「記憶喪失だよ」
とメールが言いました。
「昔、父上の親衛隊員が海底火山の噴火に出くわしたショックでこれになってね、父上の前に運び込まれてきたことがあったんだ。記憶をなくして、家族のことも友だちのことも、自分が誰なのかもきれいさっぱり忘れちゃってたんだよ」
少年たちは驚き、メールの後ろに座りこんでいるポポロを見つめてしまいました。黒衣の少女はとても不思議そうな顔で彼らを見ています。それは、見ず知らずの人たちを見る目でした。
「ど、どうやったら治せるんだよ!?」
「その家来はどうやって治ったの?」
ゼンとフルートが異口同音に尋ねたので、メールは肩をすくめました。
「しばらくはそのままだったけどね。ちょっとしたことがきっかけで思い出していったんだ。でもさ、ポポロは自分の魔法で自分のことを忘れちゃったんだろ? あの親衛隊員と同じようなわけにはいかないと思うよ……」
声が、かすかに同情の響きを帯びました。
けれども、ゼンは我に返ったような顔になりました。
「なんだ、そうだ! これはポポロの魔法なんだから、何分かたてば切れて元に戻るんじゃないか!」
焦って損した、と言いたそうにほっとするゼンに、フルートは鋭く言いました。
「気がつかなかったの、ゼン? ポポロは継続の腕輪を使ったんだよ。ポポロの魔法は切れないんだ――腕輪の石が壊れるまで、永久に」
ゼンはたちまちまた顔色を変えました。
ポチが言いました。
「ワン、何とかならないんですか!? 魔法を取り消せないの!?」
「ぼくたちは魔法使いじゃないよ」
とフルートは痛みをこらえるように目を細めました。
ポポロはきょとんとしたままです。目の前で大騒ぎする少年たちを見ても、まるで意味が分からないというように、他人事でいます。
ゼンがわめきました。
「石! 腕輪の石がなくなりゃ魔法も続かなくなるんだろ!? 石を壊しゃいいんだよ!」
とポポロの右腕をつかみます。とたんにポポロが驚いて悲鳴を上げました。それを無視して乱暴に黒衣の袖をたくし上げて、ゼンは愕然としました。継続の腕輪が消えていたのです。白く細い腕には、なにもありませんでした。
ポポロがまた悲鳴を上げてゼンの手を振り払い、腕を抱えて後ずさりました。おびえた目でにらみつけてきます。ゼンは呆然とそれを見つめてしまいました。
「腕輪がないぞ……どうなってんだ……?」
「魔法なんだよ。一度継続の力が発動されちゃうと、外からそれを壊すことはできなくなるんだ」
とフルートが言いました。口調は冷静ですが、その表情は本当に激しい痛みを感じてこらえている人のようでした。
「ワンワン! どうしましょう! どうすればいいの!?」
ポチが必死で言います。フルートは首を横に振りました。
「わからないよ……。石が自然に壊れるのを待つしかないのかもしれない」
「そ――それにどのくらいかかるんだよ! 石だぞ! 石ってのは、普通、自分から壊れていくのに数百年とか――数千年とかかかるんだぞ!」
「ワンワン! 誰か、ポポロの魔法を解いてくれそうな人はいないんですか!? ポポロより強力な魔法を使える人なら……!」
「それだ! きっと天空王ならできる!」
とゼンは叫ぶと、今度はポポロの肩をつかみました。
「天空王を呼ぶんだ、ポポロ! おまえにかかった魔法を解いてもらうんだよ!!」
ゼンとしては必死だっただけなのですが、何もわからない少女には、それは見ず知らずの少年に突然どなられ、襲われたようにしか感じられませんでした。また鋭い悲鳴を上げ、真っ青になって必死で身をよじります。
「よせ、ゼン」
とあわててフルートは友人をポポロから引き離しました。ゼンも我に返ります。
少女はおびえきった顔で震えていました。その目には涙が浮かんでいます。
「メール」
とフルートは騒ぎに加わっていなかったもう一人の少女に呼びかけました。
「ぼくたちの中では君が一番落ちついてるみたいだ。お願いだ、ポポロのそばにいてやってよ。ぼくたちは、あっちで話してくるから」
メールはちょっと驚いた顔をしましたが、すぐに黙ってうなずき返しました。少年たちはフルートにうながされ、連れだって、少し離れた場所へと移動すると、そこで話し合いを始めました。
