「ついでだ。あのクソ生意気なヤツも拾うぞ!」
とゼンは花の網の上の少年を指さし、船が近づくと網ごと引っ張り寄せて、これまた船の上に放り上げました。網は、船の上に落ちたとたん、ばらばらになってまた花の姿に戻りました。
船に上がってきたゼンに、メールが口をとがらせて言いました。
「まったくもう、あんたときたらホントに荒っぽいんだから! 背中打っちゃったじゃないのさ」
「今さら何言ってる。だいたい、おまえの反射神経が鈍いんだろ」
「なんだってぇ――!?」
ゼンとメールがたちまちまた口げんかを始めそうになります。
貴族の少年と少女は、青ざめた顔のまま甲板に座りこんでいました。立派な服はずぶ濡れになって見る影もありません。ただ、ぽかんとゼンたちを見つめたまま、一言も口がきけずにいます。
すると、ポポロが両手をたたいて歓声を上げました。
「すごいわ、メールもゼンも! 二人とも本当にすごいわ! とっても素敵――!!」
そして、ポポロは笑い出しました。本当に楽しそうに、声を上げて笑います。
ゼンとメールは思わずあっけにとられて少女を見つめてしまいました。そこにいたのは昔のポポロでした。記憶をなくしていても、魔法を忘れていても、紛れもなく、彼らがよく知っているポポロその人でした――。