風の犬のポチに乗ったフルートが、渦王の隣へ飛んでいきました。手には輝く光の剣を握っています。
その後を追おうとして、ふと、ゼンはマグロの手綱を引きました。風の犬に乗った少女を振り返ります。
「ポポロ、これを預かっていてくれ――」
そう言ってゼンが胸当ての内側から取りだしたのは、小さな緑色の二枚貝でした。それを手のひらに受け取って、ポポロは目を見張りました。
「これ……人なのね。貝にされちゃってるんだわ」
「渦王の王女のメールだ」
とゼンは言いました。優しいまなざしを貝に向けています。
「俺が持っていると戦いに巻き込んで壊しちまうかもしれないからな。ポポロが持っていてくれれば安心だ」
「わかったわ」
少女はうなずいて小さな貝を手の中に抱くと、改めてゼンを見つめました。
「気をつけてね」
「おう」
ゼンは照れたように片手を上げると、すぐさまマグロを返してフルートたちのほうへ向かいました。
彼らの目の前の海に、海底から黒い影が浮かび上がってきました。長い巨大な影――エレボスです。水音と共に海面に浮上してきて、鎌首を高々ともたげます。体の中ほど近くまで裂けた大きな口で、天に向かって鋭く吠えます。
その背の上の魔王が、フルートの持つ光の剣を見て顔つきを変えました。
「こしゃくな天空王め! だが、何を使おうが、このわしにかなうはずはない!」
ことばと同時に、海の水が大きく盛り上がり、津波のような勢いで、どっと襲いかかってきました。空にいるフルートとポチまで飲み込みそうな大波でした。
ところが、渦王が気合いと共に片手を上げると、大波が凍りついたようにぴたりと止まり、次の瞬間、その場に崩れ落ちました。とどろきと共に猛烈な水煙が上がります。
その様子を見て、魔王は憎々しい顔になりました。海王から手に入れた海の力だけでは彼らに勝てないと、改めて感じたのです。エレボスの背から空中に向かって呼びかけました。
「来い、呪われし場所にさまよう魂どもよ! おまえたちの恨みと嘆きで、こいつらを食らいつくすのだ!」
とたんに、あたり一面を飛び回っていた白い幽霊たちが、ものすごい勢いで魔王の元へ集まり始めました。ひゅうひゅう、ごうごうと風を切る音のように聞こえるのは、幽霊たちが上げる悲鳴と嘆きの声でした。魔王の目の前の海に飛び込み、海面をまた真っ黒に染めていきます。
「何かが出てくるぞ!」
渦王が警戒の声を上げたとたん、海面が大きく盛り上がって、水中から巨大なものが現れました。もつれ合った黒い海藻の塊――死の藻の浮島です。今まで見たどの浮島よりも大きくて、見上げるような高さがあります。
と、そこから海藻が飛んできて、空中を飛ぶポチを捉えようとしました。ポチがすばやく身をかわすと、さらに伸びて、風になっているはずのポチの体に絡みついてきます。
「ワン!」
ポチは振り切れなくて、思わず声を上げました。ただの海藻ではありません。たくさんの悪霊たちが死の藻と一体になって、姿なきもの、形なきものまで捉えられるようになっているのです。
「ポチ!」
フルートはポチの背中で振り返りました。絡みつかれている場所は、ポチの長い体のはるか後ろのほうで、光の剣が届きません。
「金の石!」
とフルートは叫びました。
とたんに、天空の光の中で力を取り戻した金の石が、澄んだ光を放ちます。それに照らされたとたん、ポチに絡みついた死の藻は溶けて崩れ、海に落ちて消滅していきました。
すると、浮島全体が、ざわりと震えました。海藻の間から、突然無数の黒いものが飛びだしてきます。フルートたちは不意を突かれて立ちすくみました。それは魔王が撃ち出すのと同じ魔弾でした。何万という黒い光の塊が、勇者たち目がけて押し寄せてきます。
フルートの胸でまた金の石が輝き、光のバリアでフルートとポチを包みました。魔弾はその表面で砕け散っていきます。
けれども、海上にいるゼンとマグロには魔法の弾を防ぐ力はありません。降りそそいでくる魔弾に、まともに打ちのめされそうになります。
「ゼン!」
フルートとポチが思わず叫んだとたん、彼らの前の海から、青いものが立ち上がりました。輝く水の壁が、海面に浮かぶ泡のように、すっぽりとゼンとマグロを包み込んでしまいます。魔弾はその表面で砕けて消えていきました。
海上に立つ渦王が、魔王に向かって笑っていました。
「忘れるな。ゼンにはわしがついている。おまえの思い通りになどさせんぞ」
渦王がゼンたちの周りに水のバリアを張ったのでした。
死の藻の攻撃はますます激しくなっていました。浮島から絶え間なく魔弾が撃ち出され、触手のような海藻があたり構わず飛んできます。フルートたちは攻撃を防ぐのに手一杯になって、まったく敵に近づくことができません。
すると、突然水中からエレボスが現れ、渦王に襲いかかってきました。
それをかわした渦王は、魔王に向かって皮肉っぽく笑ってみせました。
「わしを殺してしまってはまずいのではないか? わしが死んだら、海の力は手に入らなくなるぞ」
エレボスの背中から、魔王が黄色い目を剣呑に光らせながら答えました。
「海の力なら、すでに海王からいただいたわ。きさまの力はなかなか扱いにくそうだ。この際、きさまを倒して、海王の力で海を制圧することにしたぞ」
そう言うなり、魔王はエレボスから飛び下りました。渦王と同じように海の上に立ち、駆け寄りざま渦王に切りかかって行きます。ゼンに海の剣を貸し与えた渦王には、武器がありません。
すると、渦王が魔王に向かって手を伸ばして叫びました。
「来い!」
とたんに、その手の中に黒く長い矛が現れました。魔王が渦王から奪っておいた海の矛が、一瞬のうちに渦王の元に戻ったのです。その柄で魔王の剣を受け止め、押し返します。
剣と矛がぶつかり合う音が再び海の上に響き始めました――。
ポポロはルルに乗ったまま、固唾を呑んで戦いを見守っていました。
海ではゼンとマグロが、空中ではフルートとポチが、それぞれに死の藻と激しく闘っています。そして、渦王と魔王は、海の上で一騎打ちを繰り広げているのです。
すると、その手の中でかすかに動くものがありました。同時に、激しく扉をたたく音が聞こえたような気がします。ポポロは、はっとして手を開きました。
手のひらの上で、小さな緑色の貝が震えていました――。