後に残されたメールは、黙ってポポロを眺めました。少女は小さな体をいっそう小さく丸めて、膝を抱えて震え続けています。涙を浮かべてはいますが、泣き出してしまわないところが、かえって不思議でした。いつものポポロなら、とっくに涙を流して大泣きを始めているところです。
メールは首をかしげて、ポポロに話しかけました。
「ねえ、あんたさ……本当に何も覚えてない? どうして自分がここにいるのか、とか、何をしようとしていたとか、そういうことも覚えてないわけ?」
小さな少女は首を横に振りました。けれども、話しかけてきたのが自分と同じ女の子だったからか、なんとなく、すがるような目つきでメールを見上げてきました。
メールは思わずちょっと苦笑してしまいました。少し考えてから、こう言います。
「あたいの名前はメールだよ。西の大海の渦王の娘さ」
「メール……?」
ポポロが繰り返しました。初めて聞いた名前を確認している口調です。それから、しばらくの間考え込む様子をして、おずおずとまた言いました。
「あの……あたしは、あなたと知り合いだったの……?」
メールは思わずまた笑ってしまいました。
「まあね。でも気にすることないさ。あたいは一番最後にあんたたちの仲間に入ったからね。そんなに長いつきあいじゃないんだ。今から覚え直ししてもらったって、全然変わりないさ」
すると、ポポロが目に見えてほっとした表情になりました。メールは、またそれを眺めてしまいました。ずっと憎らしい、腹立たしいと思い続けてきたポポロなのに、こんな風にすべてを忘れてしまって頼りなげに座っているのを見ると、なんだかひどく哀れに思えてきます――。
メールはまた苦笑いを浮かべかけて、すぐに、それを引っ込め、なんでもなさそうな口調で話しかけました。
「あんたの名前はポポロだよ。そして、あっちで話してるのが、フルートとゼンと、もの言う犬のポチ。金の鎧を着てるのがフルートで、青い胸当てをつけてるのがゼンだよ。あの子たちもあんたの友だちだったんだ」
すると、ポポロがとても驚いた顔をしました。あんな怖い人たちと友だちだったんだろうか、と考えているのがわかります。メールは複雑な気持ちでその顔を見守りました。あんたはあの男の子たち二人が大好きだったんだよ――とは、とても言ってあげられませんでした。
フルートとゼンとポチは、声が少女たちに響かない場所まで移動すると、そこで話し合いを始めていました。
「天空王を呼ぼうぜ! 天空王なら何とかできるだろう!」
とゼンが言い続けました。
「泉で言ってたじゃないか。何かあったら呼べ、って。今呼ばなくて、いつ呼ぶんだよ!?」
「ワン。でも、天空王に継続の腕輪をはずせるのかなぁ?」
とポチが心配そうに言いました。
「ぼく、聞いたことがあるんですよ。魔法の石の力ってのは、この世界と共にあるから、どんな人でもそれを自分の思うようにはできないんだ、って。魔法の石は意志を持っているから、石が自分からこうしようと思わない限り、絶対他の人にはどうすることもできないんだそうですよ」
「じゃあ、どうするんだよ! 何もしないで、このままでいるのか!?」
すると、フルートは考え込むように言いました。
「天空王はきっと、直接ここには来られないよ。ここは天空王に許された場所じゃないはずだから。だとすると、呼んで来てくれるのは、誰か他の天空の国の貴族だ……。天空王なら継続の腕輪の力を打ち消せるかもしれないけれど、そのためには、ポポロを天空の国へ連れて行かなくちゃいけないんだ」
「行きゃいいじゃないか! 俺たちにはポチがいるんだぞ。一緒に空を飛んで、天空の国までついていきゃいいだけだ! ポポロが治ったら、また地上に戻ってくればいいんだよ」
「治ればね」
とフルートはじっと何かを見つめる目で言いました。
「もしも天空王にも継続の石の力が打ち消せなかったり、打ち消すのに時間がかかったりすれば、ポポロはそのまま天空の国に残らされるよ。ポポロは地上に戻ってこられなくなる……」
「それじゃ、どうしろって言うんだよ!? ポポロに一生あのままでいろっていうのか!? 魔法も――俺たちのことも、何もかも忘れてろ、って!?」
とゼンがどなりました。自分では気がついていませんでしたが、その顔は今にも泣き出しそうな表情になっていました。
フルートは黙り込みました。見えない何かを見つめ続ける目で考え続け……やがて口を開いて言いました。
