フルートとポチは、岩屋を後にしてからまっすぐ北東の方角を目ざして進んできました。荒野は終わりに近づいて、行く手に山々が見え始めます。地図によれば、その山の向こうにリーリス湖があり、南の街道のはずれにあたるハルマスの街があるはずでした。ロムド城があるディーラまでは、南の街道をたどれば一本道です。
太陽は頭上を過ぎていました。フルートは馬を止めて言いました。
「お昼にしようか、ポチ。お腹が空いちゃったよね」
そこで二人は馬を降りて火をおこし、お湯を沸かして昼食にしました。フルートはゼンのように器用に料理はできないので、パンと薫製肉を切り、熱い黒茶をいれます。ポチにはやはりパンと薫製肉を切ってやって、器にたっぷり水を注いでやりました。
それを食べながら、ポチはちらりとフルートを見上げました。フルートは薫製肉をはさんだパンを黙々と食べ続けています。いつもとまったく変わらない、穏やかな表情をしています。けれども、そんなフルートが、とても淋しい匂いを漂わせているのを、ポチはずっと感じ続けていたのでした。
すると、フルートがふと、パンを持つ手を止めてつぶやきました。
「ゼンたち、もうどのあたりまで行ったかなぁ……?」
少し心配そうな表情で、遠い目をしています。
ポチはなんだかたまらなくなって、思わずフルートに体を強くすり寄せました。フルートの淋しさを、自分ひとりで埋めきれるはずがないのはわかっていましたが、それでも、そうしないではいられませんでした。
それをどう受け止めたのか、フルートがポチを抱きしめました。ポチを慰めようとするように優しくなでてくれるのが、また、子犬をせつない気持ちにします――。
けれども、その時、彼方から馬の蹄の音が聞こえてきました。早駆けしながら、まっすぐこちらへ近づいてきます。
ポチは、ぴんと耳を立てて振り返りました。
「ワン、ゼンの黒星ですよ、フルート!」
フルートの耳にも、荒野の彼方から近づいてくる蹄の音が聞こえてきました。なだらかな丘の下のほうから、こちらに向かって駆け上ってきます。やがて、大きな黒い馬と共に姿を現したのは、鞍にまたがり、手綱をひとりで握りしめているポポロでした。赤い髪を風に吹き乱し、顔を真っ赤にほてらせて息をはずませています。
驚いているフルートたちの目の前で、少女は馬を立ち止まらせました。とっさにポチがフルートの腕から飛び出して身構えましたが、すぐに、警戒を解きました。黒馬に乗ったポポロからは、怪しい匂い、危険な匂いはまったくしていなかったのです。
すると、ポポロがふいに大粒の涙をこぼし始めました。
「フルート……フルート、フルート……!」
泣きじゃくりながら、何度も呼びます。フルートはあわてて立ち上がると、鞍からポポロを降ろしてやりました。ポポロは泣き続けています。フルートは困惑しながら言いました。
「ポポロ、君……自分で馬を走らせられるようになってたんだね」
我ながら間の抜けたことを言っている気がしましたが、他に言うことが思いつきませんでした。泣きながら、ポポロがうなずきました。
「天空の国で……稽古、したの……。次に一緒に行くときには、あたしも自分で……馬に乗れるように……思って」
切れ切れにそう言うと、また泣きじゃくってしまいます。
フルートは、本当に困って立ちつくしてしまいました。泣き虫で、引っ込み思案な小さなポポロ。とても戦いになど向いていないように見えるのに、いつでも彼女は一生懸命なのです。使える魔法の回数を一回から二回に増やすために、半年もの間、厳しい修行に耐えたり、フルートたちを助けるために血みどろの死闘の中に飛び込んできたり……。
ポポロが何故追いかけてきたのか、フルートにはわかっていました。わかっていましたが――それを許すわけにはいきませんでした。
フルートは、泣いている少女に静かに話しかけました。
