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第3巻「謎の海の戦い」

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第14章 決戦・2

52.絶体絶命

 風の犬のポチは、きわどいところでフルートを背中に拾い上げました。空から落ちてくる獲物をつかまえて引き裂こうとしていた死の藻が、ポチの体に絡みつきます。が、風の体を捉えることができなくて、空しく空中から落ちたところを、仲間の海藻たちにいっせいに襲いかかられました。海藻同士が絡み合い、引きちぎり合いを始めます。相変わらず貪欲でどう猛な海藻です。

 一方のゼンは、光の矢で消しても消しても復活する死の藻に、ついにかんしゃくを起こしました。海藻を素手でつかむと、大声と共に、太い海藻を引きちぎってしまいます。マグロの体を包み込もうとしていた海藻も、全部引きむしり、海面に投げ捨てます。すると、そこへ他の海藻がどっと群がり、また引きちぎり合いが起こりました。ちぎれた藻が絡み合って、たちまち海藻の浮島ができあがります――。

「ワン、フルート、大丈夫ですか?」

 とポチが心配そうに尋ねました。フルートはポチの背中にぐったりともたれかかったまま、身動きさえできないでいました。全身が鉛のように重く感じられます。

「力が入らないんだよ……金の石に引きずられそうだ……」

 やっとのことで、フルートはそれだけ答えました。

 何百という幽霊に飛び込まれた金の石は、真っ黒い闇の色に染まり、フルートの首からぶら下がっていました。巨大な岩の塊でも下げているように重く感じられます。そして、本当に体中に力が入らないのです。力という力が、すべて石に吸い取られ、底をついてしまったようでした。

 ポチは不安そうに横目でフルートと金の石を見ました。どうしていいのかわかりません。助けを呼ぼうにも、ゼンはマグロと共に海面で死の藻と格闘中です。空中には、まだ数え切れないほどの幽霊たちがいて、ものすごい速さで飛び回っています。ポチは正面から襲いかかってくる幽霊たちをかわすと、海に向かって吠え出しました。

「ワンワンワン……渦王! 渦王!!」

 海底で魔王と戦っているはずの海の王に、助けを求めます。

 

 すると、海面にごぼごぼと泡が立ち、水中から人が現れました。まるで地面に立つように、海面に立ち上がります。

 一瞬期待と喜びで目を輝かせたポチは、次の瞬間、愕然としました。それは青と白の鎧兜の渦王ではなく、黒づくめの服を着た魔王の大きな姿だったのです。魔王は黒い水蛇のエレボスの上に立ち、驚いている子どもたちにむかって、にやりと笑いました。

「わしで申し訳なかったかな? 渦王は海底で動けなくなっておるよ。力をわしに譲り渡したからな。これで、わしはすべての海をこの手に収めたのだ――!」

 高らかに魔王が笑います。ゼンはマグロの背中で歯ぎしりをしました。

「嘘だ! またはったりを言ってやがるな!」

「では、これは何だ?」

 と魔王が掲げたものを見て、子どもたちは再び愕然としました。それは、渦王が使っていた黒い長い矛でした。

 魔王はそれをいきなり空のフルート目がけて投げつけてきました。風の犬のポチがかわします。すると、矛は空中で音もなく向きを変え、背後からフルートたちを襲ってきました。気配に振り向いたフルートの顔をかすめて、また魔王の手に戻っていきます。フルートの左の頬から赤い血が流れ出しました。いつものように傷が治っていきません。闇に染まった金の石は、癒しの力も失ってしまったのでした――。

 突然、フルートの全身を火のように熱いものが駆けめぐりました。体中が燃えるように熱く、その芯で心臓が氷のように冷たくなっていきます。

 あえぎだしたフルートを見て、魔王が満足げに、またにんまりしました。

「渦王の海の矛には毒が仕込まれているのだ。金の石は力を失っている。もはや助かる術はないぞ、フルート」

 フルートは返事ができませんでした。胸が締めつけられるように苦しくなって、息を吸うことができません。思わず鎧の胸元をかきむしり、ポチの背中でのたうちましたが、それでも呼吸は楽になりませんでした。

「ワンワン、フルート! フルート!」

 ポチが叫びました。ほとんど泣き声です。

「こ……ンのやろう!!」

 ゼンがマグロと共に魔王目がけて突進していきました。エルフの弓に光の矢をつがえます。

 すると、いきなり海中から、がばぁっと巨大な口が現れました。何万という歯がずらりと並んだ奥に、暗い底なしのトンネルが見えます。エレボスが口を開けたのです。と、次の瞬間、エレボスは音をたてて歯をかみ合わせました。マグロとゼンの姿が、あっという間に、その中に消えていきます――。

 

 エレボスが満足げに長い首を振り、たった今食べた餌を味わうように、その頭をもたげました。

「ゼン! ゼンーッ!!」

 ポチは悲鳴を上げました。海のどこを見回しても、ゼンとマグロの姿は見えません。本当にエレボスに食われてしまったのです。

 ポチの背中でフルートがうめきました。脂汗を流し、目も意識もかすんでいく中、それでも炎の剣を握りしめ、ポチに突撃の合図を送ります。ポチは、すぐさまエレボスに向かって急降下を始めました。