「ポポロをロムド城まで連れて行こう」
ゼンとポチは驚きました。
「このまま何もしないってのか!?」
とゼンが食ってかかります。フルートはそれをじっと見つめ返しました。
「ポポロが言っていたとおりなんだ。彼女が魔法さえ使わなければ、一緒に連れて行くことができるんだよ。ポポロはあんなにルルを助けに行きたがっていたんだから」
「だけど! あいつ、きっとルルのことも忘れちまってるぞ! それなのにルルの救出に連れて行って、どうするんだよ!?」
とゼンがわめき続けます。
「それでもだよ」
とフルートはきっぱりと言いました。
「それでも、連れて行ってあげなくちゃいけないんだ。そうしてあげなかったら、ここまでしてついてこようとしたポポロの気持ちが無駄になるんだよ――!」
ゼンとポチは、思わず何も言えなくなりました。
フルートは少女たちのほうを見ました。メールとポポロが何か話をしています。ポポロはさっきよりだいぶ明るい顔になっているようでした。
「メール!」
とフルートが呼ぶと、緑の髪の少女がすぐに駆けつけてきました。
「なんだい?」
「ポポロの様子はどんな感じ?」
メールは、ちょっと肩をすくめました。
「まあ、見事に忘れてるね。自分のこともあたいたちのことも、自分が何のために旅してるのかも、全然覚えてないよ。ただ、空だとか山だとか服だとか、基本的な物の名前はちゃんと覚えてる。人に関することや自分に関することを忘れちゃったみたいだね」
それを聞いてゼンは怒ったようなうめき声を上げましたが、フルートはそれを無視してさらに尋ねました。
「どう? ぼくが話しかけても大丈夫そうかな?」
「たぶんね。父上の親衛隊員は、自分が何も覚えていないんで、かなり混乱して大騒ぎしていたんだけどさ。それと比べたら、ポポロは意外なくらい落ちついてるよ。やっぱり、魔法だからかもしんないね」
フルートはうなずくと、ひとりでポポロに近づいていきました。ポポロはずっと地面に座りこんだままでしたが、厳めしい鎧姿の少年が向かってきたので、おびえたように身をひきました。その様子が、初めてポポロと出会った時のことを思い出させて、フルートは思わず目を細めました。あの時にも、ポポロはフルートを「怖い人」と呼んでおびえたのです。もう遠い昔のことのようでした。
フルートは、あの日と同じように兜を脱いでみせると、静かな声で話しかけました。
「ポポロ、ぼくの話を聞いてくれる……?」
少女が緑の目を丸くしました。兜の下から現れたフルートの顔が、意外なくらい優しく穏和だったからです。その反応もあの日とまったく同じでした。
フルートは優しく尋ねました。
「君、ルルのことは覚えている?」
少女は黙って首を横に振りました。予想通りです。フルートは続けました。
「ルルってのは犬なんだ。闇にさらわれて行方不明になっているんだよ。ぼくたちは、そのルルを探して助け出すために、ロムド城のあるディーラを目ざしてる途中なんだ。ポポロ、君はどうしたい? 一緒に行くかい?」
すると、少女は目を見張って驚いた顔になりました。とまどったように視線を向けた先には、メールが立っていました。
無言で問いかけられたメールは、またちょっと苦笑すると、肩をすくめて答えました。
「もちろん、あたいも一緒だよ」
たちまち、ポポロはほっとしたような表情になりました。記憶を失った少女は、同じ女同士のメールを、自分の頼る相手と感じているのです。フルートは何とも言えない淋しさを覚えました。遠い日にはなかった光景です。それでも穏やかにフルートは言いました。
「一緒に行くね、ポポロ?」
緑の瞳の少女が小さくうなずきました。けれども、ひどく不安そうな顔をしていて、視線がフルートの目と合うと、びっくりしたように目を伏せてしまいました。
そんなポポロを見つめながら、フルートは静かにほほえみました。少女の中のもう一人の少女に心の中で話しかけます。
これでいいよね、ポポロ? 君はあんなにルルを助けに行きたがっていたんだもの。これでいいんだよね――と。
丘の上を風が吹きすぎ、少年や少女たちの髪を揺らしていきました。五月の日差しが暖かく降りそそぎ、青空から鳥の声が聞こえてきます。
彼らが目ざすディーラは、まだまだ遠い彼方でした。