翌朝、ベッドの中で目を覚ましたフルートは、思わずきょとんと天井を見上げてしまいました。自分がどこにいるのかわからなかったのです。すぐに、ここはハルマスにあるゴーリスの別荘だと思い出しましたが、今度は、いつの間に自分の部屋に戻ってきたのかが思い出せません。昨夜はゴーリスの部屋を訪ねて話をして……そして……
「あ」
フルートは短く声を上げると、たちまち真っ赤になりました。ゴーリスに話を聞いてもらううちに、たまらなくなって泣き出してしまったことを思い出したのです。
フルートはうろたえながらベッドの上に起き上がりました。あんなにものすごく泣いたのは何年ぶりでしょう。そして、ここはそう広くもない建物の中です。自分の泣き声は別荘中に響き渡ったような気がします……。
カーテンを引いた窓の向こうが明るくなっていました。鳥のさえずりがにぎやかに聞こえています。雨は止んで、良い天気になっているようでした。
そこへポチが入ってきました。フルートがベッドに起き上がっているのを見ると、尻尾を振りながら駆け寄ってきます。
「ワンワン、良かった。ゴーリスに言われて起こしに来たんですよ。ユギルさんがルルの居場所を占ってくれるそうです。フルートも早く来てください」
フルートはベッドから飛び出しました。靴をはいてポチと走っていこうとして――ふと、ポチの後ろ姿を見つめました。ポチの様子は前の日と変わりがありません。いえ、前日よりも元気なくらいです。フルートは、ポチに「前の晩、何か聞こえなかった?」と聞こうとして、ためらってやめました。「何かって、なんですか?」と聞き返されたら、なんと答えて良いのかわからなかったからです……。
階下の居間にはすでに全員が集まっていました。ゴーリスとユギルが真剣な表情で何かを話し合い、そのそばにはゴーリスの奥方が控えています。部屋の中央のテーブルにはユギルの占盤が準備されていました。黒い大理石で作られた円盤です。
部屋の片隅には、白ユリのような花をいっぱいに生けた大きな花瓶が置かれていて、そのすぐ近くに、ゼンとメールとポポロがかたまって立っていました。ゼンは青い防具を身につけ弓矢を背負って、すっかり旅支度を整えています。メールとポポロも、今朝はもうドレスを脱いで、いつもの自分の服を着ていました。それを見たとたん、フルートは急に胸を突かれる想いがして立ちつくしてしまいました。彼らは間もなく旅立つのです。ハルマスを去って、フルートが行くのとはまったく別の方角へ――。
ゴーリスがフルートに気がついて近づいてきました。
「起きたな。よく眠れたか?」
「う、うん……」
フルートは思わず口ごもりました。ゴーリスに抱き寄せられて、小さな子どもみたいに大泣きしてしまったことをまた思い出して、赤くなってしまいます。
ゴーリスはそんなフルートの表情に知らん顔をしながら言いました。
「そっちのテーブルに朝飯が準備してある。それを食べたら装備を整えるんだ」
「装備を?」
フルートは驚きました。占ってもらうのに、何故戦いの格好をしなくてはならないのでしょう。けれども、気がつくとゴーリスも腰に自分の大剣を下げていました。昨日はそんなものはつけていなかったはずです。
「ユギル殿の指示だ。急げよ」
とだけ言うと、またユギルの元へ戻っていきます。
「ワンワン。フルートの鎧や剣もこっちに準備してありますよ」
とポチが簡単な朝食ののったテーブルのほうへフルートを案内しました。その足下には金の鎧兜や武器がまとめて置かれていました。
立ったままで朝食をとりながら、フルートは、ちらっとゼンたちを眺めました。三人はかたまったまま、低い声で何かを話し続けています。そんな中でポポロが今朝はあまりゼンを怖がっていない様子なのに、フルートは気がつきました。ゼンに話しかけられると、ちゃんと返事をしています。なんとなく、その光景が胸に痛くて――けれども、それ以上にとても嬉しくて、フルートは思わずそっとほほえんでいました。複雑な想いはありましたが、やっぱり優しいフルートでした。
フルートが鎧兜を身につけ、剣を背負い、盾も腕につけて装備を整えると、ユギルがゆっくりと席に着きました。部屋に集まっている面々を見渡して口を開きます。