 すると、魔王が楽しげな表情でそれを見上げました。

「愚かだな、フルートよ。気力と意気込みだけで戦いに勝てるものか。負けるもんかと唱えるだけで勝つことができるなら、誰も敗北などするはずもない。現実というものを思い知れ」

 魔王の手がポチに向けられました。魔弾が次々に発射されてきます。闇に染まった金の石は、光のバリアを張ることができません――。

 黒い魔法の弾がポチの体を貫通しました。物理攻撃は苦もなく素通りさせる風の犬も、魔弾はまともに食らってしまいます。ポチの体は穴だらけになり、そこから青い霧のような血を噴き出しながら空から落ち始めました。と、その体がみるみるうちに縮み始め、子犬の姿に戻ってしまいます。白い毛並みは血に真っ赤に染まっていました。

 フルートは苦しい息の中で必死に腕を伸ばし、落ちていくポチの体をつかまえました。けれども、そのフルート自身もまっさかさまに空から落ちているのです。ポチはぐったりと目を閉じてしまっています。フルートは、落ちながら、子犬を守るように胸の中に抱きしめました。それ以上、できることは何もありませんでした。

 

 すると、薄れていくフルートの意識の中に、鮮やかな紅い色が広がりました。血の色です。

 悪夢の場面が、瞬間瞬間のひらめきになってよみがえってきます。エレボスにかみ裂かれ、魔王の魔法に攻撃されて、仲間たちが血まみれで倒れていきます。幻の中で仲間たちが流す血が、さらに鮮やかに紅く幻を染めていきます。いえ……それは幻ではありません。本当に、腕の中に抱くポチが流し続けている血でした。

 幻の中で仲間たちがエレボスの口の中に消えていきます。何度も何度も、見せつけるように、ドラゴンは仲間を飲み込んでいきます。そして、それは現実の光景でもありました。ゼンはマグロと一緒に、水蛇のエレボスに飲み込まれてしまいました。その姿はもう、海上にはありません……。

 ふうっとフルートはため息をもらしました。それは肺に残った最後の空気でした。薄れて暗くなっていく意識の中で、フルートは悲しくつぶやいていました。

 ごめん……守り切れなくて、本当にごめん……と。

 

 すると、突然幻の光景が変わりました。

 色とりどりに咲き乱れる花野が広がります。日の光が暖かく降りそそぎ、優しい風がむせかえるような花の香りを運んできます。

 その中に一人の少女が立っていました。赤い髪をおさげに結い、星の衣と呼ばれる黒い長い服を着ています。咲き乱れる花野の中で、少女の姿はひとしずくの闇のようでした。星の輝きを身の内に秘めた、鮮やかで美しい姿です。

 フルートがぼんやりとそれを眺めていると、少女が小首をかしげて見上げてきました。

「どうしたの、フルート? 何かあったの?」

 ずっと聞きたかった声が、優しく尋ねてきます。宝石のような緑の瞳が、不思議そうにフルートを見つめています。

 フルートは思わずほほえむと、首を横に振って見せました。

「ううん、何でもないよ……何でもないんだ」

 少女はますます不思議そうにフルートを見上げました。その姿を、フルートは幸せに感じながら見つめていました。少女は血に染まってはいません。清らかな姿のまま、花野に立っています。それは、フルートがどうしても守りたかった姿でした。どんなことがあっても、たとえ自分がどんな目にあっても、絶対に守り抜きたかった小さな姿でした……。

 急に少女が何かを聞いたように振り返りました。フルートには何も見えません。けれども、少女は花野の向こうを見て言いました。

「あたし、もう行かなくちゃ」

 優しい微笑みを残したまま、少女は駆け出していきました。赤、青、黄、白、紫、ピンク、緑……あらゆる色合いが入り混じり、一面に咲き乱れている花野の彼方に、少女の姿が遠ざかっていきます。それを引き止めようとするように、フルートは手を伸ばしました。差し伸べた指の向こうで、少女の姿はどんどん小さくなって、見えなくなっていきます。フルートは、思わず声に出して少女を呼び止めました。待って、ポポロ――と。

 

 海に向かって落ちながら、ポチはふっと目を開きました。全身がバラバラになりそうなほど痛んでいます。体中を魔弾に撃ち抜かれたのですから、当然です。

 痛みと出血でよく見えなくなっている目で、ポチはフルートを見上げました。フルートはすでに意識を失っています。なのに、それでも、金の鎧を着た胸の中に、ポチをしっかり抱きしめているのです。少しでも守るように。最後の瞬間まで、身を挺してかばおうとするように。

 すると、気を失っているように見えたフルートの唇が、わずかに動きました。声にもならない小さなつぶやきが漏れ出ます。それは、誰の耳にも届かない、あまりにもかすかな声でした。それでも、ポチの目には、フルートがなんと言ったのかがわかりました。

「ポポロ」

 フルートは、天空の少女の名を、最後の最後に呼んだのでした。

 

 とたんに、まばゆい光が空にあふれました。空をおおう暗雲が割れ、そこから光と共に天使が舞い下りてきます。まっすぐフルートとポチを目ざして飛んできて、光の中に彼らを包み込みます。

 その天使は、鮮やかな黒い服を身にまとい、黒い大きな翼を広げていました――。

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