「君は連れて行けないんだよ、ポポロ……。危険すぎるんだ。お願いだから、白い石の丘に戻ってよ。そうでないと、ぼくは安心して戦えないよ――」
胸がちくちくと針で刺されるように痛みます。もう一度あの怖い顔と声でポポロを追い返すことは、とてもできませんでした。
ポポロは泣きながら首を振りました。
「あたしも行く! あたしも連れてって! あ――足手まといになんて、ならないから!」
必死で叫びながら、フルートの鎧の胸にすがります。
「ルルが呼んでるの! ずっと、ずっと、あたしを呼び続けてるのよ! あたしを待っているの――! あたしが行かなくちゃダメなのよ!」
その時、ワン、とポチが吠えました。
「ゼンとメールですよ。こっちに来ます」
ポポロが、びくりと身をすくませました。そんな少女へ、フルートは優しく言いました。
「迎えが来たよ、ポポロ。君はゼンたちと行かなくちゃ」
ポポロはまた大粒の涙をこぼして、激しく頭を振りました。
そこへ、丘を白と黄色のまだらのヒョウが駆け上がってきました。小さな花が寄り集まってできた花ヒョウです。背中にはメールとゼンが乗っています。荒野に咲く花があまり多くなかったので、メールは大きな花鳥を作れなかったのです。
ヒョウの上の二人は、フルートが無事でいるのを見て、心からほっとしました。闇に取り憑かれたポポロがまた魔法でフルートを殺そうとしているのではないかと、駆けつける道すがら、胸がつぶれるほど心配していたのです。
ところが、次の瞬間、ゼンはフルートにすがっているポポロを見て、思わずかっとなってしまいました。ゼンは、花ヒョウから飛び下りると大声を出しました。
「ポポロ、来い! 俺たちが行くのはそっちじゃない!」
ポポロは泣きながらまた首を振りました。
「いやっ! あたしはフルートと行くわ! ルルを助けたいのよ……!」
少女が引き離されまいとするように、さらに強くフルートにしがみついたので、ゼンは完全に逆上しました。
「ダメだ! 白い石の丘に戻るんだ!!」
「いやったらいや!! どうしてあたしを行かせないの!? あたしだって戦えるのよ! 一日に二回だけだけど、魔法が使えるのよ! や、闇が狙っているんでしょ? あたしだって、役に立つはずだわ!」
「だから、その闇がおまえの中にいるんだよ! おまえはフルートを魔法で殺そうとしたんだ!」
とゼンは口走ってしまいました。たちまちフルートが顔色を変えます。
「ゼン!」
と鋭く制止して、ポポロをかばおうとするようにその背中に手を回します。その光景が、またゼンを逆上させました。我を忘れてゼンはどなり続けました。
「ポポロ、おまえは昨日フルートを雷で撃ち殺そうとしたんだよ! それだけじゃない! フルートを絞め殺そうともしたんだ! 闇の声の正体はおまえだ! おまえの中に闇が取り憑いてるんだよ――!」
もう何を言っているのか、自分自身でもわかりませんでした。自分でどなるのを止めることもできません。自分を見つめるポポロのおびえた顔だけを感じながら、ゼンはわめき続けていました。
「このまま一緒に行けば、おまえはまたフルートの命を狙う! そうしたら、フルートだけでなく、大勢のヤツがおまえの魔法に巻き込まれる! だから、おまえを白い石の丘に帰すんだよ! おまえが一緒に行くと、大勢の人間が死ぬことになるんだ――!」
とたんに、パンと高い音が響き渡って、ゼンの頬に痛みが走りました。ゼンが我に返ると、メールがすぐ目の前にいて、鋭い目つきでゼンをにらみつけていました。
「頭を冷やしな、ゼン。言い過ぎだよ」
メールは逆上するゼンの頬に平手打ちを食らわしたのでした。
ポポロは涙のたまった目をいっぱいに見開いていました。
「え……?」
と、信じられないように仲間たちを見回します。正気に返ったゼンが青ざめていきます。ポポロはますますとまどってフルートを見上げました。
