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第4巻「闇の声の戦い」

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40.黒い犬

 フルートは思わず立ちすくみました。真っ正面から黒い風の犬が襲いかかってきます。魔王に変わったルルです。牙をむいてかみついてくる大きな口の奥に、真の闇のような暗がりが見えました。

 とたんに、誰かがものすごい力でフルートを床にねじ伏せました。その頭上をルルがうなりをあげて飛び過ぎていきます。フルートは驚いて自分の横を見ました。とっさにフルートを押し倒してくれたのはゼンでした。

「ぼさっとしてるな、この馬鹿!」

 とゼンがフルートにどなります。

 しゅん、と音を立ててポチが風の犬に変身しました。こちらは白い犬の姿です。黒い霧の渦のようなルル目がけて飛びかかり、背中に飛びついて牙を立てます。

 ギャン!

 ルルが大きな悲鳴を上げました。かまれた背中から黒い霧が吹き出します。

 ルルは目に怒りをひらめかせると、振り向きざまポチをがっぷりとかみました。今度は青い霧のような血が飛び散ります。けれども、ポチは牙を放さず、ルルとかみ合ったまま部屋の中をつむじ風になって飛び回りました。壁の絵が落ち、天井のシャンデリアが砕けて飛び散ります。双方の体から黒と青の霧が吹き出して、部屋の中がたちまち薄くかすみ始めます。

「ポチ……!」

 フルートは跳ね起きました。背中から炎の剣を抜こうとして、すぐに手を止めます。首輪を切れば風の犬は元の姿に戻ります。それは魔王になっているルルも同じことでしょう。けれどもルルがつけているのは闇の首輪です。闇の首輪は持ち主の体と一体化しているので、炎の剣どころか、普通の剣で断ち切っても大量の血がほとばしって、たちまちルルの命を奪ってしまうのです――。

 ためらっているフルートの目の前で、ポチがルルに振り飛ばされました。青い霧を吹き出しながら部屋の壁にたたきつけられ、そこで渦を巻いて床に落ちます。

「ポチ!」

 フルートが駆け寄ろうとしたとたん、ルルがまたフルートを見ました。たった今ポチの肩をかみ裂いた牙でフルートに食いついてきます。

 すると、後ろからまたゼンが飛びついてきてフルートを押し倒しました。床に転がった二人の上すれすれをルルが飛び抜けて、フルートの鎧に浅い傷痕を残していきます。

 

 ゼンが顔を上げてどなりました。

「メール!」

 とたんに、花使いの少女の声が響きます。

「花たち! 守りの花たち! 力を貸しとくれ――!!」

 メールが両手を高くかざしてルルを見上げていました。すると、すぐそばの大きな花瓶から、白いユリに似た花が、するすると花首を伸ばし始めました。細い茎が揺れながら長くなり、次々と絡み合って、白と緑の蛇の姿に変わります。

 花の蛇は空中に飛び上がると、ルル目がけて襲いかかっていきました。あっという間にルルの体に白と緑の体を絡ませます。引き返してフルートに襲いかかろうとしていたルルが、空中で止まりました。花でできたロープに縛り上げられて、まったく身動きできなくなります。

 とたんに白い花は目もくらむような閃光を放ちました。ボッと激しい音が起こり、あっという間に光が消えていきます。

 思わず顔をそむけた人々が再び目を開けると、部屋の床には黒こげになった花が一面に飛び散っていました。その間で、いくつにもちぎれてぼろぼろになったルルが、今にも消えそうになりながらうごめいています。

「ルル――!」

 フルートは思わず息を飲みました。助けに駆け寄りそうになります。

 すると、その目の前で、ルルの体がまたひとつにつながり、竜に似た風の犬に戻りました。近づこうとするフルートに向かって激しく吠え立てます。けれども、その体は向こう側が透きとおって見えるほど薄くなり、輪郭もおぼろになって、今にも消滅しそうでした。それでもルルはフルートに飛びかかってこようとしているのです。

 

「占いを閉じます!」

 とユギルが叫んで占盤に駆け寄りました。

 ルルが今度はユギルをにらみました。黒い目が、ぎらりと憎しみに光ります。ルルは床から飛び上がると、まっしぐらに銀髪の占者へ飛びかかっていきました。占者は避けることができません。

 そこへフルートが飛び込んできました。ユギルをかばって片腕を広げ、もう一方の手で首からペンダントを引き出します。

「金の石!」

 叫んだとたん、石が強い光を放って黒い風の犬を照らしました。たちまちルルは光に吹き飛ばされ、壁にたたきつけられて渦を巻きます。

 すると、その姿がまた崩れました。黒い闇の塊になり、流れうごめきながら形を変え、フルート目がけて襲いかかろうとします。

 ユギルがまた叫びました。

「ゴーラントス卿! 占盤を!」

 ゴーリスが即座に大剣を振り上げて、力任せに石の占盤へ振り下ろしました。音を立てて剣が折れ、占盤がまっぷたつに割れます――。

 そのとたん、悲鳴のような音が上がりました。部屋中に猛烈な風が巻き起こり、花瓶やテーブルや人々を引き倒し、窓という窓のガラスを粉々にします。悲鳴は高く高く響き渡り……まるですすり泣くような音に変わって、消えていきました。