「では、これから勇者殿のご希望通り、ルルの居場所を占おうと思います。皆様は先ほど話した場所へ移動してください」
すると、ゴーリスがユギルのすぐ後ろに立ちました。奥方は少女たちのいる花瓶のそばへ、ポチはフルートの足下へ、そして、ゼンはフルートのすぐ隣にやってきました。フルートが思わず目を丸くしていると、もっと意外な動きが起こりました。ポポロが進み出て、ユギルのすぐ目の前に立ったのです。占盤ののったテーブルをはさんで、ユギルと向き合います。
「ポポロ……?」
フルートが驚いていると、ユギルが言いました。
「ポポロ様は昨夜、わたくしの占いの手助けをしたいと申し出てくださったのです。勇者殿にルルの居場所を知らせたいから、と。わたくしは象徴を通じて占いますが、見たことのないもの、会ったことのないものに関しては、それほど正確に読みとることはできません。まして、ルルは魔王になっているので、濃く深い闇の奥底にいて、その姿を見ることができません。けれども、ここにいらっしゃるポポロ様は心の中でルルとつながっておられる。ポポロ様を通じてならば、わたくしにも、まだ会ったことのないルルが、はっきりと見えるのです。……これから、ポポロ様を通じて、ルルの居場所を探ります。わたくしも、魔王を直接占おうとしたことはありません。何が起こるか、まったく予想ができないのです。充分にご用心ください」
フルートはますます驚き、心配になりました。魔王を直接占う、ということばが不吉に響きます。
「ポポロ」
と思わず声をかけると、少女が振り返ってきました。今日はやっぱり少年たちを恐れている様子がありません。
「大丈夫よ……心配しないで」
少し青ざめていますが、しっかりした表情でそう言うと、フルートと、隣のゼンに向かってちょっとほほえんで見せました。
すると、ゼンがつぶやきました。
「ったく。記憶をなくしてるくせに、やることときたら、どうしたって『ポポロ』なんだからな」
いまいましそうな声の陰に、ひどく心配している響きがありました。
銀髪の占者が静かに言いました。
「それでは、始めます」
黒い石の占盤に手をのせ、じっと石の表に目を注ぎます。その目の前で、ポポロは祈るように両手を組み合わせて目を閉じました。
すると、突然ユギルの声が遠くなりました。若いのにひどく年老いたような声で、つぶやくように言い始めます。
「黒い翼が見える……闇の奥深くでうごめく翼……周りは闇だ。暗い……いや、岩が見える。ここは地中? 地下の洞窟……? 複雑な通路が広がっている。迷宮だ……ここはいったい……」
すると、突然ポポロの口から別人のような声が飛び出してきました。
「私に触れるのは誰ダ!?」
地の底から響くような低い声――闇の声です。部屋の中の者たちは、ぎょっとしました。ポポロは手を組み合わせ、目を閉じたまま、声だけでどなり続けていました。
「こざかしい! ポポロを通じて、私を捕まえようとイウのか!? ならば――こちらから殺シに行ってやる!!」
ごぉぉっと部屋の中にすさまじい音と風が巻き起こりました。じっと立ちつくすポポロの黒い衣の裾が激しくはためき、占盤に向かうユギルの銀髪がめちゃくちゃに吹き乱されます。と、突然占盤から黒い光がほとばしり、弾かれたようにユギルが床の上に倒れました。
「ユギル殿!」
「ユギルさん!」
フルートたちが驚いて駆け寄ろうとしたとたん、ユギルの声が響きました。
「危ない、勇者殿!! 出てまいります――!!」
黒い占盤の上に風が渦を巻き、小さな竜巻を作っていました。その中央から真っ黒い霧が吹き出し、みるみるうちに大きな翼になって、ばさりとはばたきます。と、それは崩れるように形を変え、今度は黒い怪物になりました。大きな犬の頭、犬の前足、とぐろを巻く竜のような長い体――全身黒づくめの風の犬です。普通の風の犬よりもっと実体があやふやで、常に流れ崩れ、わき上がるように揺れ動いています。その体のところどころで銀毛が輝いているのを見て、フルートは思わず叫びました。
「ルル!」
闇そのもののような黒い色に染まったルルは、霧の渦になって部屋の中を飛び回り、低い声で叫び続けていました。
「ニクイ、憎い、憎イ……コロス、必ず殺してヤル……!!」
恨みのこもった目で、うなりを立てて襲いかかっていく先には、フルートがいました――。