「……うそ……」
けれども、フルートもひどく困った顔で立ちつくしていました。ゼンのことばを嘘とも本当とも言うことができないでいたのです。
ポポロは突然フルートから飛びのくように離れると、両手を口に当て、じりじりと後ずさり始めました。大きく見開かれた目が涙でいっぱいになっていきます。
「あ、あたし……あたし……」
ことばになりません。フルートは思わずそれに手を伸ばしました。
「ポポロ――」
その手を少女は強く払いのけました。そして、そのことに自分で驚いてまた真っ青になり、首を振りながら言いました。
「ご、ごめんなさい、フルート……あたし、あたし……知らなかったの……何も、知らなかったの……」
君のせいじゃないよ! とフルートはあわてて言おうとしました。自分を責めちゃだめだ! と。
強すぎる魔力を持って生まれてしまった小さな少女。彼女は自分の魔法をコントロールできないばかりに、いつも思いがけない人たちを巻き込んでしまって、そのことに自分自身がもっと深く傷ついてきたのです。そんな少女の気持ちがわかるからこそ、フルートは、自分が殺されかかっても、彼女を恨む気にはなれなかったのです。
けれども、フルートの言おうとしたことはポポロには届きませんでした。フルートが声を出すより先に、ポポロはその場にしゃがみ込み、声を限りに泣き出してしまったからです――。
ポポロが泣きやむまでには長い時間がかかりました。
それでも、やがてその泣き声は次第に低くなり、しゃくり上げる声もとぎれとぎれになって、とうとう、少女は静かになりました。
どうすることもできずにたたずみ、座っていた少年たちは、顔を上げてポポロを見ました。フルートが静かに友人に呼びかけます。
「ゼン」
ドワーフの少年は頭をかくと、溜息まじりに立ち上がりました。自分自身を深く反省している顔でした。フルートと連れだってポポロのところへ行きます。そんな少年たちを、メールとポチが見送りました。
すると、少年たちが話しかけるより先に、ポポロが立ち上がって振り返ってきました。その顔はひどく青ざめていましたが、もう一粒の涙も流してはいませんでした。宝石のような緑の瞳が、痛々しいほど悲しそうな色をしています。
震える声でポポロが言いました。
「フルート、ゼン……見つからないのよ。あたしの中をずうっと探してみたんだけど、どこにも闇が見つからないの。だけど、あなたたちが嘘を言うとは思えないわ。だから、本当にあたしは闇に取り憑かれて、フルートを殺そうとしたんだと思うの……」
フルートは優しい目でポポロを見つめました。
「白い石の丘に行ってくれるね? ゼンたちと一緒に」
すると、少女は首を横に振り、目を見張る少年たちに言いました。
「ルルが呼んでるのよ。どうしても、あたしが行かなくちゃダメなの……」
フルートはポポロを説得しようとして、何故だかことばを飲みました。ポポロは透きとおるほど青白い顔をしながら、じっと少年たちを見つめています。そのまなざしは澄んでいました。――あんまり澄み切っていて、見るものを不安な気持ちにするほどです。
すると、ポポロが言いました。
「本当は、みんなを手助けしたかったわ。あたしの魔法で……。あたしも、みんなと一緒に闇と戦いたかった。だけど、あたしの魔法にみんなを巻き込んでしまうわけにはいかないものね――」
なんだ、と言うようにゼンが肩の力を抜きました。ポポロが丘へ戻る決心をしたのだと思ったのです。けれども、フルートは眉をひそめました。ポポロの様子は変です。あまりにも静かで、落ち着きすぎているのです。
すると、少女が続けました。
「あたしの中に闇が見つけられないから、あたしは闇を追い出すことができないの。だから、あたしは自分の魔法を封じるわ。ごめんね。あたし、みんなの役に全然立てなくなっちゃうんだけど――これしか、一緒に行く方法がないのよ。魔法さえ使わなかったら、あたしがフルートを殺そうとしたって大丈夫よね? フルートもゼンもとても強いものね」