 

 風がおさまると、部屋の中にはもう何もいませんでした。黒い闇の塊も、黒い風の犬のルルも、どこにも見あたりません。部屋の中はめちゃくちゃになっていて、人々は青ざめた顔で床に倒れていました。誰もが呆然としていて、声も出せません。

 ところが、突然フルートが跳ね起きました。

「ポチ!」

 駆けつけていく先に、血まみれになった白い子犬が倒れていました。肩に深いかみ傷があって、そこから血があふれ続けています。フルートは大急ぎでペンダントをポチに押し当てました。みるみるうちに血が止まり、傷がふさがって白い毛でおおわれていきます――。

「ワン!」

 目を輝かせて元気に吠えたポチを、フルートは力一杯抱きしめました。

「ポチ! よかった、ポチ……!」

 ゼンがしかめっ面で起き上がってきました。

「ったく。ホントに自分のことを考えてないな、この馬鹿は。自分が一番狙われてたっていう自覚はあんのか?」

「ゼン……」

 フルートはドワーフの少年を見ました。とまどいながらも礼を言います。

「あ、あの……ありがとう……」

 ふん、とゼンは鼻を鳴らすと、立ち上がって服の埃を払いました。同じように立ち上がってきたメールを見て尋ねます。

「怪我はなかったか?」

「うん。でも、守りの花が……」

 メールは床の上に散らばった白い花の残骸を悲しげに眺めました。花は燃えつきたように黒こげになっていました。

「その花は?」

 とフルートは尋ねました。どう見ても、不思議な力を持っていて、ルルの闇の力に対抗したように感じられます。メールはまたしゃがみ込んで、花にそっと手を伸ばしました。

「守りの花って言うんだ。闇から人を守る聖なる力を持っているんだってさ。エルフの家で初めて見かけたときに、花がそう教えてくれたんだ。今朝早くユギルさんにこの花が咲いてる場所を占ってもらって、ポチとそこに行って頼んだら、快く一緒に来てくれたんだけど……。守ってくれて本当にありがとうね、守りの花。死なせちゃってごめんよ……」

 真っ黒になった花を手に、メールは涙ぐんでいました。すると、ゼンがそんなメールの頭をぽんと軽くたたきました。

「その花は人を守るのが役目だったんだろ? なら、俺たちを守れて満足してると思うぞ――」

 

 大人たちも立ち上がってきました。ユギルもゴーリスも怪我はありません。

「大丈夫だったか、ジュリア?」

 とゴーリスが奥方に尋ねると、栗色の髪の女性は体を起こして、腕の中の少女にほほえみかけました。

「私たちも怪我はないわよ。ね、ポポロ?」

 奥方は、風の犬のルルが部屋に現れたとたん、ポポロを抱きしめて、ずっと部屋の片隅で伏せていたのでした。ポポロは青い顔をしていましたが、そう言われて、こっくりうなずきました。

 ユギルが溜息まじりに言いました。

「予想以上でしたね。備えておいて正解でした」

 とまっぷたつに割れた石の板を見つめます。フルートは心配そうな顔になりました。

「占盤が……」

「ご心配には及びません。城へ戻れば予備の占盤がございます。とはいえ、わたくしはもう二度と、直接魔王を占おうとは思いませんが。占盤が割れなければ、わたくしたちは全員ルルに殺されていました。彼女のすべてがこちらへやってきていたわけではないのに、あれだけの力を持っていたのです。本体がどれほど強力なのかとても予想がつきません……」

「結局ルルの居所は占えなかったな」

 とゴーリスも溜息をつきました。手に持った愛用の大剣を見つめています。その刃は真ん中から折れてしまっていました。

 すると、銀髪の占者が不本意そうな顔つきになりました。

「居場所がわからなかったなどと、どなたがおっしゃったのですか? ちゃんと占えましたとも。――ルルはデセラール山の地下です」

 ゴーリス夫妻は驚きの声を上げました。

「デセラール山!」

「って、どこだ?」

 とゼンが聞き返します。ロムドの地理に明るくないメールやポポロも不思議そうな顔をしています。フルートはゴーリスに言いました。

「デセラール山って、確かこの近くにあるんじゃなかったっけ? リーリス湖を囲む山の中で、一番標高の高い山……」

「その通り。湖の向こうのあの山だ」

 と、ゴーリスは壊れた窓の彼方に見えている山を指さしました。山は湖面に姿を映しながら、青く高々とそびえていました。

「こんな近くなのか!?」

「すぐ目と鼻の先じゃないのさ!」

 と子どもたちは驚きました。

「確かに、まさかこんな近くにいるとは想像もしておりませんでしたが、わたくしには確かに見えました。ルルは、あの山の地下に迷宮を作り、その奥深くに潜んでいるのです。……勇者殿を憎みながら」