少年たちは驚きました。
「魔法を封じるって……どうやって?」
「自分に魔法をかけるの。魔法を忘れてしまう魔法。そういうのも、できるのよ」
そう言って、ポポロはにっこり笑いました。悲しくなるほど透きとおって、はかない笑顔でした。フルートはますます不安になって、思わずポポロを引き止めようとしました。
すると、ゼンが肩をすくめました。
「そりゃ無理だろう? だって、おまえの魔法はせいぜい数分しか続かないんだぞ」
ポポロはそれには答えませんでした。ただ、もう一度少年たちに、にっこり笑ってみせると、自分の右手を頭上に高く差し上げました。黒い衣の袖が下がって白い腕があらわになります。その細い手首には、金と銀を流し込み、黄色い石をはめ込んだ腕輪が光っていました。
「継続の腕輪!」
とフルートは思わず声を上げました。賢者のエルフが与えた、魔法の道具です。たった一度だけ、ポポロの魔法を継続させる力を持っています。――石が壊れるまで、ずっと永久に。
ポポロが呪文を唱え始めました。
「ローレスワオウホマーガワニメタルージウフオラカチ……」
「やめろ!」
とフルートは叫びました。ゼンはまだ、何が起きているのか理解できずにたたずんでいます。フルートは飛び出していって、ポポロの魔法を止めようとしました。ひどく不吉な予感がして、息が詰まりそうになります。
けれども、その時ポポロの呪文が完成しました。
「……ローレスワテベス!」
少女の指先に星のような光が集まり、ほとばしって天に上ります。少女の腕輪の石と同じ黄色く澄んだ光です。それは上空でふいに向きを変えると、まっすぐ少女に向かって降りかかってきました。抱きついて止めようとするフルートの目の前で、ポポロの体が黄色い光に包まれて輝きます。
とたんに、ポポロがばったり倒れました。地面の上で動かなくなってしまいます。
「ポポロ!!」
「ポポロ! おい、ポポロ!?」
フルートとゼンは真っ青になって少女に駆け寄りました。メールとポチも驚いて駆けつけてきます。何度も揺すぶると、黒衣の少女は目を開けました。緑の宝石のような瞳が、のぞき込んでいる子どもたちを見回します。
「よかった」
安堵する子どもたちの前で、ポポロがゆっくり体を起こしました。緑の瞳を大きく見張ったまま、自分がいる荒野を見回し……ひとりごとのように、こう言いました。
「ここ、どこ?」
ひどく不思議そうな声です。フルートたちが思わず目を見張ると、ポポロがまた彼らを見て、今度はこう言いました。
「あなたたちは誰?」
フルートもゼンもポチも、思わず凍りつきました。ポポロ、何を言っているの? と尋ねようとしますが、驚きのほうが先に立って声が出せません。やっとのことで、ゼンが言いました。
「ったく……なにをふざけてんだよ、ポポロ!」
ゼンとしてはいつものような口調で言っただけだったのですが、とたんに、ポポロはびくりと身をすくませて堅くなりました。本気でおびえた目でゼンを見ています。ゼンは思わずかっとなりました。
「おい、おまえな――!」
とポポロに詰め寄ろうとしたとたん、間にメールが割って入ってきました。
「待ちなよ、ゼン。あたいに質問させて」
そして、メールはおびえて震えているポポロに向き直ると、上背のある体を曲げて少女をのぞき込みながら、こう尋ねました。
「ねえ、あんたさ――自分の名前がわかるかい?」
少年たちは意外な質問に目を見張り、ポポロの答えを聞いて、愕然としました。ポポロは、え? と考えるような顔になると、こう言ったのです。
「わからないわ……覚えてない。あたし……あたしは、誰なの?」
ポポロの強力すぎる魔法は、彼女の中の魔法だけでなく、すべての記憶までも忘れさせてしまったのでした。