 そして、占者は色違いの瞳でじっとフルートを見つめてきました。

「ルルはなんとしてもあなたを殺そうと考えています。それでも助けに行かれるのですか?」

 問いただすような視線に、フルートは静かに笑って見せました。

「もちろん行きます。占いにそう出てませんでしたか?」

 大人のような笑顔でした。

 ユギルはそれにちょっとほほえみ返すと、後はもう何も言いませんでした。

 

 ゼンは壊れた窓からデセラール山を眺めて腕組みをしました。

「まあ、ルルが近くにいたってのは面倒でなくていいかもしれないけどな。どっちにしろ、これで俺たちの行き先が決まったわけだ」

 フルートも山を見上げながら何気なくうなずき――えっ? とゼンを見ました。なんだか今、思いがけないことばを聞いたような気がします。

「ゼン、今、君なんて言った……?」

 ゼンはじろりと横目でフルートをにらみました。

「聞こえなかったのか? 俺たちの行き先が決まった、って言ったんだよ」

 やっぱり主語は「俺たち」です。フルートは、ぽかんとゼンを見つめました。

 すると、ポチが尻尾を大きく振りながらフルートに駆け寄ってきました。

「ワンワン! ゼンたちも一緒に行くって言ってるんですよ! ルルを助けに、みんなで一緒に――!」

 はじけるような声で言ってフルートに飛びつくと、面食らっているフルートの顔をなめ回します。

「ゼン……」

 フルートは驚きでそれ以上何も言えませんでした。

 すると、ゼンがまたしかめっ面になって言いました。

「おまえはホントに自分の安全ってのを考えないからな。危なっかしくて、とてもひとりで行かせられるか。ついてってやるよ、俺たちが――!」

「ゼン」

 フルートはまた繰り返しました。その目にたちまち涙が浮かびます。とたんにゼンが閉口した顔になりました。

「そら、そうやってまた泣く! ポポロでさえ最近はあんまり泣いてないんだぞ。おまえがそんなに泣いててどうするんだよ?」

 それを聞いて、ゴーリスがおや、という顔になりました。「こいつはそんなによく泣くのか?」

 と子どもたちに尋ねます。

 ゼンは肩をすくめました。

「泣くぜ。すぐに泣くんだ」

「ポポロほどじゃないけど、フルートもけっこう泣き虫だよね」

「ワン、最近は特に涙もろくなってるみたいだ」

 とメールとポチもうなずきます。

「そ、そんなこと……」

 思わず赤くなったフルートを、ゼンがのぞき込んできました。

「否定できるのか? 昨夜、ゴーリスの部屋で大泣きしてたくせに」

 フルートは真っ赤になりました。

「や――やっぱり聞いてたんだな!」

「いやでも聞こえる。ったく、ホントに素直じゃないヤツだな。俺たちに一緒に来てほしいなら、口に出してそう言やいいんだ」

 とたんにフルートは表情を変えて、ためらうように口ごもりました。

「だって……」

 言いたくても言えなかったよ、ということばを口の中に呑み込みます。すると、ゼンもすぐに真顔になりました。

「わかってる……俺が悪かったよ」

 素直にそう謝ると、フルートの肩に腕を回して、ぐいと抱き寄せます。

「一緒に行こうぜ。山の地下でもどこまででも、ずっとみんなで一緒に行こう――」

 フルートは、強くゼンを抱き返しました。声もなく泣き出してしまいます。ゼンがまた言いました。

「だから、泣くなって言ってるだろうが!」

「うるさい……君だって泣いてるじゃないか」

 とフルートが泣きながら言い返します。ゼンの頬も涙でぬれていたのです。

 二人の少年は固く抱き合うと、黙って涙を流し続けました。二人の少女と子犬が近くに立って、笑顔でそれを見つめています――。

 

「結局、こいつは泣いたり喧嘩したりできる友だちを見つけていたってことか」

 とゴーリスがつぶやくように言いました。ジュリアがそれにほほえみ返します。

「淋しくて、あなた?」

 ゴーリスはたちまち憮然とした顔になりました。

「ルルを救いにいくのはこいつらの役目だ。俺がついていくわけにはいかないさ」

 すると、近くからユギルも言いました。

「旅立つのは子どもたちの役目。そして、それを見送るのは我々大人の役目かもしれませんね」

 ゴーリスは静かにうなずき返しました。

 フルートとゼンが笑顔になって、少女たちや子犬に呼びかけていました。皆で手を取り合い、子犬を抱き上げて、窓の外の山を見上げます。

 三人の大人たちは、黙ってそれを見守り続けていました。

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